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日本の街ん中で
自転車がどないされとるんか

現在日本の,とりわけ都市部において,自転車を利用するにあたって,利用者が直面しとる問題や情況について考えて,その役割に見合(お)うた社会的地位の確保,すなわち市民権の獲得,を展望していこちうわけや。

都市における自転車利用の意義

一般に,自転車利用の目的としては,スポーツ・レジャーその他の趣味的用途や競技的用途もあるけど,ここでは,都市生活における日常的移動手段としての面に焦点を当ててこっちうわけや。これこそが,わてら市民にとっていちばん身近で切実な問題やからな。

利用者に対して

自転車を,オノレの力だけでもっとも遠くへ速(はよ)う行けるさかいに,人類最大の発明やと言うた人がおる。今更いえうまでもおまへんやろが,自転車利用の意義ちうたら,まず利用者側の経済性,自由性,健康維持やらなんやらがあげられまひょ。

経済性ちうたら,購入価格,維持費が安いいえうこっちゃ。もっともきょうび,総体的に購入価格が安(やす)なっとるんは歓迎でけることやけど,中には粗悪なもんも見られよる。こないなもんは利用者その他にとって危険を及ぼす恐れがあるだけやのうて,えてして長期の使用に耐えられへん物もあり,使い捨て同然の扱いされて,その分,自転車に対する犯罪(損壊・窃盗やらなんやら)に対する罪の意識の低下,ゴミの増大ちう問題すら生み出してん。

維持・管理面では,個々の部品レヴェルで,メンテナンスフリー化がある程度進んどるとはいえ,その維持のために人手をわずらわせることは避けられへんのや。それをこれまで主に引き受けてくれはったのが,なんちうか,ようみなはんいわはるとこの街の自転車屋はんや。大概は個人経営の商店やさかいに,これまた例にもれんと,スーパーやら量販店(わてらはよう「バッタ屋」ちうけど)におされて,経営は楽やないトコロが多いちうわけや。ちーとばかしの修理やらなんやらを気軽に頼みにくうなっとるのが現状やな。となったら,長(なご)う乗れるように,最初にちいと余計(よけ)に張り込んで,オノレで修理・整備の知識と技術を身につけることが,当面の自衛策ちうことになりまひょ。

自由性についていうたら,交通法規等による制限がちびっとやちうことがまず挙げられよる。当然運転免許も要らへんし,通行止め・一方通行やらなんやら,自動車に要求されてても,歩行者・原付と一緒に自転車も除外されることが多いことやらなんやらを見れば明らかや。経済性とあわせて,この自由性のおかげで,よりようけの市民にとって身近で利用可能な存在になっとるんや。

よりようけの市民にとって便利良(よ)う利用できることを,自転車利用の意義として忘れてはならへん。オノレの意志に従(したご)うて自由に移動する権利--今日ではこれを「交通権」ちうて主張されることが多いけど,むしろそれよりもどエライ昔っからの自然権レヴェルで捉え,その一環として,より根っこの深いもんとして理解すべきやろ--を現実化・具体化する上で,自転車が最も有効な手段の一つやいえうことを意味してんねんや。ある意味でオノレの力を最大限に発揮する手段やちうことは,人間の尊厳に目覚めさせる機会をももたらすことを意味するちうわけや。こないなスピリッチュアルな面にも眼を向けてもらいたいもんや。ほんでから,肉体的な健康も増進する効果もあるんや。適度な運動量--とりわけ有酸素運動--を,限られよった時間と実用性の中で確保できるさかいや。

市民と環境に対して

もちろん利用者自身以外にとっても自転車利用の意義はあるんや。特に技術面と環境面をあげておきまひょ。

自転車をつくる技術は,ハイテクなんかローテクなんかちうたら,その両方やし,また両者の融合によって成り立っとるちうべきやろ。自転車製作において最も基本的にして必要なことは,鉄やらなんやらの金属でパイプをつくることや。今日的にはハイテクとはいえへんけど,かつてはハイテクやった。前近代日本でそないな技術を発達させとったんは鉄砲鍛冶やし,その技術の転用が,日本の自転車産業の草創期を支えとったちう歴史があるんや。またこら別の見方をしたら,軍事技術の平和利用の一番(いっちゃん)うまいこといえった例の一つやいうても言い過ぎやおまへんやろ。

軽量化,性能の向上のためには,新素材の使用,その加工技術の開発・向上,コスト低減やらなんやらが常に要求され,そのためには先端技術が必要やし,今日でもやっぱり自転車にはハイテクが詰まっとるといえるんや。自転車利用の促進が,IT関連やのうて,こないなモノつくの技術の向上・進歩を促すことの意義は大きいといわなならへん。

環境面でのメリットは,当然にも無公害やさかいに最早説明の必要はあるまいちうわけや。蛇足ながら付け加えんねやったら,自転車によって移動するんに要るエネルギーは,歩行時の1/5,自動車の1/10ちうから,ごっつう高いエネルギー効率やねん。移動手段を自転車に切り替えるメリットとしては,Co2の低減や移動時間の短縮以上のもんがあるいえうことを示してん。もっとも走行時に排気ガスやらなんやらの公害を出さへん自転車も,製造時にはぎょうさんのエネルギーを消費してん。従ちう,粗製品の濫造や使い捨て的な利用法が横行しよったら,その分環境面のメリットが減ってまうんや。

権利主体の確立と自由性の確保

自転車利用のメリットを活かすためには,市民の意識向上と社会的環境整備が必要なんや。ほんでまず問題になるのが,自転車が正当な社会的地位と理解を得ておらへんちう現状なんやし,それを勝ち取ることが緊急にして重要な課題なんや。

今更いえわんでもええやろけど,自転車の購入・利用に際しては当然にも,社会的(法的・道義的)に義務と責任を負わされとる。購入時には本体価格以外に,消費税と防犯登録手数料がかかるちうわけや。「防犯登録」いうても事実上は自動車・バイクのナンバーと同(お)んなし様な意味ちうわけや。また自転車に乗っとる時に他人やその財産に損害かましてもうたら,当然にも行政・民事・刑事処分の対象にならなあかんし,ほんでから賠償等の責任も負うてまうわ。道義的にも法的にも,程度の差こそあれ,義務と責任を免れるもんやおまへんことは明らかや。

となったら,そないな義務や責任に見合(お)うた分の権利を主張する根拠と必然性は自明や。交通法規や道路・駐輪施設やらなんやらのインフラ整備を求めるだけやったら,こないな観点からの主張で十分や。やけどこないなやり方はいっぺんに,自転車に対する様々な制約を増やしてもうて,自転車利用のメリットの一つである自由性を損なう危険性もあることを忘れてはならへん。さらにようけの人にとって利用可能であるちうメリットにも邪魔が入りよるちうわけや。ほんで,法的・制度的権利確立と一緒に,それに拘束されへん部分を減らさんようにして,それを両立したって,さらなる利便性向上を目指すことが,最低必要なんや。

一般に,制約が増えるゆうことはそんだけ多様性に対する寛容も無(の)うなってまうちうわけや。人種・民族・年齢・性別・健康状態・生活習慣やらなんやらが違(ちご)とる色んな人が集まっとう都市においては,こら重大な損失と危険が伴うことを忘れたらあかん。従ちう,自転車利用における自由性は,他の諸権利と同様に守られねばならへんもんなんや。ほんでまたその自由性の主張は,都市における多様性とそれに対する寛容を陶冶・発展させてゆく,うちら市民の自己変革の過程と結合したもんやないとあかん。すなわちこれを媒介として,単なる両立のレヴェルを越えた,弁証法的展開を目指すべきなんや。

あちこちで見られる自転車へのイケズ

自転車で街を走ってみたら,ごっつうイケズされとんのに気づく。またこないな否定的情況は,この20年ほどの間ますますえげつなっとんねん。しかもこないなやり方言うたら,日本以外では見られへん,世界的には異常なもんがほとんどで,狂気の所産とすらいえるもんもあるんや。

コトバがつくる自転車虐待

日頃ようけの人が無自覚に使うとる用語が,自転車に対する正しい理解の邪魔しよるだけやのうて,不当なイケズに手を貸してんことがあるんや。そないな不当な用語のうち,代表的や思われる4つの例を挙げておきまひょ。特に前2者は,使われることが多い割りには,その意味についてきちんとした分析がなされることがほとんどあらへん。読者のみなはんもここでしっかり考えたってや。また,概念と定義をようわかるようにせんまんまでの議論は消耗をもたらすにすぎへんし,こないな前提からの論理構築は,砂上の楼閣以外のなあんものも築き上げることはでけしまへん。

1)「放置」

街で自転車を止めた時,時と場合によっては「『放置』自転車」って呼ばれることがあるんや。わざわざ人出の多い商店街や駅やらなんやらの前に要らんようになりよったり,使えんようになりよった自転車をホりにいく者(もん)はまずおらへん。当然のことやけど,自転車一台一台にはそれぞれの利用者の目的があって,その結果そこに存在するんや。要は「『放置』自転車」とは,「放置」ちう言葉の通りの存在ではおまへんちうことや。人出の多い場所やらなんやらを,条例に基いて「駐輪禁止区域」に定め,その区域内に置かれとるもんに対してこないな風に呼んどるにすぎへん。しかも,条例自体は地方議会の議決によって制定されても,実際の区域指定には議会の同意は要らへんし,行政の一方的裁量によって決められてまう。単に乗り手がその場を離れた自転車があるちうだけでは,「『放置』自転車」とは呼ばへん。よってこら存在論的概念やのうて,政治的概念やいえうことや。

日頃よう目や耳にする用語やけど,その内実について,きちんと分析せなあかんことがあるのを忘れたらあきまへん。こないなことに無自覚になっとるうちに,自転車に対する軽視・敵視の念が生じてまうことになるちうわけや。言うてみたらやな,そんだけ「放置」ちう言葉に振り回されとるちうことや。

こないな風に,利用者の目的によって置かれとる自転車を「『放置』自転車」と呼ぶことによって,それが利用中の,また利用されなあかん,生活必需品や個人の財産であるちう意識を希薄にしてんことを示す例はえらいぎょうさんや。例挙げたろか,たとえばやなあ,自転車をぱくった場合,通常のドロボーと同様「窃盗」に問われると普通は考えるやろ。せやけどダンさん自転車の場合,少なからざる場合において「占有離脱物横領」とされるんや。こら簡単にいうたらドロボーやのうてネコババに対する罪なんや。防犯登録票がなかったり,名前やらなんやらを書いていへんかった場合にそないされるんやけど,これに加えて「『放置』自転車」と見なされた場合もそないな風に扱われるちうわけや。これらの場合は“盗み”やのうて,道で拾った財布を警察に届けんと着服したのと同じ罪にしか問われへんのや。もちろん,自動車やその積荷やらなんやらを奪った場合,窃盗罪に問われることはいえうまでもあらへん。参考までに刑法の条文を挙げておくと;

第二百三十五条 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役に処する。

第二百五十四条 遺失物、漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は、一年以下の懲役又は十万円以下の罰金若しくは科料に処する。

2)「撤去」

「放置」されたと見なされた自転車が次にされるのが「撤去」なんや。違法駐車された自動車をレッカー移動する場合に「撤去」とはいわへんけど,自転車だけに,このキテレツな語が用いられとる。しかもこの「撤去」ちう語は,通常固定物に対して用いられよるもんなんやし,移動体である自転車に対して用いることは,辞書的意味からしたかて不自然や。この場合,個々の自転車についてやのうて,これらを総体として,都市景観における障碍物と見なし,その排除をはかるゆう,行政側の意識の反映と理解するんが適当やろう。ゴチャゴチャゆうとる場合やあれへん,要は,行政側・権力者(エライさん)の意に沿わへんもんがあるんが目障りやいえうことなんや。

3)「移送」

「撤去」した「『放置』自転車」を保管場所にもっていくことを「移動」と呼ぶことが多いが,一部の自治体ではこれを「移送」と呼ぶ。辞書的意味ではほとんど変わらへん2つの語やけど,その使われ方には決定的な違いがあるんや。後者のみを使う用例としては,逮捕された犯罪者・容疑者の身柄に対してのもんがあるんや。「逮捕された××容疑者が,○○警察署に移送された」ちうのがそれや。意識的にせよ,無意識的にせよ,犯罪者同然の扱いと見方をしてんことの証左なんや。

4)「集積」

もってきよった自転車を置いとく場所を「保管所」・「保管場所」と呼ぶのが普通やけど,一部の自治体(もちろん「移送」とかぬかすトコよりはちびっとやけど)ではこれを「集積所」とぬかしよる。これが「ゴミ集積所」やらなんやらちうのと変わらへんもんやちうことは,もう説明要らんやろう。自転車をゴミ扱いするゆう,言葉による自転車イケズの極めつけや。

現在,「『放置』自転車」とかいえう用語を当然視し,それについての疑念をもってへん人は少なないやろう。やけどそないな無自覚が,自転車の利用に支障を生み出してんだけやのうて,自転車及び利用者に対して不当な境遇に甘んじることを強要してんといわねばならへん。「『放置』自転車」は「撤去」されてもしゃあないとか,「『放置』自転車」=‘悪’ちう意識を,お互いに“刷り込み”合(お)うとることを,さらにはマインド・コントロールし合(お)うとることを意味するんや。直接的には,世界に類例を見いひん日本の貧困かつ冷酷な自転車政策とやな,この前提となるトコの,自転車及び利用者に対する権利主体としての認識の欠如によるもんなんや。やけどその存続を許し拡大再生産してんは,他者である自転車及び利用者に思いを致すことのあらへん,精神の貧困に他ならへん。

(2001.1.25)

自転車敵視の意識:そないに自転車が目障りやろか?

日本では,1.7人に1台の割合で自転車をもってん。こら1人1台の割合であるオランダ・デンマークに比べれば低いもんの,世界的には決して低い方とちゃうんや。また保有率ちう点では,環境問題への関心の高さから,自転車利用に積極的な国に劣るわけとちゃうんや。やけど,人々の自転車に対する意識で,日本は他国に大きく後れをとっとる。

原因としてはいっちゃんはじめに,移動及び輸送手段としての自転車の地位が,他の交通手段に比べて相対的に低くなっとることが考えられよる。かつてやったら,自転車で移動・輸送しとったんが,バイク・自動車にとって代わられよった部分がありよる。このことが自転車利用者であるか否かに関わらんと,生活における自転車の必要性認識を低下させとることも否めへん。またこないな,化石燃料消費量の増大ちう趨勢を,経済規模拡大の所産として,無批判的かつ肯定的に認識してきたことについても,批判的に検討したらなあきまへん。

ちうてもこないなもんは,たしかに自転車を軽視する原因やけど,こんだけでは自転車を敵視する理由にはなんにくいちうわけや。ほんで先に述べた,世界に類例を見いひん日本の貧困かつ冷酷な自転車政策が問題となるちうわけや。国及び地方の行政わいによる自転車政策の犯罪性が,いっそう明らかになるちうわけや。

自転車自体の物理的要因も指摘できまひょ。自転車とその他の移動手段・方法との関係においては,その矛盾が被害・加害関係となって現実化する可能性が高いちうわけや。自転車利用中に事故におうた場合,自動車相手やったら被害者・負傷者になってまう(しかもごっつう一方的な度合いで)可能性が高いが,歩行者相手やったら,加害者になってまうことが多いんや。そやから,自転車を可能的加害者,すなわち自らに害を及ぼすかも知れへん存在と認識するんや。とはいえうもんの,このことは自転車敵視意識の一面を示すもんであっても,本質に行き当たるもんとちゃうんや。

そら,交通政策によって助長されたもんやちうわけや。現下の日本の交通政策・事情のもとで形成された,かかる意識と同様のもんが,世界中に普遍的に存在するとはあらへんからや。本来道路交通法やらなんやら,日本の交通法規のもとでは,自転車は車道を走るもんと規定されとるが,現実には交通量の多い車道を自転車が走るには危険やから,一定の条件下で歩道上の走行を容認してん。せやけど,実際にはこないな法令に反して警察官が自転車の歩道上通行を強制することが多いちうわけや。かくして歩行者をしてかかる意識を形成せしめることになるちうわけや。

自転車及び利用者に対する権利主体としての認識の欠如とともに,市民の自転車敵視の意識を助長する心理的原因として,身近な空間に容易に入り込むことへの,生理的抵抗感を挙げることができるちうわけや。オノレ自身の身体のすぐそばや身近な日常的生活区間に,他者が入り込んやり,その存在を意識させるもんがあることに対して,抵抗感をもつことは,人間に限らず動物一般において広く見られよることなんや。自転車はそれ自体の利便性のせいで,こないな抵抗感を惹起して,その対象となってまいやすいんや。とかく自転車に関する問題が,合理的根拠や客観的事実に基いて議論されへんことがようけあったり,感情論に走りやすいんは,まさにこのためなんや。「『放置』自転車」やらなんやらちう汚名もまた,そこから生まれよるんや。

その解決法は,自転車に対して理性の窓を開くことから始まるんや。

自転車蔑視の意識:生身のイキモノが動かしてどこが悪いんか?

自転車が出現しよってから現在までおよそ1世紀あんまり,現在のような形になってからは数十年しか経っておらへん。こら自動車・飛行機やらと大差あらへんもんや。このことは自転車が,化石燃料を利用する内燃機関を動力とする近代的交通手段と時を同じくして現れた,希少な生物動力による交通手段であることを意味するちうわけや。二酸化炭素排出による地球温暖化が問題とされ,化石燃料に代わる動力の実用化が求められとる中で,現在及び将来にわたって,自転車はさらなる役割を期待されなあかんもんや。

そやかて,期待されとるトコの化石燃料に代わるエネルギーは,燃料電池やらの化学的手段によるもんや,自然力であっても風水力・太陽光熱によるもんやし,動物及び人間自身といった生物によるもんともちゃう。このことは,動力・エネルギーについて,新たなもんが実用化されれば,これを新たな発展・進化と認識する一方で,従来のもんは旧い・劣ったもんとして顧みられなくなり,やがてホられていくゆう,時間的直線的な発展段階認識と,相互規定の関係にあることを意味するちうわけや。いわば自転車は,前近代的な,さらには未開・野蛮ちうた文明よりどエライ昔の段階のもんで,進化・発展の過程でホられよるべきもんで,かつそれが不可逆的であると意識されとるわけや。

エネルギー・動力ちう観点で,人間と動物をひとくくりにして生物動力としたんは,単に蒸気機関以降の化石燃料を利用した手段が用いられよる前からともに存在したからだけとちゃうんや。ともに上述のように意識されとるからや。このことについては,別の観点からも説明ができますわ。生物個体として行う日常的な活動が,他者の眼に触れることを忌避する傾向は,人間に広く見られよるもんやけど,近代的・文明化ちう尺度のもとでは,よりいっそう強化されるちうわけや。たとえばやなあ,ホームレスやらを見て嫌悪感を覚えるんは,彼らの行動が特異やからはなく,それが人目に触れることによるもんやちうことが,心理学・社会学において説明されとる。人力による移動の過程が,何らの被覆物もなく,衆人の眼にさらされる自転車での移動においても,同様のことがいえるし,自転車ちう物体が,それを想起させる記号と認識されるんや。こないして,自転車に対する敵視・蔑視の感情が生じるんや。

人間自身による動力・エネルギーは,化石燃料はもちろん,動物を利用するよりどエライ昔からの,最も原始的で,身近で,かつホることのでけへんもんなんや。その点では人力を超歴史的存在ともできるが,ほな現代における人力の意義を十分理解・評価したことにはならへん。歴史的観点からは,人力をかつてあらへんほどに極めて有効に利用にし,それまでにあらへん新たな意義を付与したことに,自転車の存在理由の一つがあるちゅえるんや。

以上のように,日本の都市で自転車が置かれとる情況を理解するためには,単に現象としてのそれを認識するだけでなく,それに対するわてたちの意識のありようについても,批判的分析を加えることが必要なんや。

(2002.3.10)