『自治体・住民の法律入門』で
おかしなこと書いとったで

日本国憲法によって,国民の権利が規定され,基本的人権の尊重がうたわれとるからというても,それだけではその趣旨が現実になることはあらへん。いろんな法規のなかで,わてたちの日常生活に身近なもんに行政法と呼ばれる一連の法律や,自治体が作る条例があるんや。当然にも法律は国会の議決を経て,条例は都道府県市区町村の地方議会の議決を経て制定されるが,その適用・実行は,行政わいの裁量にゆだねられ,その裁量の様態や結果については,立法府たる議会の関与するトコロやないし,司法の関与する余地もすくない。すなわち,わてたちにとってもっとも身近な法のあり方は,実質上国及び地方自治体の行政わいの独裁するトコなんや。

行政法の少なからざる部分を占めるんは,手続法なんやし,もんごとの本質や理念を直接読みとることが難ぎなもんなんや。やけど,それ自体やのうて,それによって何がどないな風にうたわれ,規定され,執行されとるかを,ねばりつよ読み解く必要があるんや。それがまさに主体としての市民の権利やし責務なんや。

わてたちがかかるもんに臨むスタンスを確立したトコロで,1冊の書物と向き合ってみたいちうわけや。

この書物をひもとくと,「住民の生活にかかわる法律相談」と題した�犠呂如ぁ屬�ょうだい一保育園ちう保障はあらへんんか」・「“いじめ”で公立から転校させらた場合の賠償責任は」・「駅前放置自転車の撤去を条例で定めることは」・「「要介護認定」の資料を民間サービス事業者にすべて渡してよいのだろうか」の4つのケースを例示してん。この例示そのもんとその採り上げ方に,著者の認識がもっとも端的に示されとるといえまひょ。子育てが難ぎになっとるなかでの少子化,急速に進行し深刻な問題を抱えとる高齢化ちう現代の日本の情勢からして切実といえる課題が,そのうちの3つを占めとる。それと並んで「“放置”自転車」を採り上げとることは,いささかけったいやといわなならへん。その観点と方法に到ってはなおのことや。

著者の「“放置”自転車」に対する認識はどないなもんか。駅前やらなんやらに見られはるそら「日本の都市に特徴的」なもんで「欧米先進国とちがって十分計画的な都市づくりをしなかった付け」やからあり「安全環境を大きく損なう“集積公害”」やちゅうて,自治体による“放置”自転車の「一せい「撤去」」が広まることを必然視・当然視(p9)してん。

こないな前提となる部分だけそやけど,いくつかの事実誤認と偏見が見られはる。確かに欧米先進国やらなんやらでは「“放置”自転車」やらなんやらちうことはあらへん。こら自転車が「放置」されておらへんのやのうて,自転車の存在が市民権を得とることを意味するんや。また都市計画というても,近現代になってから,既存の都市機能を分散させるため,新たにつくられはった郊外都市・ニュータウンやらなんやらを除けば,現代の生活に沿った都市計画がなされとるトコやらなんやら,皆無に等しおます。中世,場合によっては古代以来の街を,その時代情況に応じて利用してきたのや。人々の移動手段として自転車が広まってこの方1世紀ほどなんやから,それより街の方がふるうて当然なんや。逆に言うたら,自転車利用推進の立場であっても,都市計画から論じることがしばしば観念的な陥穽へと導くことがあるんや。

「安全環境」とは何やろか。駐輪自転車放逐の口実に,駅前やらなんやらを災害時の避難場所にするさかいちうのがあるけど,阪神淡路大震災や各地の水害の現場をいっぺんでも見れば,これがまるっきし意味をなさへんことが直ちに解るやろう。また狭いトコにようけの自転車が駐輪されて,歩行者が支障を感じることを誇張してこないな風にいう場合もあるんや。この場合,歩行者にせよ自転車にせよ,そこに存在するっちうことが,ともに合目的的行動の所産なんやし,一方だけに理があるんではおまへんことを忘れてはならへん。なんちうか、ようみなはんいわはるとこの暴走やら,他者に危害を加える目的での走行やない限りは。

これに続いて著者お得意の法律問答が示される(p9-10);
「[問い] 道交法のような国の法律でない市区町の条例だけで,住民の財産に強制措置をとることができるのか…」
「[答え] 「条例」は住民が選挙した議会がつくった法規(議会立法)で,その自治体の区域内では「法律」なみの効力を持つのである…」

この問いがいっちゃんはじめに,ことの本質を外した形で,いわば恣意的に設定されとるもんであることを見抜かねばならへん。しかも著者にいわせると,こないな問いは「自転車を強制撤去された人が“憤慨”」して出すもんやいうのや。もちろん,「自転車を強制撤去」するっちうことが明文化されとる一方,利用者の地位や権利を明文化したもんがあらへんから,法律論では前者が結果として正当化されるんは必然なんや。やけど明文化されておらへんことについて主張する存在を「憤慨」やらなんやらちうことを,正当化できるもんとちゃうんや。単なる侮蔑と偏見の所産でしかいないちうわけや。

条例が法律同様に拘束力を持つんはええとして,ほんならば同様に正当化根拠が要求されるちうわけや。その根拠,すなわち法源にあたるもんが,道交法やのうてなんちうか、ようみなはんいわはるとこの「自転車法」なんやし,それによって「撤去」が正当化されることを,著者は示してん(p10)。やけど,前提にして根本的なこと,すなわち同法が何を以て「“放置”自転車」とするかについては一切語らへんのでおます。時間のある読者の方には,直接六法全書を見はることをお薦めしょう。

その際,勘のええ方やったら,これとよう似た規定があることに気付くやろ。すなわち刑法の「占有離脱物」なんや。持ち主の手をはなれてすぐにはとりに戻れへん状態のもんをいうわけで,例あげたろか,たとえばやなあ道に落ちとる財布やらなんやらがほんで,これを拾って交番に届けへんかった場合「占有離脱物横領」となるちうわけや。すなわちネコババといわれるもんなんや。従って「窃盗」すなわちドロボーより軽い罪なんや。実際「“放置”自転車」とみなされるもんをぱくった場合,「窃盗」やのうて「占有離脱物横領」として処罰されるんや。こないな面からもそやけど,財産としての自転車は疎略に扱われとるんや。

本題に戻りまひょ。条例に基づきその適用範囲を設定するんは,専ら行政の裁量にゆだねられとるのやが,このことに著者は,ある粉飾を施してん。曰く「条例に基づき,ようけは住民参加の自転車駐車対策協議会をへて「放置禁止区域」が指定されているらば,そこでの放置は条例違反行為なので一せい「撤去」されるのは,むしろ地域の法的ルールだと言える」(p10)。
「自転車駐車対策協議会」とはどないな性格なんか,ちびっと考えただけでもケッタイなもんであることに気付くはずや。かかる「協議会」があってもこれに裁量権・決定権があるわけとちゃうんや。そこに参加する「住民」とはどないなもんなのちうと,当然選挙やらなんやらで選ばれた代表者やのうて,行政,場合によっては警察との連絡役的存在であることが普通や。いわば行政の翼賛機関や。まして「対策」の対象であるトコの自転車利用者の意見や立場やらなんやら反映されることやらなんやらあり得へん代物なんや。かくして一方的に排除・シカトした上でつくられはった「地域ルール」を,ただ強要してんもんでしかいないことを,著者は決して語ろうとはせん。

本節は著者が「標語」やてヌカしはる「ルール破ってエゴ自転車,ルール守ってエコ自転車」なるダジャレで締めくくられとる。シカト・抹殺のもとで作られはったルールやらなんやら,圧制の手段としてしか意味を持ち得へん。そないなトコからの主張を「憤慨」・「エゴ」としてしか受け止められへんようでは,進歩と寛容性を,個人の内面からだけやのうて,その所属する社会集団からも奪い去ってまうんや。

ちなみに本書の著者・兼子仁は,「全国自転車問題自治体連絡協議会」に肩入れして,自治体・行政わいによる自転車“対策”のための権限強大化をすすめてきよったヤカラや。

蛇足ながら付け加えれば,エコロジー・環境問題も現代の市民生活において重要かつ切実な課題やけど,本書ではこのダジャレ以外に採り上げられておらへん。たしかに「環境権」も現状では明文化された権利保障がちびっとや。それ故のシカト・欠落やろか。「自治体は,条例をはじめとす る自治立法や自治行政執行を通じて,すべての既存人権とともに新しい人権の制度的しくみづくりと現実化に努めなければならない」(p36)ちう文言も空々しいで。

自転車及び自転車利用者の地位は,法律の上でも条例の上でもやけど,市民権を得るように保障されたもんとちゃうんや。いわば行間を読む作業を通じて,このことが明らかになるちうわけや。せやけどそのことと,未権利状態におかれたもんに偏見をもってシカト・蔑視するっちうこととは別なんやで。

こないな侮蔑的・ファナティックな表現がおどっとるんは,本書全体のなかでこの一節だけや。このことは,好意的にいうたら,他の箇所の内容はまだ信用できるゆうことにもなるけど,逆に自転車及び自転車利用者に対する認識においては,重大かつ根本的な欠陥があることを,浮き彫りにしてんねんや。

兼子仁 著,岩波新書 2001年8月

(2001.11.17)