都市生活改善ボランティアとは?

すべての都市住民と環境に優しい都市生活のあり方を提言すること,このページを作った目的はここにある。以下,基本姿勢を概略的に述べていく。

多様性の中での共生−Multiplex Cultural pace

今日の都市,とりわけ日本の大都市において,我々が追求すべきことは,まず,我々一人一人をして,真に街の主人公としての「市民(citizen)」たらしめること,またその主体的自覚を持つことである。そして同時に,こうした我々のなかには,様々な存在があり,その差異を認めあった上で,共生することが求められるといわねばならない。さらにはそうした共生に積極的意義を見いだしていかねばならない。

「都市の空気は自由にする」

「都市の空気は自由にする」とは,本来中世ヨーロッパの都市について言われたことばだ。封建領主の支配下にあった農奴といえども,一旦都市にやってきて一定の期間と条件を満たせば,市民権が与えられ,かかるしがらみから解放され,自由と身分保証が得られた。自由が相対的にあるというだけではなく,多様な人々が同じ空間で共に過ごすこと,そして何よりもそうした人々が,被支配者としてではなく,街の主人公としての「市民(citizen)」たり得たところに,都市の存在意義があったといえる。すなわち「市民」とは,私たちが日常的に思っている以上に,多様性と主体性を含んだ概念であるといえよう。

文明が人類史上に出現して以来,東西古今に様々な都市が現れ,またあるものは消えていった。その中で「市民」主体のそれの歴史は,決して長くはないし,広範ともいえない。だがその中から,古代はさておき,比較的新しい時代に限っても,我々一人一人が主人公としての「市民」となるための教訓をつかみ取る材料には事欠かないといえる。

町衆・商人・江戸っ子

日本中世史上最大の兵禍・応仁の乱で灰燼に帰した京の街を再建したのは,朝廷や幕府やその他の武士でもなく,町衆と呼ばれる人たちであった。戦乱で自らの権威・権力を自壊せしめた支配者に代わって,自らが蓄積した富によって,そのイニシアティヴのもとで街をつくっていったのが彼ら「町衆」であった。ちなみに京の夏に欠かせない祇園祭を,今日あるような豪勢でマルチカルチュラルなものにしたのも,彼らである。このように,既成の権威の崩壊下にあって,「市民」的に成長した例が「町衆」であるといえる。これは,自らが築いた富をもとに,戦国の世にあって都市の自治を実現した堺商人とともに,記憶されるべきである。

再び体制強化された江戸時代にあっても,「市民的」成長の例を見ることは出来る。上方の商人もまた自らの経済的基盤を利用して,為政者の意向とは相対的に独立しながら主体的に,自らの街のあり方を形成していった。広範にのぼる町人文化もまたその所産である。

身分及び階層としての「町人」の枠組み内にあるのみならず,上から組織化されたものの中にも,自らの主体性を育んでいった例がある。明暦の大火後に下総・墨東の地に新たにつくられたのが今日下町と呼ばれている地域であるが,ここは当初から,政治都市的色彩の強い既成の江戸城下よりも,相対的に統制は緩かったという。町火消の組織化が行われ,いろは48組が誕生したときも,この地にはこれとは別に番号を振った組が作られている。永年にわたって培ってきた「江戸っ子」気質は,そのような上からの組織もまた,自らのものへと作りかえていき,今日ではそれが伝統文化を形成するに到っている。決してそれは,曲がったことが嫌いとか,宵越しの金は持たないとか,熱い湯に入るといったことだけで語るべきものではない。

「都市の論理」未だ成らず

こうした中近世日本の都市における市民的成長は,近代以降は継続されていない。市民的成長の上に立っての近代化ではもちろんなく,天皇を頂点にした擬制家族として上から一元的に統合し,それ以外の可能性を強力に排除していった中にあっては,望むべき余地は殆どなかったといえよう。言うまでもなく都市そのものは新たに生まれたり,膨張したりしているが,そこに日々の生活を送る人々が,その主体としての地位を得ていると言うにはほど遠い情況になり,さらには都市の機能のあり方もまたいびつな失敗例というべきものが生まれていった。

大都市一極集中への対策から,都市機能を郊外に分散させるべくつくられたのが本来のニュータウンであった。といってもこれはあくまでパリなどのヨーロッパの一部都市で一定の成果を収めたものの,日本への輸入には失敗した。それまで都市ではなく,場合によっては人の住む地でなかったところに新たに街がつくられ,人が住むようにはなったが,そこには都市機能,とりわけ就業など生活の根幹に関わるものが十分に移されることはなく,既成の都心への長時間の通勤によって支えられ,家族構成員間での生活空間の共有機会や地域共同体の構成機会も稀薄となり,出来上がったとしてもそれはいびつなものとなるのは必然の帰結である。このようなニュータウンの出来損ないこそが日本特有のベッドタウンである。ここに生活しながら,主体としての市民としての自覚と成長を期待することは難しい。蛇足ながら付け加えれば,日本のベッドタウンは都心より,空気がきれいといわれるが,地形・気候の面ではむしろ住民に厳しく,居住性に劣ることが多い。

以上のようにベッドタウンの問題性は,都市機能分散の不十分さ,市民的成長機会の欠乏を挙げることが出来るが,それにも増して都市が本来持ってきた多様性が失われていることも,見逃せない。この点で一層深刻なのが企業城下町である。財政を事実上支配し,さらには首長までも企業関係者から出すなど,自治体を企業のかいらいと化すことも珍しくない。さらには,企業の利害と論理,企業内での権力・階層関係が,家族・地域にそのまま延長され覆い尽くしすらしているという,情況がつくられていた。こうしたものの多くが,重高長大型産業のそれであることから,日本経済の空洞化の中で,今日では一定の自壊が見られるものの,依然いびつな環境情況を作り出し続けている。

ヨーロッパの都市の中には,政治・経済の要衝として発展したもの以外にも,大学を中心として発展したものもある。旧西ドイツの首都・ボンも本来はそうであるし,もっとも有名なものはハイデルベルクであろう。かつて歴史家・羽仁五郎は『都市の論理』という名著を著したが,これは著者のハイデルベルクでの体験をもとに,それを基準にして,都市・市民のあり方を説いたものであり,今日でも一読の価値はあろう。しかし日本で大学や学術研究施設を中心にして街をつくっても,このような都市にはならない。例えば筑波のごときは,都市というより巨大なムラとなっているという方が適切であろう。このような主体性と多様性を失った中にあっては,如何なる科学も学術も,住民生活と環境の向上には寄与しない。

このように,近現代日本において新たな形で誕生した都市において,市民的覚醒と成長の機会が乏しかったことを示す例に事欠かないのである。その原因の一つに,都市が多様性を喪失し,また住民がそれを求めなくなっていることが挙げられるを,想起すべきであろう。その中から,我々市民を主体とした新しい「都市の論理」を構築してゆくものでなければならない。

真の市民中心の街へ−誰もが安心して暮らせるために

近現代における都市と市民のあり方を考えるにあたって,体制側との関係で捉えることも必要である。

「パリ・コミューン」弾圧とそのエピゴーネン

体制と市民の関係において,現象面のみならず,その後の世代への影響という点でも,最も否定的な例を挙げておこう。広いまっすぐな道路が走る,現在のパリの街区が,「パリ・コミューン」後に造られたものであることは周知の通りである。これは「パリ・コミューン」の際に,狭く入り込んだ街路を利用して市民がバリケード封鎖をして抵抗したことへの対策と,未来永劫にわたっての予防弾圧措置であった。

洋の東西を問わず,圧制者たる者,考えることは似たようなものになるのか,この種の例は他にもある。韓国・ソウルもそうである。相次ぐ激しい抵抗運動に手を焼いた日本帝国主義・朝鮮総督府が作りかえた結果が,市街中心部に広いまっすぐな通りが何本も並行して走る,現在の街区の構成の原型なのである。これは決して,ニューヨークあたりを真似して造ったのではなく,武断的植民地支配の手段としてなされたものであった。

こうした反動体制・圧制のみならず,現在の日本の都市再開発の中にも,地域共同体が成熟した古くからの住宅地や街並みをつぶす形で計画されているものも少なくない。「活性化」・「再開発」・「道路建設」・「防災」といった“錦の御旗”をちらつかせてなされているこれらの中にも,こうした圧制者的意図でなされたものも含まれているといえよう。こうしたものへの不断の警戒心は,市民主体の街のあり方を考える上で不可欠だろう。

東京自治砂漠

江戸から改称された東京は幕府時代以上に,体制の足下として,その治安維持が重要課題であると同時に,これに対する側にとってもアクセスの上で重要な地理的空間となった。そのため治安維持機構は全国の都市の中でもっとも早くから整備され,一方都市住民の自治の機会と手段は押さえられることが多かった。

自由民権運動など明治の社会運動家への弾圧には,首都中心部から放逐してその影響力を削ぐというものがあった。一方都市ではないが,農村部で自由民権運動が盛んであった,いわば市民的覚醒が進んだ三多摩地区を,神奈川県から東京府に移管したのも,首都警察であることから治安維持機構としても整備されていた警視庁(後には全国に先駆けて特高警察が置かれる)の管轄下におくことくことがねらいの一つであったのだ。

現在の東京23区のエリアが,かつては東京市であったことはご存じであろう。もっともそのうちの中心部15区が元々の東京市で,後に都市の拡大と共に編入され35区となったわけた。その東京市は太平洋戦争中に廃止され,東京都に直属する特別区となり,住民としては自治へのアクセスの敷居が高められ,より中央集権的な上意下達しやすい体制になったのであった。こうした体制は戦後も受け継がれ,35区が23区に再編されたという違いはあるものの,その首長が依然任命制のままであった。しかもそうした体制は戦後約30年間も受け継がれ,首都住民が最も身近な首長を自らの意志で選べないという,全国でも例のない未権利情況が,まかり通ってきたのであった。このように,東京は住民自治の観点からいうなら,砂漠のごとく不毛なものたらしめられてきたといえる。

余談ながら,首都の自治体の首長や議会の設置・廃止が,しばしば国政レヴェルの問題になることは,大ロンドン市(議会が労働党優勢であったことからサッチャー保守党政権下で廃止,ブレア政権下で復活)や台湾省(中国国民党内の権力闘争から省主席ポストを廃止)の例からも解るであろう。

市民主体の街のかたちとあり方

近代以前のヨーロッパはもちろん,前近代からの日本のおいても,都市住民が主人公となって自らが住む街のあり方を作り出してきたのであり,その点でこれからの我々が都市の主人公となることは可能にして当然のことといえる。しかしながら,近代以降の日本においては,都市生活の主体としての市民の成長が見られる機会に乏しかったことを,歴史の中から教訓化するべきであることを忘れてはならない。

今日の,そして将来の都市生活の主体としての市民とは,単なる個人ではなく,多様な存在の中で自己の存在とアイデンティティーを見いだして確立し,共生する「人類的自己」でなければならないのである。こうした主体があらゆる場面において,自らの生活の場面の改革を求めるのは当然のことであるが,その際,自らの利益追求の過程において,それによって自らより弱い立場にある者への配慮を欠いていないか,また自らをその立場に投入して一歩下がって検討することも必要であろう。そしてそれらをも含めて,より良くなる方途を模索することが,政策提言と実践において求められるのである。

多様性の中には矛盾・対立も伴う。これらを揚棄--ここは同じaufhebenの訳語でも「止揚」ではなく「揚棄」としたい--すべく,自他両者の変革も時には求められよう。そうでなくとも,情況の変革には,主体の成長も必然的に伴うものである。内なる変革と外なる変革の統一こそが真の変革のダイナミズムである。かかる場合に一方的変化のみを求めるのであれば,これは弱肉強食の論理や,同化・絶滅を強要するだけの,およそ共生とはほど遠い暴力的所業となるであろうことを忘れてはならない。

こうして「人類的自己」としての主体性を確立する中で成長してゆくすべての市民こそが,街のかたちやあり方を決めてゆく主体となるものでなければならない。

人にも環境にも優しい街へ

地球温暖化による環境破壊,気象の変化など,最早資源大量消費に支えられた生活のあり方を追求することが無理なものであることが明らかにされながらも,方向転換が躊躇されている。便利な文明の利器の放棄と短絡的に捉えるという誤解もなくならないままである。対立・背反関係の中で捉える限り,決して方策が見つかることはないだろう。共生を目指す観点から,如何なる変革が必要であるかを,追求すべきである。そのうち出来そうなものから,一つでも二つでも実践し,その中から再検証・再実践を重ねて行けばいいではないか。

自転車利用の効果的促進

自転車を,人類最高の発明といった人がいる。自分の力でこれだけ遠くに行けるものが他にないからというのが,その理由だという。人の持つ可能性や能力を,最大限に発揮させることを評価するという観点は,大切にすべきものである。このことは哲学的見地からや,文学的箴言としてだけではなく,今日では,人が移動するに当たって,歩行の1/5,自動車による場合の1/10のエネルギーしか消費しないということから,移動手段としての自転車が評価されているのである。

量的な面だけでなく,その種類も当然違うのだから,環境によいことはなおさらのことである。しかも幼児から高齢者まで老若男女に関わらず利用可能であること,道路上の専有面積も小さいことなど,他のメリットも数多くある。しかしながら,今日の日本の都市においては,自転車の価格が低下するという,経済性の増大という肯定的情況にも関わらず,自転車利用の促進を阻み,さらにはこれを嫌悪・敵視するような政策が強行され,それを上回る否定的情況が生み出されている。こうしたものをラディカルにつくりかえてゆくことが,今日の都市住民の急務である。これは単に自転車利用者のみのためではなく,すべての都市住民,とりわけ弱者,及び環境のためでもあることを忘れてはならない。

環境政策を口実とした大衆収奪反対!

長期不況の中,歳入減少に悩む国及び地方自治体は,様々な名目で大衆収奪強化を目論んでいる。この20年来「受益者負担」なる口実のもと,弱者へのしわ寄せをも正当化してはばからなくなっているうえに,屋上屋を重ねるかのごとくなされているといえよう。財政破綻が明らかになっている国民健康保険,当初からその矛盾が指摘されているのみならず,サービス提供に関わる福祉労働者の生活基盤を脅かし,「職業としての福祉」を危機的情況に陥れつつある介護保険のたぐいは,最早公的福祉サービスではなく,それを笠に着た大衆収奪の具と化していることなど,改めて指摘するまでもない。

これが昨今,環境政策の名においてなされようとしているものもあることに,警戒しなければならない。東京都杉並区では,いわゆるレジ袋への課税が目論まれている。一つ一つの額が少なくとも,日常生活に関わるものでは長期的には大きな金額となる上,このような定額課税自体が,逆進税というもっとも弱者いじめとなるものであることを,看過してはならないのである。

2000年より地方税法が改正され,地方自治体独自の課税が認められるようになり,これによって様々な課税の試みがなされている。その少なからざる部分は,税収増をねらう自治体のなりふり構わぬ画策の所産や,首長の人気取りによるものである。また国税との関連においても,さらには地方自治体でも,都道府県レヴェルと区市町村レヴェルとで異なった,矛盾した政策追求のもとになされることも見られる。銀行への外形標準課税と並ぶ東京都知事・石原の人気取り政策である,ディーゼル車への課税にしても,国税としての自動車税の改正内容とは一定の一致が見られ,その限りでは,環境政策として一定の政策性を持つことが出来るが,荒川区が導入を策動していた,「自転車税」のごときとの関係でいうなら,その弱者いじめ的大衆収奪という本質的問題と共に,このような政策と矛盾し,打ち消し作用をももたらすという点でも問題があったといえるのである。こうしたなりふり構わぬ課税策動と政策矛盾のつけは,我々市民に回ってくるのである。

すでに東京都では事業系ゴミに加え家庭からの粗大ゴミ回収が有料化され,逆進税的負担を強いられている。また,家電メーカーにおいては,いわゆる家電リサイクル法施行を控えて,廃棄される家電製品の引き取りにかかる費用を,消費者に一方的に負担を強要するのみならず,カルテルを結んでその額をつり上げているのである。

このように,政府・行政によるものだけでなく,独占資本による収奪強化にも,厳しい目を向けていくことが求められよう。とりわけ,私たちが,環境と人間に優しいあり方を選択し,実践することを,妨げるような一切の大衆収奪に,断固とした態度で臨むことが,必要であるといわねばならない。

(2001.1.1)