フジテレビ番組で
自転車ナメたことヌカしたん許さんで
−TV番組「交通バラエティ 日本の歩き方」で
  ちょっとおかしなこと言うてたで−

自転車および利用者だけやのうて,
オノレと異なるずぅえんぶの他者をナメたマネすんの許さんで!

低俗娯楽番組中の妄言
(2003年8月26日放送「交通バラエティ 日本の歩き方」)

2003年8月26日19時,雨天で中止になりよったプロ野球阪神−巨人戦中継の代わりに,フジテレビは「交通バラエティ 日本の歩き方」とかヌカす番組を放映しよった。享楽的・頽廃的雰囲気の中でお笑い芸人どもが「交通問題」に関して放言する形で進められたこの低俗娯楽番組んなかで,出演者ん一人今田耕司の発言に

…アメリカ人に追いかけられたことあるんですよ。自転車が車と同じところ走っているんですよ。何気取りかしれませんが、サイクリングみたいな。40、50キロも出るわけないじゃないですか。バッパーと鳴らしたら、白人が顔真っ赤にして、バックミラー見たら、鬼の形相で追っかけて、原宿のところでつかまって、ボクの車の周りをぐるぐる回って。何でやねん。俺間違ってへんよと思って…」(音声 再生にはwindows media playerがいります)

なる妄言があったんや。さらに度し難いことには,これに笑いやらで付和雷同し同調しやがる出演者らすらおったんや。番組放映直後からこれに対しては,自転車利用者だけやのうてようけの視聴者から澎湃として抗議の声がわき上がったちうわけや。フジテレビとしたかてそれをシカトでけへんだことは,同局のホームページにおいて公開された視聴者の意見の中にこないな抗議が含まれとることからも見て取れまひょ。こないな妄言とそれに盲目的に追従する番組の雰囲気がもたらした問題点と犯罪性は,決して小さなもんとちゃうんや。

問題点と犯罪性

こないな番組と件の妄言を通して見いださなあかん問題は何やろか?

妄言と「交通問題」

直接的にはいっちゃんはじめに,道路交通法に対する無知と違反について問題とされねばならへん。道交法上軽車両に含まれる自転車は,車道を走なあかんもんなんやし,「自転車が車と同じトコ走っとる」こと自体に何ら誤りはあらへんのや。また同法によれば,こないな情況においてクラクションを鳴らすことが違法行為となるちうわけや。もちろんここで法をぜぇたい視したり,杓子定規な解釈の中に問題を収斂させたりしてはならへん。こないな妄言に刺激され,こないな意識のもとで自動車を運転するもんが増えることで,自転車利用者がヨリ危険にさらされるゆう問題が生じるちうわけや。しかもそないなもんをテレビ放送の電波で広めてまうことの犯罪性にいたっては,もはや説明の必要はあらへんやろ。

こないな発言の前提として,自転車および利用者の立場に対する認識と視点が欠如してんことを指摘せなならへん。「交通問題」が生じる一つの理由として,オノレとちごた目的・手段・方向やらで道路を利用する存在との間での矛盾を挙げることができるちうわけや。自転車はもとより自動車・歩行者やらとられはる手段によって,その物理的エネルギーの大小差が生じ,事故の場合に限らへんし,その強者の優位性と弱者の劣位性(およびヨリ高く深刻な犠牲可能性)を顕著に反映させる形で現実化されるちうわけや。こら当然というたら当然のことやが,その認識を欠くことで,自らの移動手段を他者への凶器へと転化する危険性を高めることになるちうわけや。またそれとともに,オノレが多様な存在の一つやちう認識を,オノレと異(ち)ごた存在との関係を通じて形成してへんことをも意味するちうわけや。こら市民社会の一員としてもつべき認識の欠如でもあるんや。

バラエティー番組で扱ってええんか?

バラエティー番組でこないな問題を扱うことの不適切性についても触れときまひょ。すでに別途述べたように,バラエティー番組で取り扱うゆうことは,ジャーナリスティックな視点と問題意識のもと,粘り強い取材を経て作り出される報道番組とはまるっきし異なるもんで,採り上げた題材や問題点についてもおざなりなまんまに扱われ,浅薄であるだけやのうて,一面的・一方的なもんになりやすいちうわけや。本来報道番組で採り上げなあかん題材も,娯楽性を追求し,センセーショナリズムに走るバラエティー番組で採り上げられよることで,採り上げた題材に対する理性的理解と合理的判断の機会を,視聴者から奪ってまう。

この「交通バラエティ 日本の歩き方」は,2003年10月よりレギュラー番組化が目論まれとるようやけど,それより昔のプロ野球中継ヤメになった時の穴埋め番組としてであっても,こないな問題ついては同様に追及されねばならへん。番組紹介によれば「家から外に一歩出ると、誰もが否応無く関わらざるを得ないもの…それは『交通』です!!この番組では、その『交通』を日常生活に根ざした視点からさまざまな角度で取り上げ、楽しみながらためになる情報を満載して参ります」ちう趣旨のようや。やけど具体的内容を見ると,「終電車終着駅最後の乗客」,「おかしな道路」やら,興味本位的に取り上げても,そのこと自体が重大な問題にならへん思われるもんも少なないが,利害対立や矛盾が生じとる場にあって,その一方の側に立ち,盲目的・感情的に取り上げたもんも少なない。件の妄言もその一例といえるが,ほかにも「スーパー特売日に商店街に出現する迷惑駐輪」なんかがそれや。こら,商店主・商店街による「“放置”自転車」への八つ当たりちう,この種の番組の典型的なパターンや。

多様性と市民の中で

さらに件の妄言については,人種・民族やら,オノレと異ごた他者への差別・蔑視が含まれるゆう点でも重大な問題やていわなならへん。「交通問題」がヨリ重大な問題になる情況では交通量がようけで,その内実もいっそう多様であることが多いことはいうまでもあらへん。その前提として,とりわけ都市部においては,その主体たなあかん市民は多様性を内包した存在なんやし,当然にも個々の構成員は生活習慣・価値観やらの文化的背景を異にしたもんで,その差異を認めあいつつ共生するもんやないとあかん。

こないな観点からは,件の妄言を単なる個別具体的な法規に対する無知や,他者認識の欠如としてとらえれば,問題を矮小化するっちうことになり,そこから導き出された改善・解決策もまた付け焼き刃的なもんにとどまらざるを得へんし,本質的解決には寄与せん。主体的市民による多様性の中での共生のあり方を構築するする過程として,こないな問題は取り扱われ,その中で解決されねばならへん。

スポンサーの権利と責任

件の番組におけるこないな妄言に関して,フジテレビだけでなく,スポンサーである日産自動車にも抗議の声を寄せた視聴者や自転車利用者も少なからずいたちうわけや。この場合,スポンサーである同社の責任はどこまで問われなあかんやろうか,またスポンサーとしての同社が持つ権利,さらには社会的責任やらも併せて考えてみまひょ。

国内はもとより世界有数の自動車会社である同社が,交通手段である自動車を製品として供給してん以上,そのユーザビリティーの確保・発展をはかることは,そこから利潤を得なあかん企業としてはごく当然のことなんや。スポンサーとして番組を提供するっちうことは,単に出資の代価として,その時間中に一定量のCMを流す権利を得るだけやのうて,番組内容についても,その支払うべき代価の範囲で,自らの利害を貫く権利をも得ることとなるちうわけや。併せてその方法や内容についての責任も生じるちうわけや。

したがって件の番組についても,自動車製造者および利用者の立場に立ちうのん利害追求および主張をするっちうこと自体は,スポンサーとしての権利の範囲内なんやし,それをも否定する批判・糾弾は度を過ぎたもんなんや。問題はその具体的内容と方法なんや。自動車製造者および利用者の立場の貫徹をはかるにせよ,こないな妄言のような一方的・感情的なもんが社会的理解を得る上で寄与するとはいえへんやろう。なんぼなんでも現下にあっては,こないな立場性の貫徹においても,他者との関係性において共生を目指すことが求められとるちうべきや。こら,環境問題との関連で,走行性能や安全性の追求だけでなく低公害化が要求されとるのと同様,現下の趨勢なんや。これに沿ったもんたらしめることが,スポンサーの権利と責任であるといえまひょ。

続発するバラエティー番組での愚行
(2003年8月13日放送「水10! ワンナイトR&R」)

バラエティー番組はフジテレビの看板ジャンルといえまひょ。それだけにこないなジャンルにおいては他局以上の制作量があるだけやのうて,視聴者間の人気と定着度において実績を持っとる。それだけに影響力も大きいちうわけや。そないな影響力に比例して増大せなあかん社会的責任ちう点では,厳しい見方をせなあかん。このことは,同局のバラエティー番組での妄言・愚行が相次ぐことによって示されとる。これを逐一指摘しとったらたちまち本が一冊できてまうほどやからねちっこく取り上げるわけにはいかんが,きょうびのもんで度し難いもんを一つ挙げるんやったらば,ようみなはんいわはるとこの「便器」事件を忘れることはでけへん。

8月13日「水10! ワンナイトR&R」ちう番組内のコーナー「ジャパネットはかたテレビショッピング」において,宮迫博之・出口智光がやりよったコントがそれや。便器の中に王貞治(現・福岡ダイエーホークス監督,日本プロ野球名球会代表幹事,元・読売ジャイアンツ選手・監督)の顔が沈んどる,洗浄機能付き便器のパロディーであるトコの「王シュレット」なるもんに宮迫が跨り,山口が「王さんちょっと喜んでますねぇ」やらとほざき,ついで宮迫が「痛い! 痛い!」と大げさに騒ぐゆうもんやった。

この下品かつ破廉恥極まらへん番組に対して,福岡ダイエーホークスは球団として正式に抗議し,同球団が2003年のパ・リーグで優勝した場合,日本シリーズをフジテレビ系列で放映させんとするやら,厳しい態度をとったちうわけや。王監督個人だけやのうてプロ野球全体を侮辱するもんやちう弁も,現役選手時代の活躍からしたら決して誇張とちゃうんや。

こら,侮辱の対象が「世界の王」やからとか,一個人にとどまらへんから問題やいうんとちゃう。笑いのためには,他者の人格や尊厳をいっさい顧みんと,蹂躙するっちうことも何らいとわんゆう,出演者・制作者はもとより放送局としての見識と体質に,根元的問題があるといわなならへん。王監督やろうと自転車利用者やろうと,こないなもんをないがしろにした点では,根元的問題においては共通しとるし,同罪なんや。
 

自転車および,主体的市民の一員たる自転車利用者の立場から,この妄言と番組およびこないなもんを放映しよったフジテレビを弾劾するちうわけや。

(2003.9.17)

捏造された「番組に送られてきた一通の封書」

でっち上げられよった「番組に送られてきた一通の封書」の映像。

切手と消印があらへんばかりか,折り目もあらへん真っさらの封筒。番組制作者として主観的にはイメージ映像のつもりだったのかも知れへんけど,その実態たるや虚構を以て視聴者を騙しよったちうわけや。こないな行為に何らの罪悪感も否定感も抱きよらへん姿勢については,厳しく弾劾せなあかん。

相次ぐ煽情的妄言
(2003年10月13・20日放送「交通バラエティ 日本の歩き方」)

低俗娯楽番組「交通バラエティ 日本の歩き方」は,8月26日放送分で,社会的問題を扱う資質において根本的欠陥を呈し,さまざまな立場のようけの市民から囂々たる批判を浴び,主要スポンサーが離れるにいたったちうわけや。

そやけど破廉恥にも,10月に入り,こないな声に挑戦するかのごとくレギュラー番組化が強行されたちうわけや。番組出演者による放言・妄言の類は,先の今田耕司にとどまらんと,他の出演者からも相次ぎ,その内容・口調も煽情的になるやら,さらに悪質化が進んみよった。

自転車vs歩行者

10月13日放送分では,番組冒頭からの大半を高速道路の渋滞を,イライラや怒りといった類の感情に依拠し,それらをさらに煽る形で取り上げたちうわけや。その後「自転車vs歩行者」なるテーマのもと,人通りの多い商店街,早朝の駅附近での駐輪や自転車走行情況の映像を映し出し,「自転車のせいで安心して歩道を歩けない」,「通勤自転車軍団」やらとして,自転車への恐怖心および利用者への敵対的感情を煽り立てたちうわけや。なかでも番組出演者の一人・うつみ宮土理が,

歩いてる人にとって自転車ってすごく怖いもの。ハンドバックぶつけられたりね。ハンドルのところで。

「(子どもを前後に乗せている人について)そういう人は意外と横暴だよ。

と罵倒する一幕は,この番組の一方的姿勢と低劣さを端的に示してんといえまひょ。

この妄言の伏線には,一見するともっともらしくも見える部分もあったけど,中には事実に基づかん,実際上不条理な自転車との“接触”・“衝突”を含めた映像があったちうわけや。また,通勤に利用される自転車については,望遠レンズによる遠近感の圧縮効果を悪用し,自転車が実際以上に密集してんように見えるようにつくったもんも含まれとるやら,自転車に対する畏怖心・敵対的感情を煽るだけやのうて,歩道を走る自転車を避けて歩行者が車道を歩く映像を流すやら,奇異な映像ソースを追及した所産であることが一目瞭然なもんもあったちうわけや。

かかる枝葉末節的な部分はともかく,「自転車vs歩行者」なるテーマにも端的に示されたとおり,この番組が,歩行者・自転車双方,とりわけ歩行者をして,自転車および利用者に対して,自らと相剋・敵対する存在であるとの意識を刷り込ましめるゆう,犯罪的役割を果たしたもんであることをハッキリと確認し,弾劾せなならへん。

ここで重要なんは,「自転車vs歩行者」(さらにはこれに「vs自動車」も加わる)なるテーマと枠組み自体がもつ犯罪性を確認するっちうことなんや。個別具体的,さらには枝葉末節的事象をもちう,歩行者・自転車・自動車各々に一般化したり,一つの立場から他者を罵倒するがごとき議論は,良心的・主体的市民のあるべき態度としては,厳に慎まねばならへんもんなんや。かかる議論は,件の枠組と同様に低次元で愚劣なもんであるだけやのうて,それに規定され,その掌で踊らされるに等しいもんやといわなならへん。

「“暴走”自転車」とは何ぞ?

そもそも生産的な議論が行われる前提として,その対象についての定義がようわかるようになされ,それが意見の如何に関わらず議論に参加する者の間で共有されとることが必要や。この番組中では何をもって「“暴走”自転車」と呼んだのやろうか。

同じ“暴走”やけど,バイクや自動車を用いて集団で行うわ,みなはんいわはるとこの暴走族(現在ではこれを「珍走団」と呼ぶこともあるんや)の場合は,比較的明確や。速度や走行車線・方向やらが道路交通法に違反するだけやのうて,他者への迷惑・危険が多大となる思われるもんをもってしてんといえるちうわけや。もちろんこれ自体厳密性ちう点では若干の疑問が残るちうわけや。その疑問の少なからざる部分は,かかる迷惑や危険が,集団によって行われることにより生じる,もしくは著しく増大すると認識されることによるもんなんや。すなわち問題認識としての“暴走”とは,その対象が集団やったり,それを総体として認識するっちうことによる要素が多分に含まれとるといえるちうわけや。逆に個々のもんによる一過性の行為に対して“暴走”と呼ぶことはまれなんや。

「“暴走”自転車」は,こないな「暴走族」のごときよりも漠然としたもんや。番組映像をよう見ると,なんぼなんでも“暴走”ちう言葉が連想させるような速度とちゃうんや。歩行者を初めとした,自転車利用者以外の存在からみて,その個々具体的なもんやのうて,総体としてとらえることで,嫌悪感や威圧感をもよおす自転車をさしちゅうもんであることがわかるちうわけや。要は,敵対する存在としての自転車に対するレッテルとして,停まっていれば「“放置”自転車」−「違法駐輪」と呼ぶのと同様,動いていれば「“暴走”自転車」と呼んどるのや(「“暴走”自転車」の取り扱いに関する問題点については「TV番組「ご近所の底力」でちょっとおかしなこと言うてたで」参照)。

自転車の走行環境と安全管理

10月20日放送分では冒頭から,同13日放送分をうけて,自転車および利用者の立場・権利をへんがしろにし,蔑視・嫌悪感・敵対心やらを煽り立てん内容が,コマーシャルをはさんで30分あんまり続き,番組出演者の意識と制作者の姿勢の低劣さがいっそう顕著になりよった。

いっそう悪質化した番組出演者の発言なかに,

車道で走っていると,車で,なんか戦おうとして,ものすごい速い自転車いません?」 MEGUMI

おるよ,おるおる,エイリアンみたいなメットつけたやつやろ。レース行け!レース。何キロ出してると思うとんねん。」 今田耕司

「(歩行者が横並びに)隊列組んだら罰してほしい。」 田嶋陽子

やらといった妄言があったちうわけや。このうち前2者は,従来の今田の妄言を敷衍した性質のもんで,自転車および利用者に対する敵対的感情を煽り立て,その安全を自ら確保するっちうことを阻害するゆう点で,悪質であるだけやのうて,歩行者・自転車・自動車といった移動・交通主体がいずれも多様性をもった存在であることを没却したもんやちう点でも,問題が大きいといわねばならへん。

たとえばやなぁ,自動車に大小や用途・形状といった差異がありよる以上に,自転車においても,単に自転車の車種・性能がもたらす差異に加えて,競輪やらのスポーツ選手のごとく体力に優った者が高性能な自転車を利用しはる一方で,杖代わりに自転車を利用する高齢者もいてる。歩行者においても通勤・通学・買い物など日常生活における必要性・必然性が高いだけやのうて,高齢者・乳幼児といった,ようみなはんいわはるところの交通弱者が含まれる割合も必然的に高うなるちうわけや。こないな情況をふまえ,その各々にとって最善,少なくとも至善となるあり方を模索したらなあかん。

知識人のもつべき見識と責任

せやけど道路はこないな移動のためだけに存在するんとちゃうんや。公衆に開かれた空間の一角をなすもんなんやし,露店やらの商行為,ストリート・パフォーマンスや演説,デモンストレーションやらといった表現の場なんやし,それを通じた市民間のコミュニケーションの場でもあるんや。それより前に子どもん遊び場となることもあるんや。そないなもんの中では多人数によって集団的に行われるもんもあるんや。

その点で,3つ目の田嶋陽子の発言は,前2者と異なった危険性をもっとることを見落としてはならへん。田嶋陽子の妄言は,こないな公共空間としての道路の意味を否定するもんなんや。これは日本国憲法で保障された基本的人権に含まれる言論の自由,表現の自由,集会・結社の自由を蹂躙するもんなんやし,かかる権利・自由についての市民の認識をもおとしめるもんなんや。さらにはファシズムへの道をも掃き清めるもんであるちう点で,看過でけへんもんなんや。こないな妄言は,田嶋陽子自身が知識人として当然にも備えていなければならへん見識をもたへんし,その責任を放棄し,自らの思想的頽廃を露呈したもんなんや。これを弾劾するにとどまらへんと,ヨリ厳しい態度で臨まねばならへん。

「ルール」と「マナー」

そもそも歩行者・自転車・自動車のいずれにおいても,移動目的・方向はもちろん,その身体的・経済力やらといった諸条件は多様なもんなんやし,それら相互に危険・対立・相剋が生じへんようにするんはもちろん,それら各々をして,それを規定する条件下において至善の移動を実現せしめるもんやないとあかん。

いうまでもなく,道路交通法をはじめとした,およそ交通ルールとされるもんが,こないなもんを保障するもんやないとあかん。それのうて存在理由はあらへん。その個別具体的事象についてはもちろんのこと,その意義やあるべき姿やらについても,かかる観点から適否を検証するっちうことのうては,紹介や議論においても,そのこと自身を自己目的化したもんや無意味な的はずれなもんに堕してまう。

「法は最小限の道徳」といわれるちうわけや。その関係は「ルール」と「マナー」に置き換えても同じ様にならなあかん。「法」−「ルール」は強制的拘束力を持つことからも明示的・限定的である必要があるんや。では「道徳」−「マナー」はいかにあるべきやろうか。こないな議論の前提として忘れてはならへんことは,これらが文化的背景をもち,それによってあり方が規定されとるちうことや。とりわけ,「道徳」−「マナー」は,それが包摂する範囲が広範なんやし,そのぶん個々人の日常生活においても,身近で密接な関わりを持っとる。

さまざまな人々との不断の交渉の中で,多様な文化に接し,自らと文化的背景を異にした人々と,地域社会ちう共通の空間において共生するっちうことは,日本各地においても今日的に重要な課題なんや。かかる情況にあって,既存の「法」−「ルール」はいうに及ばへんし,「道徳」−「マナー」を盲目的に肯定したり,まして押しつけるようなことは,何らの問題解決をもたらさへんばっかりか,かかる今日的課題に逆行するもんなんや。

経済的・身体的条件の差異はいうに及ばへんし,さまざまな異なりよった価値観,文化的背景をもった多様な人々が共生する上で,共有できる認識と理解を,主体的市民のイニシアティヴのもとで構築してゆくことが求められるんや。すなわち,多文化共生の中での再構築が,問題解決の方途なんや。

手信号とヘルメット

こないな観点から,番組で取り上げられよった具体的内容のいくつかを再検討しょう。

自転車が出すべき手信号を紹介するっちうこと自体は誤りではおまへんが,そのやり方に問題があるんや。まず左折/右折する際に出すべき手信号のやり方を紹介したあと,それを実行したろとおもた熟年女性がよろめく姿を嘲笑的に映し出してみたり,さらにそれにつづいて,後退する際の手信号なるもんを紹介したちうわけや。しかも出演者に対するクイズ形式で勿体を付ける始末や。

左折/右折の手信号やったらまだ知れれとるが,後退のそら知られておらへんことから,意外性とクイズとしての難度を上げることをねらったもんやろうが,通常の場合,自転車やバイクが後退する場合,運転するんやのうて降りて押すことになるため,実際に使われることはほとんどあらへん代物や。番組構成のみを考え,移動・交通主体でもある視聴者の立場をいっさい考慮せん,番組制作者・出演者の姿勢を反映してん。

ヘルメットについては,バイクの場合,4輪車におけるシート−ベルトと同様,今日では道路交通法でその着用が義務付けられとるが,自転車の場合は義務付けられておらへん。実際にヘルメットを着用してん自転車利用者は,高度のスポーツ性を追求する,自動車の通行量が多かったり,大型車が多い車道を走行するやら,自らが危険にさらされる可能性が高いと判断される場合やらが主なんやし,自らの責任と主体的判断に基づいとる。いわば自転車のヘルメット着用は,利用者の自主的・主体的な判断と行動の所産なんやし,その安全に対する認識の高さを示すもんなんや。そないなもんに対し,違法行為や迷惑行為以下のもんであるかのごとく罵詈雑言を浴びせたのが,今田耕司やったのや。

すなわちこのたびの今田耕司の妄言の犯罪性は,妄言それ自体や,交通ルールに対する無知,自転車および利用者に対する蔑視・偏見にとどまらへんし,自主的・主体的な判断と行動に対して浴びせかけたことにあることを,ハッキリと確認し,弾劾するもんやないとあかん。

俗悪有害番組に最後的鉄槌を!

この「交通バラエティ 日本の歩き方」は,8月26日放送以来,囂々たる批判・非難の声が沸き起こった結果,10月のレギュラー番組化に際しては,スポンサーの顔ぶれも大幅に変わったちうわけや。こないな新たなスポンサーは,この番組の問題性について無知やったトコロがほとんどやろう。なかには改善を期待しとったトコもあったかも知れへん。いずれにせよ,番組内容のいっそうの俗悪化により,各社にも批判や責任を問う声が寄せられはるにいたり,三菱自動車エステー化学をはじめとして,スポンサーからの撤退表明が相次いだんや。

こないな素早い対応は,スポンサーとしての宣伝効果に疑問をもったことが直接の動機やろう。やけどそれにとどまらへんし,スポンサーとしての権利と責任において,番組内容の改善が見込めんとの判断の結果といえまひょ。かかる企業各社には,単にスポンサーとしてにとどまらへんし,これをも含めたトコの企業が果たすべき社会的責任についての自覚を高める上で,今回の一件からヨリようけの教訓をえることを期待したいちうわけや。

ずぅぇえんぶの主体的市民の名において,今こそこの低俗有害番組に最後的鉄槌を下そうとちゃうか。やけどウチらの責務は,公共の電波からかかるもんを一掃するっちうことにとどまるもんとちゃうんや。その手段選択と過程を通して,ウチら自身の資質と見識を高めることが求められるんや。繰り返し言うが,かかる低俗有害番組に,わてたちの意識や思考を規定させることがあってはならへん。かかる所与の枠組みを前提にする限りにおいては,その中で取り上げられよった個別具体的事象について,何らの生産的議論や認識の深化・展開やらが生まれることはあらへん。それ以上に,それによってつくられよる相剋・対立が,犯罪性を拡大再生産する危険性について警戒するもんやないとあかん。

何にもまして重要なんは,多様性を内包した主体的市民が,各々の内なる理性の窓を開き,寛容の精神を陶冶し,多様な存在であることの意義を自覚し,それにふさわしい高い見識をもち,ずぅぇえんぶの都市住民と環境に優しい街のあり方の実現を目指して行動するっちうことなんや。いざともに歩まん!

(2003.11.7)