TV番組「妙案コロシアム」で
ちょっとおかしなこと言うてたで
(NHK総合テレビ2002年4月30日放送)

ゴールデン・ウィークに入って間もなくの2002年4月30日,NHK総合テレビで「妙案コロシアム」ちう番組が,「放置自転車を退治せよ」なるテーマのもと放送されよった。ケッタイな雰囲気のもとで自転車と自転車利用者への敵視感情を高めることに終始した,この番組の犯罪性を確認して,自転車利用者を対等な市民と認識して理性的に問題をとらえ直す道を探っていきまひょ。

「悩み解決バラエティ」!?

「駅前に放置された数千台の自転車に悩む」(この「数千台」が誇張された数字であることはいうまでもあらへん)ちう東京・小岩地区の住民100人をスタジオに集め,映画監督・井筒和幸とアナウンサー・堀尾正明のもとで進められたこの番組は,その性格を「悩み解決バラエティ」と規定してん。従って報道・ドキュメンタリーの類やのうて,娯楽番組の一種となるちうわけや。そのためその場において,いろんな立場にある関係者・当事者が客観的事実に基づき,理性的に議論をつくして,問題解決に当たろうゆう姿勢はまるっきし見られへん。むしろそないな姿勢を生み出す芽を摘み取ってまうちう点で犯罪的や。また,自転車に対するファナティックな敵意をむき出しにしよる出演者の姿は,娯楽番組としての健全性と資質においてもごっつうえげつないちゅわなあきまへんわ。「バラエティ」番組でこないな自転車問題を扱うこと自体が不適切なもんやちうことはいうまでもあらへんことやが,あわせて健全な笑いが提供されんという点でも,「バラエティ」番組としたかて失格やて言わざるを得へん。

そもそも「スタジオに集結した100人の地域住民」とは如何なるヤカラか。年代では中高年以上がほとんどで,職業としてはJR小岩駅ねきの商店街の商店主やその家族が中心思われるんや。その中でも確信犯的部分は,法被を着て鳴り物やメガホンを持ち込むやらなんやら,どこぞのプロ野球チームの私設応援団みたいな有様なんや。折りからの春の交通安全運動に動員されただけとか,単にテレビに出られるちうだけでやってきた者もおるやろ。いずれにしたかて冷静にもんごとを考えて行動したろおもとる者とちゃうんや。

呆れたことに,こないな集団の中に江戸川区長・多田正見がおりよった。市に準ずる自治体である東京23区の区長は選挙で選ばれる首長や。「全体の奉仕者」たなあかん職責を負った人物が,利害対立の当事者の一方の側に立つことは,特別職公務員の本分に反する,あるまじき愚行や。しかも感情論に拠ったトコのそれに追従するにいたっては,この人物の人格をも疑わなならへん。同様に江戸川区では区広報紙上でも,この番組を「放置自転車に悩む小岩地区の区民の日々の活動と、100人を超える皆さんが熱い思いを語り合った姿が、NHKの番組になりました」やらなんやらと紹介する始末や。区わいにも自転車利用者の立場を顧みいひん,「全体の奉仕者」であることをかいなぐりすてた,一方的な姿勢がみられよる。蛇足ながら付け加えると,江戸川区では,自転車は「駐輪対策課」(「係」ではおまへん,なお自動車は「違法駐車対策係」)の管轄やし,区営駐輪場の利用料は特別高いとは思われへんが,“撤去”した「“放置”自転車」の返還費用も自転車2500円,バイク3500円と,近隣区と比べて突出した高さなんや(墨田・江東・足立区やらではそれぞれ2000円,3000円)。

また,駅前に自転車を“放置”する利用者も出演してん。彼らの姿をシルエットにしたり顔をぼかしたりするやらした上,反「“放置”自転車」キャンペーンに屈した者は「更生」したとするやら,犯罪者同然の扱いをしてん。彼らがどないな目的・理由で自転車を利用してんかなどについて,語られよる機会はまるっきしあらへんかったんや。さらに,駐輪場利用やらにより自転車利用者に強いられる負担についても,一切明らかにされへんまんまなんや。

この番組は,その本質において,自転車及び利用者に対する,一方的な敵視感情を発露する場以外のなあんものでもないんや。




JR小岩駅付近 (2002.5.9)

番組でも紹介されよった小岩駅北口駅前。放逐された自転車は周辺の狭い路地やらに移動してん。これに替わって自動車の駐車スペースになっとる。駅前すぐのトコには大型スーパー・イトーヨーカドーがあり,その集客力によって少なからず商店街の客を奪っとると考えらよる。商店主らが,強者であるスーパーに対抗でけへんかわりに,弱者である自転車に八つ当たりしたといえまひょ。総武線のガード下は,駅に近い部分は商店やらに,離れたトコは駐輪場になっとる。そのうち買い物客用の駐輪場は,駅から数百メートル離れた,もっとも遠い一角だけ。駅南側にはねきに買い物客向けの一時利用専用の駐輪場があるけど,こっちは有料。まさにアメとムチの自転車「対策」や。

実態はどないなもんやろか?

この「バラエティ」番組は,「全国の放置自転車対策に成果を上げた地域の人々と一緒に、退治の方策を探っていく。ワーク・シェアリングならぬ、サイクル・シェアリング、あっと驚く駐輪スペースの発見法など、目からウロコのアイデアが続出」なる触れ込みで,いくつかの事例を紹介してん。もっともこないな一方的・一面的な感情論のもとでは,なんぼ具体例をもとに検討したろおもても,その意義や問題点を的確に理解できるはずがなく,的外れなもんになりがちや。番組で紹介されたもんについて再検討してみまひょ。

東京都練馬区;自転車イジメの総本山なのに…

まず東京都練馬区での「共有レンタサイクル」の事例が紹介されよる。東京23区の西北端にある練馬区は,「“放置”自転車」の「退治」において全国の自治体のアタマに立っとることで,その悪名をとどろかせとる。やけど,同区内で自転車を利用するどなたはんもが身にしみて知っとるだけやのうて,近年その猖獗ぶりがさらに悪化しつつあるトコの,練馬区わいによる自転車利用者イジメの実態をカモフラージュする形で採り上げられよったのが,この事例や。したがってこら,練馬区における自転車政策の一般的特徴や水準を示すもんではまるっきしないんや(その他の事例については「練馬区がやっとること」・「「全国自転車問題自治体連絡協議会」をつぶせ」参照)。

「共有」ちうても1台の自転車を個人や法人が共同所有するんやのうて,自転車の所有者はレンタサイクルの事業主でもある区わいなんや。1日1台あたり複数回の回転効率を見込んで,こないな風にぬかすに過ぎへん。こないな“効率”は,利用者の自発的要求・市場的需要に基づくもんやのうて,権力をもってする駐輪非合法化の結果として,強要されたもんであることに用心せなならへん。

一般的にいて,自転車の駐輪について考える場合,通勤・通学者と買い物客とでは,まるっきしちごた行動パターンを取るちうわけや。前者は平日に駅前を軸に1日単位での長時間サイクルの往復を基本とする単純なもんであるんに対し,後者は限られはった時間帯に短時間サイクルでの移動をするもんで,場合によっては平日よりも休日にようけなるゆう点でも,複雑な動きをするちうわけや。往々にしてこの両者の差異をシカトして,自転車駐輪について議論されることが少なない。とりわけ感情論に走った場合はなおのことや。

この事例においては,自宅から駅までを利用する通勤者と,駅と学校の間で利用する通学者との時間と方向の差異に着目したゆう点で,前者の行動パターンに対する有効な「対策」となっとるちう。せやけど後者の行動パターンには意味をなさへん。こら,お役所ならではの杓子定規的発想では自転車利用者の多様な実態に対応でけへんことを示すもんで,決して両者の行動パターンの差異を理解してなされたもんとちゃうんや。

通勤・通学での利用者の中には,退職・転勤・卒業やらでこれまで通りに自転車を利用しなくなりよった場合,そのまんま自転車を文字通り「放置」,正確には「放棄」してまう者もおる。番組では「春になると増える放置自転車」やらなんやらとええながら,その一因であるこのことには触れておらへん。やけどこの「共有レンタサイクル」は,こないな風にして生じる「“放置”自転車」(正確には「“放棄”自転車」)のもっとも有効な予防策であるといえまひょ。

自転車を利用するにあたってどなたはんもが考えることは,オノレの体格・体力・利用法にあったもんを予算の範囲で選択するっちうことやし,またこれに加えて,使用する中での故障・事故はもちろんのこと,点検・整備やら経時変身・消耗に対する対応もずぅぇえんぶ自己責任であることも忘れてはならへん。せやけどこら利用者であると共に所有者であることによって全うできるもんであって,利用者が所有者やない場合には,全うするっちうことが困難なもんなんやし,その結果自傷他害の危険性と,それへの対応能力の欠如が生じるちうわけや。

レンタサイクルについてのもっとも基本的な問題点がここにあるんや。こら利用時間・距離において,利用者に必然的かつ直接的に制約が加わる理由でもあるんや。観光地やらのレンタサイクルでは,特別に優れたもんもちびっとの代わりに,競争原理が働くこともあって,便利わるい・劣悪なもんは淘汰されてゆくゆう現象がみられよる。レンタサイクル事業者が,同時にまた自転車所有者として,あくまで利潤追求ちう範囲においてやけど,その責任をどんだけ全うするかが,経済学的意味での市場における評価を決めることになるちうわけや。そやかて,「“放置”自転車」の「退治」の一環として,駐輪非合法化の結果,利用を強要されるレンタサイクル事業については,こないな市場原理は働かいへんちうわけや。事業規模を拡大し利用者の増加がみられても,自転車の経時変身・老朽化が進み,メンテナンスのコストや必要性がさらに増大したとき,利用者の信用を得るだけの安全性と利便性を確保・維持するっちうことは,困難やろう。

利用者の負担ちう点に触れへんことも,この番組の一つの特徴や。この「ねりまタウンサイクル」とかヌカす公営レンタサイクル事業は,2001年10月に値下げして,民間企業が行う同様の都市型レンタサイクル事業なみの値段となりよった(1日利用200円,1月2000円,3月5700円)。利用条件,車輌の選択幅,メンテナンスやらなんやらのサービスの質や信頼性を考えれば,依然割高といえるやろ。

武蔵野市(吉祥寺):折り畳み小径車は無意味やったんか?

もともと中央線の駅へのアクセスに自転車を利用する人は多いちうわけや。東西に延びる鉄道に対して,路線バスやらの南北に移動するための公共交通機関が十分機能してへんことや,起伏がちびっとの地形で自転車の利用がしやすいことやらが大きな理由とされてきたちうわけや。そないな中央線の駅のうち,附近に4つの百貨店があるんは新宿と吉祥寺だけちうことからも,長期不況下の厳しい経済情況にありながらも,吉祥寺のショーバイするトコとしての集客力をうかがい知ることができるちうわけや。伊勢丹・東急・丸井・近鉄(2001年2月20日閉店,現在は店舗の一部で三越が営業)の4百貨店に加え,駅ビル・ロンロンやパルコやらのショーバイするビル,これらを結ぶ位置にある商店街やらが駅前にある一方,駅から徒歩数分の距離のトコは,井の頭公園がある他は住宅地となっており,人はもちろん自転車も,その数はともかく,ショーバイするトコである駅前への密集度は高いちうわけや。

番組ではそないな背景には一切触れることなく,いくつかの事例を挙げとる。

まずは過去のシッパイ例として,十数年前に試みた駐輪スペースが少のうて済む折り畳み自転車の導入について触れとる。ある自転車メーカーと折り畳み小径車を共同開発したが,段差を越えられへんやらの便利わるさと乗り心地の悪さから不評に終わったとするもんや。確かに,屋内・車内への持込・保管を容易にするための折り畳み小径車を,屋外に駐輪させようゆうのも腑に落ちへん話ではあるんや。そやかて現在,折り畳み小径車の人気が高まっとることから考えれば,簡単にシッパイ例として片付けんのもキテレツな扱い方や。なお,この時開発された折り畳み小径車は,いくつかの自転車博物館でみることができるんや。

この十数年で折り畳み小径車自体も,技術・デザイン共に進歩したちうわけや。なんぼなんでも日本のメーカーに関していうたら,この時共同開発に参画した自転車メーカーが,現在折り畳み小径車の技術・シェアにおいてトップとなっとる上,鉄道会社と共同で車内持ち込みに便利ええ自転車の開発を手がけるやら,新たな展開も見せとる。この折り畳み小径車は,利用者の利便性を拡充するための技術の進歩をもたらしたゆう点で,画歴史的意義をもったもんなんや。

シッパイの原因が,折り畳み小径車に不可避となる要素はともかくとして,道路の段差やらなんやらの利用環境によるもんであることは,番組で紹介されたとおりなんや。やけどこらインフラ整備の不作為を示すもんに他ならへん。駐輪スペースの節減を図ってなされたもんだけに,インフラ整備の不作為も目的の一環やったんかも知れへんが,このシッパイは,走行環境がもたらした結果であることを,確認しておく必要がありまひょ。

もっとも路面の平坦性の確保,段差の解消・軽減の如きは,バリアフリー化やらなんやらの過程でなされることで,なあんもわざわざ自転車だけのためになされる必要はあらへんもんや。ヨリようけの人,とりわけ弱者と呼ばれる人にとって優しいもんにしたら,必然的に解決するもんなんや。ただそのことがなされていへんかったちうだけのことや。「シッパイ」から教訓をつかみ取る姿勢のうて「妙案」が生まれるはずがあらへん。

また現在の例として,休日使われてへん銀行の駐車場を駐輪場にしたり,駐輪場の案内図に商店の広告を入れたりするちうたことが紹介されとる。ここでも他と同様,利用者の立場に関するっちうこと,とりわけ強いられよる負担について明確なことは触れてへん。

集客力が低下し,活性化や再建への展望が見いだせへん商店主らが,自転車に八つ当たりする事例は,全国いたるトコに見られよる。ほんで八つ当たりの結果,さらなるドツボへとオノレを追い込むゆうように,自転車イジメが因果応報的に自殺行為になっとることも少なない。その点では,自転車利用者の立場こそ理解せんもんの,「買物客」と認識して,盲目的排除に手を染めへんだけでもましちうべきやろう。

松山市:「四国・松山・城下町・道後温泉」

ケツは松山や。人口1人あたり1台ちう,オランダやデンマーク並みの自転車保有率の高さには,平坦な地形だけでなく,温暖な気候や路面電車・バスやらなんやらの公共交通機関の定時性が確保されへんことやらも理由に挙げられまひょ。番組中の映像では,自転車での通勤風景が映し出されとったが,これとて北京の朝の自転車通勤ラッシュの如きに比べれば,実にのどかなもんや。

やけど番組中に紹介されたんは,これへの直接的対応やのうて,商店街に来はった買物客に,どないして駐輪場を利用させるかちう,またもや問題のスリ替え的なもんやった。駐輪したろちう自転車利用者に笑顔で接し,丁寧に駐輪場に案内するゆうもんで,あたかも旅館の接待か思わせるような,道後温泉をもつ観光都市らしいもんやった。こないなサービス業的発想は,駐輪場の運営にも反映されとるとして,空気ポンプを備えてあることやらをもってアッピールしとった。いっそのこと,点検や整備・修理を引き受ける人材と設備を備えれば,日本はおろか世界的にも高水準のサービスの駐輪場となりまひょ。

利用者を“お客様”とみなしたら“サービス”も提供されまひょ。せやけどその一方で利用者が“お客様”であるために,経済的負担を強いられ,それが不可避的に増大してゆくゆう情況にあることについては,一切触れられておらへんのや。

自転車利用者のおかれた情況は多様なんや。それやから「対策」のためになされた方策であっても,利用者にとって選択肢が増えるゆう点で評価できるもんも少なない。やけどそないな新たな方策の実施に際して,既存の自転車利用の方法にいささかの制約を加えることも許さられへんのでおます。

これらのいずれもが「“放置”自転車」の「退治」をはかったもんだけに,利用者の立場ついては考慮されとらへんし,とりわけその強いられはる負担については触れとらへんのや。公共性の高い場所での駐輪施設の利用が有料やったり,利用資格に制限が加えられよることは,日本では少なからずされとるが,これが世界的に見て異常なもんであることについては,ましてさらさら触れとらへんのや。かかる異常性の隠蔽においても,この番組の異常さが発揮されとるといえまひょ。

自転車利用者の立場に立って考える,これにまさる「妙案」はあらへん。

ファッショ的大衆動員とファナティックな追従者

この番組が不気味なんは,「バラエティ」番組のくせにまともな笑いをようとらへんからだけとちゃうんや。何よりも問題にされなならんのは,自転車に敵意をむき出しにし,勝ち鬨すらあげることの異様さでもあらへん。盲目的にこないな行動に走る,彼らの意識なんや。

もちろん,一年中こないな風なことをしてんわけとちゃうんや。もしそうやったら彼らの体力と生活はとうに破綻してんやろ。実際これらは,官製運動である春の「交通安全運動」期間中のもんで,ゴールデン・ウィーク及びそれ以後にはこないな異様な光景は見られなくなっとる。やけどこれらを一時的なもんやからというて看過してはならへん。こないな大衆動員と,それに追従するっちうことについて,市民としての主体性において,用心深くかつ理性的に,その問題性を理解せなならへん。

毎年春と秋の一定期間,街に交通取り締まりの警察官の姿や,あちこちに時間の余裕がある地域住民が交替で詰めるテントが目に付くゆう現象として現れる「交通安全運動」が,実際に交通事故の予防や減少に成果を挙げとるんか否か,また挙げとるとするやろ,ほしたらそれが効果的なもんであるんか否かを示すことはや難儀やろ。やけどこれが確実に大きな成果を挙げとるんは,大衆動員の機会としてなんや。警察権力が市民の「人的・物的資源」を動員するっちうこと自体はもちろん,それを通じて警察権力への親近感と協力意識を植え付け,あわせて市民の情報収集をするっちうことにおいてこそ,「交通安全運動」は重要な役割を果たしてん。「交通安全」はいわばそのための大義名分なんや。一口に「交通安全」というても,それぞれの置かれた立場によって,追求すべき方向性は自ずと異なってくるちうわけや。ウチら市民一人一人にとって望ましい「交通安全」像は,こないな大衆動員の中から生まれてくるのやなく,多様性をを包摂した主体的市民としての自覚の中から生まれ,現実化するもんであることを,ハッキリと確認しておく必要があるんや。

こないな大衆動員が,究極的には,国民に戦争協力を強制する「国家総動員」体制づくりにつながっていくファッショ的なもんであることは,賢明な読者やったらすでに理解してはるやろ。有事法制が国会で議論されるようになりよった現在,改めてそないなもんの危険性に警戒せなならへん。とはいうもんのそないなもんを,仮定条件下ともいうべき「有事」・「非常時」において機能させるべく,平常時から権力者が準備してんことに対して,警戒せず無自覚どることが多いちうわけや。今日においては,「交通安全運動」だけでなく,サッカー・ワールドカップにおいて猖獗するやろうフーリガン対策やらもまた,そないなもんの一環であることを忘れてはならへん。

こないな風な大衆動員において,そのための大義名分がその時々に応じて設定されるとともに,それを維持するために,時としてイデオロギーの注入も行われるちうわけや。またあわせて不可欠なのが,集約された「人的・物的資源」を振り向ける対象なんや。こら戦争における交戦相手国のように,常に“外”なる存在であるとは限りまへん。身近な,時としてウチら市民の“内”なる存在−−とりわけ少数者・弱者−−に対してである場合もあるんや。ほんでそれが権力者の意図に依拠しただけでなく,その範囲を凌駕してファナティックに暴走するっちうこともあるんや。

歴史から教訓をつかみとろうとするんやったらば,約80年前,1923年の関東大震災の被災地において,官製デマ情報およびそれを鵜呑みにしての流言飛語に踊らされて,一般の市民が「自警団」を組織し,数千人の朝鮮人,数百人の中国人の虐殺に手を染めたことを,今いっぺん想起せなならへん。いつか来よった道を,もっかい歩み始めておらへんやろか。

(2002.5.10)