「全国自転車問題自治体連絡協議会」を
つぶせ

自転車利用者をイジメ,その立場をことごとくシカトし,
一方的負担と犠牲を強要し,あくなき利権追求をはかりよる,
さらには地球環境重視の世界的趨勢に逆らいやがる,
世界に類例を見へん反動的・強権的・ファッショ的自転車政策を
強行しやがる元兇「全国自転車問題自治体連絡協議会」を,
すべての自転車利用者と良心的・主体的市民の力でつぶせ!

「全国自転車問題自治体連絡協議会」は,日本各地の自治体において広範に行われとるトコの,自転車および利用者の立場を一切顧みることなく,もっぱら“対策”の対象と位置づけ,さらにはその利用抑制を図るゆう,世界でも他に例をみいひん愚劣きわまりまらん自転車“対策”を進める上で,犯罪的役割を繰り広げてきたちうわけや。

以下,その問題性を明らかにして,日本の都市における自転車および利用者の地位向上に向けての一助としたいちうわけや。

「全国自転車問題自治体連絡協議会」って何や?

「全国自転車問題自治体連絡協議会」は,1992(平成4)年2月13日,「“放置”自転車」の“対策”に悩む全国172区市町が集まって結成されよった(この組織は発足準備段階から,略称として「全自連」を自称してんが,同名・類名の組織が先かて存在してんことやらにふまえ,また無用の誤解を招かんために,ここでは以下「協議会」と略すことにする)。この発足に先かて,東京都特別区(23区)の自転車“対策”を担当する課長級職員が会合をもち,自転車“対策”のための市町村間の連絡組織をつくることが提起されたのを出発点に,設立準備会をおき,全国自治体への参加呼びかけ,国への要望提出やらを,短期間のうちに行っとった。

もちろん一概に「“放置”自転車」の“対策”に悩むというても,個々の自治体のおかれとる立場も情況も異なり,そこからとなあかん方策も自ずと異なってくるちうわけや。そのため「協議会」参加自治体の中でも,方向性の異なりよった方策がとられよることもあったが,やがて強硬路線へと収斂していったちうわけや。

こないな強硬路線を押し進めたんは,東京都練馬区や。練馬区は,「協議会」設立総会の会場を提供し,「協議会」結成より昔の準備会から事務局をその土木部におきよって,区長・岩波三郎が「協議会」会長となるやら,爾来「協議会」を牛耳ってきたちうわけや。

また,「協議会」発足当時の役員となりよった首長の顔ぶれと自治体名をみると,自転車“対策”への執着ぶりで悪名をとどろかせとるトコロが多いことに気づく。このうち,2003年4月の統一地方選挙に際して,練馬区長・岩波三郎と明石市長・岡田進裕[のぶひろ]が職を離れたちうわけや。前者は高齢による引退,後者は01年夏の歩道橋事故による引責辞職や。いまだ土屋正忠・武蔵野市市長ひとりが残っとるが,こないな首長の交替を,従来の自転車敵対強硬路線から決別する,ひとつの契機としてゆきまひょ。

独善と強権

「協議会」が,自転車“対策”を進める上で追求したことは,その担い手たる行政わい−地方自治体の権限強大化なんやし,ほんでそれに伴う利権の増大やった。善意の行政わいやったらとるやろうトコの,自転車を都市交通の一手段として位置づけての交通政策でもなく,まして環境政策やらともちゃうんや。

自己幻想と独りよがり;唯一の“対策”主体として

「協議会」に参加する行政わい−地方自治体は,自転車“対策”を,法制度の不備やらにより,市区町村がせざるを得なくなりよったもんやらとのたまうわ。こらある意味であたっとる。なんでやったら国や都道府県,ほんで自転車利用者をはじめとした市民は,当然にもこないな愚劣な“対策”に手を貸すまねせんからや。ほんで「協議会」の立場や思惑,利害とは別なトコから,また「協議会」よりはるかに高い理性と見識のもとで,それぞれに交通・環境政策を提起し,現実化しつつあるからや。

自らの愚劣さに無自覚である者の独りよがりは,とりわけタチが悪いちうわけや。

行政わい−地方自治体,とりわけ「協議会」に積極的に参加するようなトコロが,自転車利用のあり方をどないな風に“問題”視し,“対策”の根拠としてんのやろうか。「協議会」発行の『都市交通の歪 放置自転車』(2002年)の冒頭部に,その認識が示されとる;

「わが国での自転車問題の主役は,駅周辺の路上などに置かれている放置自転車であり……社会に及ぼす迷惑の度合いとは関係なく,放置した人がそれほど真剣に社会問題として認識していない……駅周辺の大量の放置自転車が交通の妨げとなっているばかりでなく,それは交通事故を引き起こし,さらには救急や消防活動の妨げとなり,家屋を消滅させ,死者という犠牲者まで出している」(p.13)

住民には自転車利用に関する知識が皆無に等しい」(p.14)

要は,「“放置”自転車」を「社会問題として意識」してんは,オノレたち行政わい−自治体だけやといいたいわけや。自転車利用者はもちろん,それ以外も含めた「住民」は,問題解決の主体たりえんとしてんや。独善大衆蔑視もええトコや。

また,「交通事故を引き起こし」とか「救急や消防活動の妨げ」といった類の言は,反「“放置”自転車」キャンペーンやらでも持ち出されることがあるけど,得てしてこないなもんが具体的証拠とよういわはるとこの5W1Hを伴って語られよることはあらへん。こらフォークロアの形をとった官製の流言飛語,すなわちデマなんや。もしそうした事実があるんやったら,その原因をつくった者は,刑事責任を負わされたり,損害賠償を請求されたりしてんはずとちゃうやろか。

つまるトコ,行政わいは市民をして,自転車がそこに存在するんは,利用者の合目的的行動の所産であるちう当然のことを理解するっちうことなく,自らと異なる他者の存在を意識させるもんとしての,生理的嫌悪感や感情的敵意を,自転車および利用者に向けさせとるのや。そないな嫌悪感や敵意を強要するっちうことは,思想・信条の自由を侵害するもんであるんはもちろん,市民の主体的判断力を奪い,その意識水準を,理性的・合理的なもんから,感情的へとおとしめるもんや。こら,無批判的盲従だけやのうて愚民化を強要する点で,危険かつ犯罪的なんや。

やけどここで用心しておかなならへんのは,もともと市区町の課長級職員の連絡組織に端を発する「協議会」が,これだけの力を持つに至ったんは,その独善性だけによるんとちゃうちうことや。

その主な要因として,第1にロビー活動を通じて強権化の法的根拠を得たこと,第2に下支えする勢力を得たこと,ほんで第3に自転車“対策”を独占的利権にできたこと,があげられる。続いてそれらについてみていきまひょ。

圧力団体として;ロビー活動と「自転車法」

「協議会」結成の目的のひとつは,自転車“対策”を行うための自治体の権限強化にあったちうわけや。「協議会」準備段階から国(総務庁)に要望書を提出しただけでなく,結成後間もへん時期,もっとも熱心に取り組まれたのが,議員へのロビー活動やった。「協議会」関係者の中には,かかる法整備を「究極の目的」と公言する者もおるほどで,まさに「協議会」は圧力団体となりよった。

こないな「協議会」の策動は,翌1993(平成5)年「自転車の安全利用の促進及び自転車等の駐車対策の総合的推進に関する法律」(よういわはるとこの「改正自転車法」,以下「自転車法」)の「改正」となってひとまず現実化したちうわけや。これが自転車利用者をはじめとする市民からみれば,当然にも「改悪」であることはいうまでもあらへん。これにより,その名称にある「自転車の安全利用の促進」については何らの進展もあらへん一方で,行政わい−地方自治体は自転車“対策”,とりわけ「“放置”自転車」の「撤去」において,1980(昭和55)年の「自転車の安全利用の促進及び自転車駐輪場の整備に関する法律」(よういわはるとこの「自転車基本法」)制定当初よりもいっそう強大な権限を自らに付与するっちうことに成功したのや。

さらにはこれを運用するにあたり,「自転車法」だけやのうて,既存の法律を自らに都合よう解釈するっちうことで,いっそうの権限強化と利権増大化をはかるようになりよった。またこれとともに,自転車に関する利用者の,憲法上の基本的人権や,民法その他によって保護されとる各種の私権を,一方的に蹂躙・黙殺するとともに,それを正当化するっちうことを,行政法学者の協力のもとに追求したちうわけや。

自転車に関するっちうことにとどまらへんし,こないな行政わいによる権力の自己増殖・強大化がもつ危険性・問題性を,改めて想起せなならへん。

ファッショ的大衆動員と下支えする勢力

自治体間の連携にはじまり,国会へのロビー活動,関係省庁との交渉に一定の成果を得た「協議会」は,鉄道事業者に「“放置”自転車」の“対策”費用を転嫁するっちうことを追求し,鉄道事業者をして,自転車および利用者を,マーケッティングの対象から“対策”の対象へとおとしめさせるさせる,犯罪的役割を果たしたちうわけや。

やけど「協議会」が果たした最大の犯罪的役割は,自転車利用者をはじめとする市民に対してのもんに他ならへん。

「協議会」は,参加する各地自治体によって,「“放置”自転車」に対する敵意を煽り立て,町内会やらの各種住民組織を通じて大衆動員をはかり,「放置自転車解消住民決起大会」のごときを立ち上げさせるに至ったちうわけや。もちろんこないなもんに動員され組織される者は,自身が自転車利用者やないことが多いばっかりか,自転車利用者の立場について理解でけへん情況にあるか,理解したろおもてへん情況におかれるのや。こうして自覚的にせよ無自覚的にせよ,自転車利用者に敵対し,その包囲網の一翼を担うことになるのや。こないな風に,権限強化とあわせて,市民を自らの目的のために無批判的に盲従させ,あまっさえ市民内部の特定の部分に対して敵対・排除させるべく組織化するに至っては,もはやファシズム体制づくりや。

実際,自転車および利用者に敵対する活動は,自転車を利用してへんとか,他者の自転車利用を快く思わへんといったような,自転車利用について理解があらへん,敵対的な者によって担われとることが多いちうわけや。やけどそないな者の中には,特定の(政治,場合によっては宗教)勢力に属し,首長や地方議会選挙に際して,その勢力が一定の影響力を持つこともあるんや。「協議会」に参加する自治体,とりわけ役員を出すようなトコにおいては,こないな勢力が,議員の一定部分だけやのうて首長の支持基盤となっとる場合も少なない。

利権の増大と大衆収奪の正当化

日本の少なからざる行政わい−地方自治体がいう「“放置”自転車」の“対策”なるもんの内実の少なからざる部分は,諸外国では決してみることのでけへん奇策・愚行や。駐輪場設置や自転車利用環境の整備やら,生産的方面に投じられはるコストはごく一部で,少なからざる部分は「“放置”自転車」の「撤去」やらといった愚劣な“対策”に浪費されとる。しかも,かかる費用の出所は,自転車利用者から不条理に収奪されるもんの他は,うちらの血税なんや。

こないな笑うに笑えへん情況の蔓延に,「協議会」が果たした役割は大きいちうわけや。

自転車“対策”は「金のなる木」

行政わい−地方自治体の中には,「“放置”自転車」の“対策”費用が高額にのぼり,財政負担となっとるとするトコもあるんや。せやからというて,支出抑制を図ったり,他の方法を講じたりしたろ思てはせん。そら,他にとなあかん方法が解らへんからとちゃうんや。こないなことの一切が,膨大な利権となり,行政わい−地方自治体を中心とした利権集団ができあがっとるからや。

地方自治体の中には,自転車“対策”部署を土木部門におくトコロが少なない。「協議会」発足して直の頃やその準備段階の時期にあっては,バブル経済に余韻もあって,税収も今日より豊富で,豪華庁舎や公共施設の建設が相次ぎ,その他の部門においても放漫財政,浪費がまかり通っとった。やがて財政状態が厳しくなり緊縮が図られはると,土木部門はとりわけ厳しい緊縮と縮小が求められはることとなりよった。そないな中で,従来のハコモノ建設や各種インフラ整備にかわる支出対象として,自転車“対策”がクローズアップされてきたのや。しかもこら,土木・建設のようにいっぺんやってまえばそれまでちうのやなく,継続的・反復的なんやし,しかも,自らの裁量で規模拡大も容易に行えるもんや。まさに自転車“対策”は「金のなる木」なんや。

「協議会」に参加してん地方自治体は,とりわけそないなトコロが多いちうわけや。かかるトコロでは,土木部門にある自転車“対策”部署を廃止し,かわって別の部門か機関に自転車“政策”部署を設置するっちうことが,利用者本位の自転車政策実現の前提として必要なんや。

「受益者負担」の正当化

一部の行政サービスに対して「受益者負担」やらといわれるようになりよったんは,1980年代からや。とくに中曾根康弘が首相やった時期,福祉切りホら正当化の弁に使われたちうわけや。行政サービスは不特定多数の用に供するんが原則であることを前提としながらも,特定の個人やらに個別・具体的に提供されるもんについて,提供される側に負担を求めるにあたちう,広く利用されたちうわけや。

こら自転車についても当てはまるちうわけや。公共性が高い場所の公営駐輪場が有料化され出したのと機を一にしてん。ずぅぇえんぶの市民が自転車利用者やないからちうのが,正当化のための弁のひとつや。これだけやったら「受益者負担」の強要ちうことで説明がつくが,負担強要の理由は他にもあるんや。自転車利用(駐輪)がタダやと,バスやらの有料の交通機関から自転車利用に転換する人が増えるさかいゆうものや。要は,自転車利用を抑制するためや。

こないな有料化強行にあたちう,それまで「自転車置場」といわれることが多かった駐輪場を「自転車駐車場」と呼ぶことを始めたちうわけや。自動車の駐車場が有料であることが社会的に認知されとることからつけた名称や。「受益者負担」を口実にした,有料化による大衆収奪もさることながら,かかる用語によって市民を幻惑する,行政わいの姿勢もまた問題や。

きょうびではPFIの導入推進を画策してん。PFI(private finance initiative)とは,民間資金を活用した社会資本整備とされ,公共施設整備に民間の資金や手法を取り入れて効率化を図ろうゆうもんや。国や地方自治体が示したプランに従ちう,施設の建設や維持管理やらを民間に任せる形をとるちうわけや。イギリスで80年代に始まり,日本では99年に法制化されたもんやけど,結局のトコ「受益者負担」同様に言い古された「民間活力の導入」や。行政サービスの営利事業化を進めるのみやったらへんし,市場原理に基づいた自由意志による選択の結果,利用するんやのうて,公権力により他の選択肢を奪われた中で,その利用を強要されるもんなんや。この問題性を見落としてはならへん。

自転車利用抑止をねらった有料化や,利用料金の高額化を招くこと(下方硬直性)についての問題を,はっきりと見据えなければならへん。あわせて,かかる不条理な大衆収奪の緻密化と正当化を,許してはならへん。

鉄道事業者への負担転嫁追求

「協議会」にとちう,「“放置”自転車」の“対策”に要した費用を鉄道事業者に転嫁するっちうことは,発足当初からの課題やった。「協議会」は様々な方法を用いて,「“放置”自転車」のようけは鉄道利用者によるもんであるとして,法的強制力を伴った形で,鉄道事業者に駐輪場設置やらの「協力義務」を負わせることを追求してきたちうわけや。結果として「自転車法」では,具体性と強制力を伴いまへん(その点が「協議会」の不満となっとる)ながらも,鉄道事業者の「積極的協力義務」がもりこまれるに至ったちうわけや。

こないなもんが鉄道事業者の立場をシカトした,一方的なもんであることはいうまでもへん。のみやったらへんし,鉄道事業者をして,自転車利用者に対する大衆収奪に加担せしめる点で,犯罪的であるといわねばならへん。

「協議会」の準備段階や発足間もへん時期は,まだバブル経済の余韻があったが,90年代半ば以降,全国の鉄道事業者は,乗客数の減少に見まわれとる。こら景気低迷のみやったらへんし,少子高齢化(通勤・通学の定期利用者=固定客が減少する)やらの構造的要因によるもんなんやし,事業者自身の努力だけではいかんともしがたいもんや。地方の中小私鉄に,安全性の向上のために,経営を圧迫するほどの高額な投資が必要とされたり,大都市圏の大手私鉄の中に,バブル期に行った関連事業のシッパイのツケの処理に追われたりするトコロがあるやら,個別的には,きわめて厳しい経営環境にあるトコも少なない。そないな中にあって,「協議会」による負担転嫁は,鉄道事業者からみれば,まさに「泣きっ面に蜂」や。

鉄道事業者は,「協議会」やら行政わいとの関係では被害者といえるが,これに規定される形で,自転車利用者との関係では加害者にもなっとる。

駐輪場設置やらの「協力義務」の内実いうたら,コスト面において行政わいによる利権追求と権限肥大化の結果ふくれあがったもんであるんみやったらへんし,ありようにおいても鉄道事業者自身の利害と乖離したもんになることを強要されとるといわねばならへん。「積極的」ちうんは,鉄道事業者の独自性において主体的に,ちう意味ではまるっきしへん。またきょうびでは,行政わいが行う「“放置”自転車」の「撤去」に要する費用の転嫁をも画策しとり,東京都豊島区による「放置自転車等対策税」導入策動にも,「協議会」は深く関与してん。

鉄道事業者にとってみれば,駐輪場に限らへんし,関連事業は鉄道利用に結びつかねば意味をなさへん。そんだけやのうて,鉄道の駅近辺はもちろん沿線一帯において,独占的地位を占め,排他的に顧客を囲い込んではじめて,今日的鉄道事業経営はその目標を達するっちうことになるちうわけや。こないな鉄道事業者(とくに私鉄)による利潤追求が,自転車利用者をはじめとする沿線住民に対して,サービス向上となる面も一定程度はあるが,そのほとんどが排他的・独占的地位を利用しての大衆収奪となっとる。駅ねきの駐輪場は鉄道会社もしくはその子会社・外郭団体が運営する場合,タダで利用できるトコはほとんどなく,その利用料金も独占的地位を利用して,公営駐輪場と同等か高めに設定してんことが多いちうわけや。そら,ようけの場合鉄道事業者や系列会社が路線バスを経営してんことから,バス離れした乗客が自転車利用に転換するんを抑止するためでもあるんや。かくして,行政わいと鉄道事業者の双方から,自転車利用者は収奪され,利用を抑止されとるのや。

自転車利用者が負担を強要されるもんの内実は,こないな独占価格によるもんばっかりとちゃうんや。行政わい−自治体が,自らのあくなき利権追求のために,経済原理をもシカトする形で,いわばわざとコストが嵩むような形で行った自転車「対策」のツケが回ってきとるのや。

こないなことが,局地的なもんにとどまらへんし,広範にまかり通るんは,まさに「協議会」の罪業であるといわねばならへん。

先進国の事例に学ばへん「反面生徒」

発足後間もへん時期から「協議会」では,オランダをはじめとする自転車利用先進国の事例を見聞すると称して,何度か欧州「視察」を行っており,その報告の類もいくつか出されとる。こないな見聞結果・報告事例が,日本の自治体による自転車政策に反映されることはほとんど皆無というてもええ状態や。むしろその逆を猪突猛進してきたのが「協議会」や。

なんでそうなってしもたのやろうか? 報告書の類をみると,その理由が見えてくるちうわけや。

こないな「視察」は,短期間に駆け足で回るもんで,ほとんどの滞在期間は1都市につき1〜2日,パックツアーの観光旅行以上のせわしさや。当然,現地担当者との会談・質疑応答も通り一辺倒なもんに終始しがちや。ほんで収集してきた「資料」ちうのも,どなたはんもが入手可能な,一般市民向けパンフレットばっかりや。こないなもんやったら,インターネット上で収集できるし,質疑応答も書簡やEメールで充分といえるもんや。なあんもわざわざ税金(「協議会」の財源は参加自治体の分担金でまかなわれており,会合や「視察」は,それらに参加する者が所属する自治体の負担やけど,いずれにせようちらが払った税金には違いはあらへん)を使うていくことはあらへん。

もっとも,自治体や地方議員の海外視察の少なからざる部分は,こないな駆け足移動と通り一遍の見聞に終始してんが,ほんでも事前準備を通じて職員の資質向上が図られよったり,事後の施策に反映されたり,相互交流を実現するやらの成果がもたらされる場合もあるんや。やけど「協議会」についていうたら,かかる成果がもたらされたことはあらへん。

公共性の高い場所での駐輪はほぼずぅぇえんぶがタダであることをはじめ,自転車利用者に経済的負担がかからへんようになっとることやら,「協議会」による自転車“対策”にとって都合の悪いことには,最初から眼を向けておらへんし,報告の中でも目立たぬようにそっとでも触れていればまだええ方や。まして,「協議会」のやることやから,現地の市民の生の声を聞くようなことは決してせん。

そないな中で「協議会」自身がはっきりと確認してきたんは,自転車利用先進国の実状が,自らの立場や利害,さらには進まんとする方向性の一切と,ことごとく対立するもんであるちうことや。

オランダ交通土木省が発行し「協議会」によって邦訳された「何はさておき、まず自転車」からみていきまひょ。

オランダが91年に始めた「自転車基本計画」では,自転車を奨励するために,一貫した国家政策を示すこと,効果的な手法の開発と実行に寄与するっちうこと,他の交通機関,公共団体,公共交通関係の企業,その他の企業が適正な措置をとるよう促すことをもりこんどる。「持続[的発展が]可能な社会」を交通政策の基準とするっちうことがその前提なんや。こないな政策の実行には,ようけの省庁やその他の機関が共同してあたるとしてん。

また,自転車利用のプラス面として,

  • 自転車はとくに5kmまでの距離に向いとる
  • 自転車は公共交通機関の端末交通に適してん
  • 自転車のためのインフラの建設や改良はごっつう安い
  • 自転車交通には環境汚染も騒音もなく,地方の細分化にも関係せん
  • 自転車は乗っても止めても場所をとらへん
  • 自転車はよいイメージをもつ。また,あらゆる層に好ましい交通手段と認められとる
  • 自転車は交通渋滞に巻き込まれへんし,速く目的地に着く点で信頼されとる
  • 自転車に乗れば気分がほぐれ健康的や
  • 自転車は安上がりや。自動車や公共交通機関の費用は高くなっとることからこら特筆すべきことなんや
  • 自転車は1人1台,好きに使え,手近で,家から目的地まで横付けできる

やらがあげられとる。

すでに述べたように,日本では自治体の一機関(土木部門であることが多い)が,自転車“対策”を独占し,これを利権としてん。そないな立場からしたら,他の公共機関,まして民間団体との協力は,自らの利権の減少と独占の崩壊を招くだけだ(もっとも,主権者の一角をなす自転車利用者の意見を反映させるゆう点では,かかる先進国とて決して充分とはいえへんが)。また,自転車のためにインフラを整備したら安価なことは,公共的観点からいうたら自転車利用者以外にとってもメリットやけど,その分利権(とくに土木利権)が減少する点で,避けたいゆうのが本音や。地域コミュニティーやその構成員にとちうのんメリットも,行政わいにとっては,パワーバランスを相対的に低下させられ,権力作用を低下させられはるもんなんやし,まして自転車がもつ本質的自由性にいたっては,統制困難な厄介者でしかいないちうわけや。

世に「反面教師」と呼ばれるもんがあるんや。人々の手本・模範とならへんばっかりか,その逆を行く存在のことや。となったら,学ぶ機会を得ながらも学ばへんどころか,学んでいればとったやろうトコとは逆を行く存在を「反面生徒」と呼んでええやろ。「協議会」は,単なる天の邪鬼を通り越して,まさにその「反面生徒」に他ならへん。

「協議会」にレッドカードを!

以上のように,この間日本の地方自治体−行政わいが進めてきた自転車“対策”が,直接の自転車利用者はもちろんのこと,それ以外のずぅぇえんぶの市民,ほんで環境にも敵対するもんであることは,すでに明らかや。またこないな,自転車“対策”はあっても自転車“政策”はないという日本の情況は,他の先進国ではみられへん否定的なもんであることも,今やどなたはんの眼にも明らかになっとる。

ほんでこないな世界の趨勢から落後しかねへんほどの否定的情況を作り出すべく領導してきた,「協議会」の犯罪性はきわめて重大なんや。「協議会」が,その利害関係と体質からして,積年の罪業を悔い改めることはまずあり得へん。もはや「協議会」に与えられるべき唯一のもんは,レッドカードをおいて他にはあらへん。

日本の自転車政策は,「協議会」の存在によって,ヨーロッパの自転車利用先進国と比べれば20年以上遅れた情況へと陥れられよった。やけど,決して悲観するっちうことはあらへん。その分自転車利用者をはじめとする主体的市民自身が,自らの手によって,自らにふさわし,新たな日本の自転車政策を,創造し実現してゆく余地がようけ残されており,大なる可能性を秘めとるのや。

今こそ,自転車利用者はもちろんのこと,ずぅぇえんぶの主体的市民の名において,「全国自転車問題自治体連絡協議会(自称「全自連」)」を解体しょう。ほんでこれを第一歩として,ずぅぇえんぶの都市住民と環境に優しい街を,ともに創り出そやないか。

(2003.5.31)

参考

日本地方自治体の自転車“対策”と「全国自転車問題自治体連絡協議会」
(ここでの出典・参考資料,その他「協議会」関連の資料については,こっちを見たってや。)
全国自治体における「“放置”自転車」“対策”の概況
(世界に類例を見へん愚劣な日本の自転車“対策”の元兇「全国自転車問題自治体連絡協議会」に参加・協力する自治体を中心に,全国各地における「“放置”自転車」“対策”の罪業を概観。)
豊島区が「放置自転車等対策税」導入しようとしよったん許さんで
(この導入策動にも「協議会」は深く関与している。)
『自治体・住民の法律入門』でおかしなこと書いとったで
(同書の著者・兼子仁は,「協議会」が追求する,自転車“対策”における行政当局の権限強大化に加担してきよったヤカラや。)

駐輪場強行設置の根拠となった自転車法改正は実に漫画チックな策略
(木村愛二氏のサイト 憎まれ愚痴仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記」より)