西宮市による自転車敵対政策強行を許すな

阪神・淡路大震災から7年目を迎えようとする中,改めて想起すると,被災地となった自治体の当局による被災者となった住民への生活再建支援,都市の復旧・復興に対する態度・姿勢に,かなりの差異を見出すことができる。この差異が端的に示されたものの一つに仮設住宅を挙げることができる。仮設住宅の建設・運営のあり方,仮設住民への対応などを通して,住民に優しいか冷酷かを見て取ることができたのである。既に姿を消した仮設住宅にかわって,今なお各所に存在する重要なメルクマールの一つに,自転車を挙げることができる。仮設住宅と自転車という,別個のメルクマールから導き出された結論の間には,極めて高い相関関係を見出すことができる。すなわち,仮設住民に優しかった自治体では自転車にも比較的優しく,仮設住民に冷酷な自治体では自転車にも冷酷であるということだ。

震災のとき,道路・鉄道などが寸断された中,被災者となった人々の生命をつなぎ,避難生活を支える上で,自転車・バイクといった身近な交通手段が果たした役割を,決して忘れることはできない。残念ながら近頃,これに対する忘恩の風潮が各地で見られるようになった。


大手スーパー前にて(左),再開発用地(右)

阪急西宮北口駅南西にて。街を行き,駐輪されている自転車は,千客万来と街の復興の証である。市内には,震災後もとの地に戻れない人が依然としている一方で再開発の強行もとまらず,その矛盾がこうした景観によって顕在化されている。

西宮市は,神戸と大阪の中間に位置し,武庫川と阪急今津線に沿って宝塚市に続く住宅地である北部,阪急神戸線・JR東海道本線沿いの都市機能を中心になって担う南部,阪神工業地帯の一翼を担う臨海地域の3地域に分けられる。西宮市当局は,震災後「愛と希望にあふれる西宮づくり」なるスローガンを掲げて,都市整備・再開発を進めており,南部地区は都市機能の中核たらしめるべくテコ入れされている。とりわけそのターゲットになっているのは,JR西ノ宮駅北側から阪急西宮北口駅付近で,ここは元々住宅地であったところだ。阪急西宮北口駅の駅や線路配置が現在のようになっても,また阪神・淡路大震災に遭っても,その基本的性格は変わらない。もっとも震災後は住宅などが再建されないままになっている土地もいまだに散見される。その原因がどこにあるかなど,今更ここで述べるまでもないだろう。

阪神・淡路大震災後2年半近くの間,西宮市当局は「“放置”自転車」の「撤去」という愚策に手を染めることはほとんどなかった。震災復興に土木行政が手一杯だったことが最大の理由であろうことは想像に難くない(ちなみに西宮市では,自転車関係は土木局にある「安全対策課」の担当。その名前の通り,自転車は「対策」の対象として位置づけられていることを意味する)。避難先から住民が戻っていなかったことなどに加えて,わずかであっても,震災時の生命維持に対する「報恩」の念もあったであろう。だがそれ以後反動化の道をたどってきたのである。

これまで,「駐輪場の整備」,「駐輪マナーの指導・啓発と駐輪場への誘導」,「放置自転車の移動撤去」を3本柱にした「“放置”自転車」対策をおこなってきた西宮市だが,ここに来て新たな局面をむかえようとしている。2002年4月から「駐輪マナー地域推進委員」制度を創設するという策動を,西宮市当局が進めているのだ。この「推進委員」なるものは,自主的に申し出た団体に,市が身分証明書や腕章を発行して無報酬で,駐輪指導などの活動にあたらせようというものである。無報酬という点で,従来の「駐輪マナー指導員」と異なるもので,その創設には,「地元自治会」の声なるものを口実にしている。以下,この問題点をいくつか指摘しよう。

まず,前提としての市当局の高圧性・反動性を無視できない。その反動性については,上述のこの数年間の流れで既に明らかだろう。また,いうまでもなく,自転車がそこに存在するということは,利用者の合目的的行動の所産であるという,当然なされるべき認識が,根本的に欠如している。さらにその上で,「“放置”自転車」なるレッテルを貼り,「移動」・「撤去」といった「対策」の対象とすること自体が,自転車利用者の立場を無視した,その存在に対する認識に重大な欠陥をもったものである。

自転車利用者を無視し,条例などを盾にとって駐輪を非合法化した上で,自転車利用者を「啓蒙」・「指導」の対象とみなすにいたっては,高圧的であるのみならず,市民を蔑視し,人格を無視したものといわねばならない。「啓蒙」・「啓発」とは,無知な状態にある者の眼を開かしめるという意味だ。無知蒙昧のゆえに自転車を利用している市民など存在しない。行政当局の中には,キャンペーンなどを「啓蒙」・「啓発」と呼びたがる部分も少なからずあるが,こうした語を用いることが,いかに人民をバカにしたものであるかを自覚し,猛省してもらいたいものだ。「啓発」されるべきは,こうした愚策を強行してきた行政当局者に他ならない。

自転車利用者も「地元自治会」員も,同じ人権と人格をもった市民である。もちろん市民とは多様性を内包した概念である以上,利害が対立する局面が存在することは不可避だ。その場合,利害の貫徹のために,相手の人権・人格,さらには存在をも無視して,一方的な方策を採る資格はない。まして「推進委員」なるお墨付きを得て,公権力を利用するにいたっては,主体性と人格をもった市民としてあるまじきものである。

それ以前に,自転車利用者と,同じ人格と人権をもった対等の市民として,対話をもったことがあるのだろうか? 自らの意見・立場を直接当事者間において主張するとともに,相手のそれに誠意をもって耳を傾けたことがあるのだろうか? こうした当然になされる対話の機会をもとうとしてこなかった態度に,大きな問題があるといわねばならない。このたびの策動は,こうした対話の機会喪失という否定的情況を深刻化させ,市民内部の対立と分断をさらに惹起するものである。

市安全対策課では,この無報酬の「駐輪マナー地域推進委員」を「ボランティア」という語で表現している。ここに見られる西宮市当局のボランティア観についても,批判的検討を要する。すなわち,行政当局を補完・下支えするものとみなしていることだ。また,それらを上から組織化するだけでなく,当局者にとって都合のいい存在にお墨付きを与え,そうでないものと峻別しようとする姿勢もうかがえる。そこには,ボランティアの自主性・主体性に対する認識に,重大な欠陥があるといわねばならない。もっともボランティアのなかに行政の下請けと化した部分が存在することについては,行政当局の意図や権力関係だけでなく,ボランティア活動をになう側に問題がなかったともいえない。この点については,活動の分野・対象の如何に関わらず,これまでボランティア活動に関わった経験のある一人一人の市民が,自らを省みる必要があろう。そして,ボランティアを利用しての上からの人民組織化・大衆操作に対して,不断に警戒しなければならない。

そして何よりも重要なことは,自転車利用者の地位向上と主体性の回復である。自転車利用者の立場や権利で,法律や条例が保障しているものはほとんどない。しかしながら,自転車利用が,自らの自由意思にしたがって移動する権利である「交通権」の一環であるばかりか,それ以前に基本的人権と自然権に根ざすものであることを,忘れてはならない。こうした自覚のもと,自らの立場について,堂々と主張しようではないか。

市当局およびその尖兵「駐輪マナー指導員」に対しては,自らがその「指導」や「啓発」の対象ではなく,主体性をもった市民として,自らの自転車利用の必要性と意義を訴えてゆくものでなければならない。これが市当局による自転車敵対政策を弾劾する第一歩である。

そして,まさに策動されているところの,「駐輪マナー地域推進委員」創設については,自転車利用者の立場を無視した,市当局の自転車敵対政策をエスカレートさせるものであるばかりか,ボランティア活動などの市民の自主的・主体的活動を歪曲し,行政の補完物へと変質させようとするものであるという,主体的市民とは相容れない反動性と反人民性を暴露し,その強行を阻止し,かかる策動を糾弾するものでなければならない。

これをなさずして,「報恩」から「忘恩」に転落した西宮市が「愛と希望にあふれる」街となることは難しい。


無人化されたJR西ノ宮駅北口有料駐輪場(左),JR西ノ宮駅南口の駐輪風景(右)

屋根などもなく,最小限の費用で建設した駐輪場を,自動化することで管理の人件費等も削減しようという,自転車利用者からの収奪がもっとも進んだもの。JR西ノ宮駅南口附近は西宮市当局が自転車敵視政策の刃を振り下ろしている場所の一つ。

(2002.1.7)


参考

尼崎市・西宮市・芦屋市における実例

ボランテイアが駐輪マナー推進 西宮市が4月から 」(2002/01/03『神戸新聞』記事)

情報博物館西宮市企画財政局企画部政策推進課作成)
 西宮市の被災情況などをまとめたもの。
 地理情報システム(GIS)を利用して作成された様々な震災関連地図等を掲載。