TV番組「ジカダンパン」批判
(テレビ東京 2002年12月9日放送)

2002年12月9日,テレビ東京で放映された午後9時からの1時間番組「ジカダンパン」において,冒頭から半分あまりの時間を割いて,一方的かつ感情的な観点から「“放置”自転車」問題が扱われた。同番組の当該部分の問題点を明らかにし,自転車利用の効果的促進を目指す立場から勝ちとられるべき意識変革のあり方について,考えていきたい。

「ジカダンパン!責任者でてこい!」とは?

この番組は,「愛の貧乏脱出大作戦」の後継として,2002年10月の改変期から放映が開始されたもので,司会は同じくみのもんたである。同局の番組分類では「開運なんでも鑑定団」[火 20時54分〜21時54分(一部地域を除く)]・「出没!アド街ック天国」[土 21時00分〜21時54分]などと同様,「情報バラエティー」番組とされている。同局によれば「問題解決に向けてみんなで討論」し,「責任者と相談者が直接対決する場、つまり「ジカダンパン」の場を番組が設け、何らかの発展が見出せるまで交渉を続け」るという趣旨である。

「社会問題」を扱うとはいうものの,決して報道番組でもドキュメンタリー番組でもない。したがって,ジャーナリスティックな視点と問題意識のもと,粘り強い取材を経て作り出されるものでは全くなく,採り上げた題材に対する掘り下げや問題点の整理も不十分なままに終始している。もっともこうした“硬派”番組は,制作コストがかかるものの視聴率がとりにくいことから,民放としては経営・営業面から敬遠される。そのため,本来こうした番組で採り上げるべき題材も,娯楽性を追求し,センセーショナリズムに走るバラエティー番組で採り上げられることとなり,採り上げた題材に対する理性的理解と合理的判断の機会を,視聴者から奪ってしまう。

これは,「社会問題」をバラエティー番組で扱うことについての一般的問題だが,この番組では,司会者・みのもんた(「愛の貧乏脱出大作戦」で,「貧乏脱出」修行に取り組む人たちを忍耐強く温かく見守り,時には厳しく叱り励ましていた姿は,もはやここでは見られない)をはじめとする出演者が,「“放置”自転車」に対する,敵対的感情をむき出しにして,思いつき的・場当たり的な悪罵を投げつける中で進められたため,バラエティー番組に求められる娯楽性の点からもきわめて不健全なものであったと言わねばならない。

よってこれは「社会問題」を扱う番組としても,バラエティー番組としても,重大な欠陥をもったものである。

いくつかの事実誤認と偏向

一方的かつ感情的な採り上げ方がされているが故に,番組で採り上げられたことがらには,数々の疑問点,事実誤認や偏向というべきものがある。その中の主なものについて指摘しておこう。


光が丘公園脇の桜並木 (2003.3.31)

光が丘は広大で平坦な土地に公園とニュータウンがつくられている。大規模ニュータウンとしては新しい方で,並木の桜の木も若い。

舞台となった光が丘は,東京都練馬区の北部に位置するニュータウンで,団地の北側に光が丘公園が広がる。戦時中は陸軍の成増飛行場,敗戦後は米軍住宅(グラントハイツ,Grant Heights)などに利用されていたが,その広大な跡地を整備して今日の姿になった。都心への交通アクセスとしては,従来,ニュータウン中心部から発着するバスや,北側にやや離れたところを走る東武東上線・営団地下鉄有楽町線及び川越街道を通じて池袋方面に向かっていたが,最近,都営地下鉄12号線(大江戸線)が開通し,新宿方面への所要時間が短縮された。

同じニュータウンでも千里(大阪)・多摩(東京)よりも造成時期が遅いため,住民の年齢構成もそれらより低い。また,山林を切り開いたものでないため,地形は周辺部も含めて平坦で,自転車利用には便利といえる。

そんなことするのが“ボランティア”!?

何となく見ているだけならもっともらしく思われるようにつくられた映像も,少し注意してみればいくつもの問題点を見いだすことは容易であろう。

番組出演を申し出た光が丘在住の主婦が,朝の光が丘ニュータウン中心部で「“放置”自転車」にビラをくくりつけている姿が映され,この主婦はビラの資金について,提供者がいるとしているが,取材に当たってその裏付けをとったのだろうか? この長期不況の中で,こうした資金を出す人がいるというのも奇妙な話だ。またこの主婦らがそうまでして「“放置”自転車」の放逐に執念を燃やす動機・理由については不可解なままである。

だが見逃してはならないのは,かかる行動を“ボランティア”などと称していることだ。「volunteer」という語が自発性に由来するという点では,これも“ボランティア”かもしれないが,自らと利害が対立する存在を一方的に抹殺・排除することが,社会実践としての“ボランティア”の名に値するだろうか? これは“ボランティア”の僭称・詐称である。


ビラをつけられた自転車(左)とそれがあるショッピングセンター・光が丘TMA脇(右) (2003.3.31)

1台の自転車に数枚も張り付けられているものもある。自転車に対して異常なまでの執念と敵意を持ち,放逐に駆り立てる動機は何であろうか? かかる行動をとる人物は,自転車がそこにあるということが,利用者の合目的的行動の所産であるという,当然のことを理解できない,もしくは理解することをかたくなに拒んでいる。地下鉄大江戸線光が丘駅から,ニュータウン中央部の光が丘TMA脇を抜けて光が丘公園に至るところは,公園の一部として東京都の管理下にある。駅附近と商業区域をはずれると,清掃工場の横を通るため,住民の生活道路としての性格は薄くなる。

バリアフリーと共生

番組では,光が丘ニュータウン中心部での「“放置”自転車」数を約1000台としているが,これまた無根拠な,誇張された数字である。放映された映像の中で当該地域での実際の駐輪情況を引いて撮影して全体像が解るようにしたものがほとんどなかったことが,それを裏書きしているともいえる。

「“放置”自転車」が「迷惑」になっている場面という映像もつくられた。すなわち駐輪された自転車の狭い列の間を車椅子が通ろうとしてその妨げになっているとするものだ。現に車椅子の通行の妨げとなっている自転車があるにせよ,それは「約1000台」のうちほんの数えるほどでしかない。このことを以てそのすべてを排除する理由とするにはあまりにも飛躍がありすぎ,合理性は全くない。冷静に考えればすぐに解ることだ。

ニュータウン内にある障害者施設が,利用者である障害者のニーズに真に沿ったものであるとともに,都市計画上の必然性とも合致したものであるかについての検証などがいっさいなく,これまた自転車を一方的に悪者にしただけのものだ。むしろこうしたところから,歩行者のみならず車椅子・自転車を含めての,単なるバリアフリーを越えて,真の共生を目指す方策を見いだすべきではないか。各々による少しの工夫と配慮があればいい。まずは,自転車と利用者に対する心の「バリア」を「フリー」にしてもらいたい。

自転車利用者もまた自らと対等な市民であるとの認識が,根本的に欠如している。共生を目指すべく意識改革が求められている。しかもよけいなコストをかけない,かけさせない中で,その現実化が図られなければならない。

役所の縄張り!?

番組では,ニュータウン中心部において,練馬区の管理下にある部分では「“放置”自転車」が見られないのに対し,東京都管轄下にある光が丘公園に属する部分では駐輪されている映像を流し,これをもって「役所の縄張り」をやり玉に挙げている。こうした捉え方に妥当性はあるのだろうか。


練馬区役所 (左: 2003.3.28), 東京都が立てた看板(右; 2003.3.31)

バブル期に建設された豪華庁舎の典型。建設のみならず,維持・管理にも多額の費用がかかり,ひいては区の財政を放漫化させてゆく。威圧的な外観と色は,自転車に対する姿勢を反映しているようだ。

練馬区当局の強権的自転車敵対政策

番組では,練馬区の「“放置”自転車」“対策”担当者が出演し,区当局の“対策”に対する“熱心”さを印象づけ,一方的な宣伝の場として利用していた。だが自転車及び利用者の立場からすれば,この練馬区こそは,「全国自転車問題自治体連絡協議会」なるものを組織し,区長・岩波三郎がその会長を務めるなど,「“放置”自転車」対策において全国の自治体の最先頭に立っている,いわば自治体・行政による自転車イジメの総本山なのである。(「練馬区における実例」・「「全国自転車問題自治体連絡協議会」を解体せよ」参照)。

練馬区は,バブル期に豪華庁舎を建設し,建設費のみならずその後の維持費などにも多額の出費を恒常的に続けているにとどまらずらず,区施設で使用する什器・設備なども短期間で処分しては入れ替えるなど,慢性的に放漫的・浪費的な財政支出をしてきたことで知られている。こうした練馬区当局も,昨今の経済情況を考えれば,新たな支出対象は見つけにくいと思われがちだが,実はそうではない。この「“放置”自転車」“対策”こそが,青天井の支出対象とされているのだ。

彼らは鉄面皮にも,練馬区では「“放置”自転車」“対策”に年間10億円もつぎ込んでいるとか,「“放置”自転車」1台の「撤去」に5000円かかっているなどと,臆面もなく語っている。このことは第一に,「“放置”自転車」“対策”が区当局にとっておいしい浪費先であり,その金額の分だけ大きな利権となっていることを示すものであり,第二に,自由競争や市場原理でコストが決まるものでないのみならず,区当局者が恣意的に押し上げることができることを示している。特にその5000円の内訳として「保管費用」が2500円としていることからも明らかである。作業工程が衆人の目に触れる「移動費 2400円」や,常識的に推測が容易な「通知費 100円」(これらも社会常識から見れば高すぎるが)とちがって,いかようにもできるものである。まさに練馬区当局にとって「“放置”自転車」“対策”は「金のなる木」なのである。

画面を注意して見ていた視聴者や地元住民なら既に気づいているだろうが,練馬区では区の委託を受けた自転車整理員は,警察関係者と見まがうような紺色の作業服を着用している。これはまさに,練馬区当局の強権的自転車敵対政策を体現したものである。普通この種の作業では,明るい色,もしくは目立つ色を着用することが多く,中には蛍光色のものや反射ベストを着用する場合もある。これは高齢者が多い作業従事者の安全に配慮したものであるが,練馬区当局の眼中にそうした配慮はない。自転車や利用者だけでなく,整理作業従事者をも虐待しているといえよう。

「利権」という以上,練馬区当局は「利」のみならず「権」も追求する。練馬区当局が「全国自転車問題自治体連絡協議会」を通じて行ってきた主要なことは,「“放置”自転車」対策にかかる自治体の権限強化なのだ。こうした権力の肥大化が,住民サービス向上とはおよそ無縁な,危険きわまりないものであることを確認し,警戒しなければならない。

番組に出演した練馬区当局者は,「自転車の安全利用の促進及び自転車駐車場の整備に関する法律」(いわゆる「自転車基本法」)についても言及する。これは練馬区に限らず多くの自治体で,これに依拠したところの条例を制定することで,「“放置”自転車」を「撤去」するなどと言った“対策”を正当化する口実に使われているものだ(「放置」・「撤去」などのコトバの不当性については「日本の都市における自転車利用の現状」を参照)。これについて件の当局者は,議員立法でつくられたため,理念的で具体性に欠ける,などと述べた。これを,議員立法をおとしめるものとして批判することもできるが,それ以上に見逃してはならないのは,その後の方である。

これまた一見具体性に欠ける点を批判しているように見えるが,実は,それを最大限利用して,自らの利益と権力の増大に利用してきたのだ。しかもそれで飽き足らなくなるや,「全国自転車問題自治体連絡協議会」を通じて,同法の「改正」(もちろん自転車利用者から見れば「改悪」である)を求めるロビー活動すら行った(要は圧力をかけた)のであった。

一般に,法律はその適用する対象・条件に明確な規定がないと,それだけ解釈・裁量によって,権力者が恣意的に利用する危険が多くなる。また,それを見込んでわざと拡大解釈可能な抽象的・曖昧な規定を盛り込むことがある。たとえば,戦前の治安維持法が1928(昭和3)年に改悪された際に「目的遂行罪」条項が追加され,適用範囲をいかようにも拡大解釈できるようにしたことにより,多くの良心的な市民が投獄されたのであった。

自転車に関する問題と,ファシズム体制下の治安問題とは違うと思われるかもしれないが,別の面から見れば共通点もある。すなわち,おかれている情況の不当性である。自転車及び自転車利用者の地位や権利などが保障されておらず,都市・道路政策においても配慮されていないことが多く,不当な情況におかれていることである。

それだけではない。自転車及び自転車利用者の立場や権利を無視・抹殺する形で,一方的に「“放置”自転車」を「悪」と決めつけ,その排除をとなえる反「“放置”自転車」キャンペーンのごときものの犯罪性・イデオロギー性をも見逃してはならない。この点でも,今日の日本における自転車及び自転車利用者のおかれている情況は,ファシズム体制下に「アカ」のレッテルを貼られた良心的な市民と共通している。この点で共通点をもった別の例として,中世ヨーロッパの魔女狩りや,旧ユーゴスラヴィアの民族浄化などが挙げられよう。こうしてつくられた,自転車及び利用者に対する一方的な意識の虚構性・不当性を自覚し,その克服を勝ちとるものでなくてはならない。

練馬区当局の強権的自転車敵対政策の危険性・反動性をはっきりと確認し,その強行を許してはならない。

東京都の冷静な態度

番組では,光が丘公園を管轄する東京都の担当者に出演を求めたところ,拒否されたことを伝えている。番組を利用しようとの意図からも出演を「快諾」した練馬区当局者とのコントラストも相まって,東京都側が「悪役」扱いされているような印象を受けるが,ここでの都の態度は,特に批判される筋合いのないものだ(もっともそれも,有料駐輪場の利用を強要し,練馬区当局による大衆収奪に加担するなど,最後には怪しくなったが)。

東京都の,ひいては行政機関やそこでの公務員の立場や本分を考えれば,簡単に解ることだ。そもそも「“放置”自転車」対策は,市町村及び東京特別区が行うもので,都道府県が行うものではない。そうであるが故に練馬区などもこれを利権にできるのである。法に定められた根拠もないことを勝手にするのは,危険な暴走であり,法治国家の一機関としてあってはならないことなのである。

一般に日本の自治体は,国からの機関委任事務や地方交付税交付金のために,独自の裁量でできる範囲が少なく「三割自治」という言葉があるほどだ。だが,行政機関とともに,直接選挙で選ばれる議会と首長(いわゆる大統領型)を擁するという機構上の特徴からいえば,強大な権力機構である。東京都に関していえば,その財政規模はオーストラリア一国に匹敵するほどだという。権力機構という面から見ても強大なものであるだけに,その運用に当たっては,誤用・濫用を防ぐべく,非常な注意と自制が求められる。

行政機関としての自治体は,その対象となる住民に対しては公平性を保たなければならない。利害が対立している一方の当事者の側に立ち,もう一方を蹂躙するなどということは,あってはならない。この点からすれば,オカシイのは練馬区であり,これに立ち入らない東京都はマトモなのだ。また日本国憲法において「すべて公務員は,全体の奉仕者であって,一部の奉仕者ではない」(第15条-2)と定められていることからも,解ることである。

かかる点からして,ここでの東京都の態度は冷静なものであったというべきだ。

「“放置”自転車」対策を口実にした,いっさいの利権増大とあらゆる権力の強大化を許してはならない。


光が丘の駐輪情況 (2003.3.31)

(左上)練馬区当局だけでなく,郵便局も自転車放逐に手を染めている。郵政公社化による利便性の向上との矛盾も,今後ますます生まれてこよう。「いままで不便、ごめんなさい」・「これから便利、はじめます」・「真っ向サービス」などといったキャッチフレーズも,自転車利用者には無縁なようだ。(右上)以前からあった駐輪場。練馬区営で当然有料。しかしここが有料化されたのは地下鉄大江戸線が光が丘まで延伸された翌年の2001(平成13)年のことだ。(左下)ニュータウン中央を東西に走る大通り。この路上には多くの自転車が止められていた。練馬区当局は最近になって,この場所に駐輪用ラックを設置し,有料駐輪場とした。駐輪実態・需要に応じて駐輪場を設置するだけなら至極当然のことだが,有料化による大衆収奪の強化と,駐輪可能台数の減少を見落としてはならない。(右下)路上の駐輪可能台数の減少により,隣接するショッピングセンター・光が丘TMAの駐輪場が混雑し,これに入りきれない自転車は,以前駐輪されることのなかった通路や,さらにはペデストリアンデッキ上にもおかれるようになった。もちろん光が丘TMA脇の光が丘公園に至る道路にも自転車が増えている。これらは,練馬区当局による利用者無視の自転車政策の所産である。

アメリカでは…

アメリカの事情に詳しいとされる1人の男性出演者が,高い罰金を科すなど厳しく臨んでいるからアメリカには「“放置”自転車」問題はないとの趣旨の発言をしていた。だがここにも大きな落とし穴がある。

確かにこの男の言う通り,アメリカには「“放置”自転車」問題はないと言っていい。だがその理由はこの男が言うのとは全く違っている。実際,ヨーロッパ同様アメリカの都市でも路上に駐輪されている自転車はある。それは,そうしたことが市民の間で理解されている,言い換えればそれだけ自転車という移動・交通手段とその利用者が「市民権」を得ているからこそ可能なのだ。同様の現象であっても,「“放置”自転車」というレッテルを貼って敵視し排除しようとする日本の現状とは大きな違いがある。

日本との違いはまだある。駅前などの公共性の高いところにある駐輪施設は,どこでも誰でも無料で使えるのが普通なのだ。バスや電車の運賃に匹敵する料金を取るような有料駐輪場など,ほとんど皆無である。また地下鉄を含めた鉄道車内への自転車持ち込みが可能なところが多く,バスに自転車を乗せるラックが付いているところも多い。これなら駐輪それ自体が必要なくなるわけだ。

蛇足ながら付け加えると,昨2001年9月11日のニューヨーク・ワシントンへの攻撃事件を契機に,反米的性格の地域・民族紛争を背景とした“テロ”への警戒を強めていることや,麻薬取引などの重大な事案に対して厳しく臨んできたことが知られているが,実際にはこの数年間,日常的な次元での都市の治安に関しては,むしろ軽微な犯罪に対して厳しく臨んできたのだ。ニューヨ−クの前市長・ジュリアーニは,これで都市治安の改善の成果を上げたことで知られている。これもまた日本と違っている。この男はそれと混同しているのだろう。その場の雰囲気に流されて一般的な治安問題と自転車に関する事柄を無媒介に結合させてしまったのだろう。ともあれ,件の人物が自転車事情についての見識がないことだけは確かだ。

公共性の高いところでの駐輪場所については,利用資格を限定したり,事前登録を求めたりすることなく無条件に,かつ無料とするべきである。またそれにかかるコストについても最小限にとどめるべく社会的合意を広範に形成してゆくことも必要である。何も難しいことではない。ただムダなこと,無理なことをやめればいいだけのことだ。

自転車の存在を否定・抹殺したり,利用者の人格・権利を無視している現状のままでは何らの進展も望めないし,かかる現状を前提にするいっさいのことは望んではならない。すべての人が心と理性の窓を自転車に向かって開く。これが第一歩である。こうした意識改革なしには,「“放置”自転車」問題はなくなることはないし,いかなる改善策も砂上の楼閣でしかない。

(2002.12.20)

追記:03年3月10日の放送から

放送開始から約半年が経過した2003年3月10日,番組で取り上げた事柄のその後を追跡するという企画がなされ,件の光が丘駅付近における駐輪問題も取り上げられた。去る2002年12月9日放映の映像を抜粋して流しつつ,自転車と利用者に対して「迷惑駐輪」などという悪罵を投げつけ,いったんは駅付近から姿を消したそれが2週間ほどで元に戻ったことを紹介し,さらには,こともあろうに司会者・みのもんたが,駐輪する自転車利用者に対して「ジカダンパン」を求めるという,恫喝まがいの言辞すら弄したのであった。このように,自転車および利用者を省みることなく,一方的かつ敵対的な姿勢をさらにエスカレートさせていることを弾劾しなければならない。

そもそもその場に自転車が駐輪されているということは,生活者としての必然性から生じる利用者のニーズがあるからであるという,ごく当たり前の前提を没却することから,自転車および利用者を無視した一方的・敵対的観点が生まれ,「“放置”自転車」問題が発生するのである。公共性の高い場所においては無条件・無料で駐輪できるようにするのが当然なされるべき政策であり,そのためにはすべての主体的市民が,自転車および利用者の立場を理解し,認めることが求められる。このことを確認しておこう。

練馬区当局の強権的自転車敵対政策の危険性・反動性については既に述べたが,彼らが同時に環境問題について無知無策であり,かかる政策がこれに棹さすものであることも見逃してはならない。都市における環境問題,とりわけCo2などの大気汚染の抑制が重要かつ急を要する課題であることはいうまでもない。この点について交通手段との関連で何がしらの対応が,政府(国土交通省)や都レヴェルではなされようとしており,自転車利用については少なくとも後ろ向きではない対応がなされようとしている。だが,練馬区当局の強権的自転車敵対政策は,こうしたものに対して矛盾し,その政策効果をうち消す作用があるものであるといわねばならない。そうしたもののために,その立場を無視され,対策の対象とされたところの人民からも収奪した血税を浪費し,環境破壊に手を染めるものであるといわねばならない。まさに反人民的であるのみならず反環境的である。

かかる反人民的・反環境的自転車敵対政策を弾劾し,今こそ私たち主体的市民の手で根底からつくりかえていこうではないか。

(2003.3.18, 4.1)

TV局に以下のコメントを送りました

株式会社テレビ東京御中

2002年12月9日放送の「ジカダンパン!責任者でてこい!」を拝見しました。

当方,「都市生活改善ボランティア〜Volunteer for Reforming Urban Life」では,「すべての都市住民と環境に優しい街を」とのコンセプトのもと,自転車利用者の権利擁護,地位向上,自転車利用の効果的促進のための調査・提言を行っています。

同日の標記番組は,自転車利用の現状,自転車利用者の立場を無視した,一方的な観点からつくられたものである点で,看過できません。

以後,標記番組に限らず、御局全体として,自転車利用の現状,自転車利用者の立場に配慮した番組制作をされますようお願いします。

標記番組についての当方の見解は,
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4515/ にて
表明しておりますので,詳細についてはそちらをご覧下さい。