フジテレビ番組における
|
「…アメリカ人に追いかけられたことあるんですよ。自転車が車と同じところ走っているんですよ。何気取りかしれませんが、サイクリングみたいな。40、50キロも出るわけないじゃないですか。バッパーと鳴らしたら、白人が顔真っ赤にして、バックミラー見たら、鬼の形相で追っかけて、原宿のところでつかまって、ボクの車の周りをぐるぐる回って。何でやねん。俺間違ってへんよと思って…」(音声 再生にはwindows media playerが必要です) |
なる妄言があった。さらに度し難いことには,これに笑いなどで付和雷同し同調する出演者らすらいたのだ。番組放映直後からこれに対しては,自転車利用者のみならず多くの視聴者から澎湃として抗議の声がわき上がった。フジテレビとしてもそれを無視できないものとなったことは,同局のホームページにおいて公開された視聴者の意見の中にかかる抗議が含まれていることからも見て取れよう。かかる妄言とそれに盲目的に追従する番組の雰囲気がもたらした問題点と犯罪性は,決して小さなものではない。
かかる番組と件の妄言を通して見いだされるべき問題は何だろうか?
直接的にはまず,道路交通法に対する無知と違反について問題とされねばならない。道交法上軽車両に含まれる自転車は,車道を走るべきものであり,「自転車が車と同じところ走っている」こと自体に何ら誤りはないのだ。また同法によればかかる情況においてクラクションを鳴らすことが違法行為となる。もちろんここで法を絶対視したり,杓子定規な解釈の中に問題を収斂させたりしてはならない。こうした妄言に刺激され,かかる意識のもとで自動車を運転するものが増えることで,自転車利用者がヨリ危険にさらされるという問題が生じる。しかもそうしたものをテレビ放送の電波で広めてしまうことの犯罪性にいたっては,もはや説明の必要はないだろう。
こうした発言の前提として,自転車および利用者の立場に対する認識と視点が欠如していることを指摘しなければならない。「交通問題」が生じる一つの理由として,自らと異なった目的・手段・方向などで道路を利用する存在との間での矛盾を挙げることができる。自転車はもとより自動車・歩行者などとられる手段によって,その物理的エネルギーの大小差が生じ,事故の場合に限らず,その強者の優位性と弱者の劣位性(およびヨリ高く深刻な犠牲可能性)を顕著に反映させる形で現実化される。これは当然といえば当然のことだが,その認識を欠くことで,自らの移動手段を他者への凶器へと転化する危険性を高めることになる。またそれとともに,自らが多様な存在の一つであるという認識を,自らと異なる存在との関係を通じて形成していないことをも意味する。これは市民社会の一員としてもつべき認識の欠如でもある。
バラエティー番組でかかる問題を扱うことの不適切性についても触れておこう。すでに別途述べたように,バラエティー番組で取り扱うということは,ジャーナリスティックな視点と問題意識のもと,粘り強い取材を経て作り出される報道番組とは全く異なるもので,採り上げた題材や問題点についてもおざなりなままに扱われ,浅薄であるのみならず,一面的・一方的なものになりやすい。本来報道番組で採り上げるべき題材も,娯楽性を追求し,センセーショナリズムに走るバラエティー番組で採り上げられることで,採り上げた題材に対する理性的理解と合理的判断の機会を,視聴者から奪ってしまう。
この「交通バラエティ 日本の歩き方」は,2003年10月よりレギュラー番組化が目論まれているようだが,それ以前のプロ野球中継中止時の穴埋め番組としてであっても,かかる問題ついては同様に追及されねばならない。番組紹介によれば「家から外に一歩出ると、誰もが否応無く関わらざるを得ないもの…それは『交通』です!!この番組では、その『交通』を日常生活に根ざした視点からさまざまな角度で取り上げ、楽しみながらためになる情報を満載して参ります」という趣旨のようだ。だが具体的内容を見ると,「終電車終着駅最後の乗客」,「おかしな道路」など,興味本位的に取り上げても,そのこと自体が重大な問題にならないと思われるものも少なくないが,利害対立や矛盾が生じている場にあって,その一方の側に立ち,盲目的・感情的に取り上げたものも少なくない。件の妄言もその一例といえるが,ほかにも「スーパー特売日に商店街に出現する迷惑駐輪」のごときがそれだ。これは,商店主・商店街による「“放置”自転車」への八つ当たりという,この種の番組の典型的なパターンだ。
さらに件の妄言については,人種・民族など,自らと異なる他者への差別・蔑視が含まれるという点でも重大な問題であるといわねばならない。「交通問題」がヨリ重大な問題になる情況では交通量が多く,その内実もいっそう多様であることが多いことはいうまでもない。その前提として,とりわけ都市部においては,その主体たるべき市民は多様性を内包した存在であり,当然にも個々の構成員は生活習慣・価値観などの文化的背景を異にしたもので,その差異を認めあいつつ共生するものでなければならない。
かかる観点からは,件の妄言を単なる個別具体的な法規に対する無知や,他者認識の欠如としてとらえれば,問題を矮小化することになり,そこから導き出された改善・解決策もまた付け焼き刃的なものにとどまらざるを得ず,本質的解決には寄与しない。主体的市民による多様性の中での共生のあり方を構築するする過程として,かかる問題は取り扱われ,その中で解決されねばならない。
件の番組におけるかかる妄言に関して,フジテレビだけでなく,スポンサーである日産自動車にも抗議の声を寄せた視聴者や自転車利用者も少なからずいた。この場合,スポンサーである同社の責任はどこまで問われるべきであろうか,またスポンサーとしての同社が持つ権利,さらには社会的責任なども併せて考えてみよう。
国内はもとより世界有数の自動車会社である同社が,交通手段である自動車を製品として供給している以上,そのユーザビリティーの確保・発展をはかることは,そこから利潤を得るべき企業としてはごく当然のことである。スポンサーとして番組を提供することは,単に出資の代価として,その時間中に一定量のCMを流す権利を得るのみならず,番組内容についても,その支払うべき代価の範囲で,自らの利害を貫く権利をも得ることとなる。併せてその方法や内容についての責任も生じる。
したがって件の番組についても,自動車製造者および利用者の立場に立っての利害追求および主張をすること自体は,スポンサーとしての権利の範囲内であり,それをも否定する批判・糾弾は度を過ぎたものである。問題はその具体的内容と方法である。自動車製造者および利用者の立場の貫徹をはかるにせよ,かかる妄言のような一方的・感情的なものが社会的理解を得る上で寄与するとはいえないであろう。少なくとも現下にあっては,かかる立場性の貫徹においても,他者との関係性において共生を目指すことが求められるというべきだ。これは,環境問題との関連で,走行性能や安全性の追求だけでなく低公害化が要求されているのと同様,現下の趨勢である。これに沿ったものたらしめることが,スポンサーの権利と責任であるといえよう。
バラエティー番組はフジテレビの看板ジャンルといえよう。それだけにかかるジャンルにおいては他局以上の制作量があるのみならず,視聴者間の人気と定着度において実績を持つ。それだけに影響力も大きい。そうした影響力に比例して増大するべき社会的責任という点では,厳しい見方をせざるを得ない。このことは,同局のバラエティー番組での妄言・愚行が相次ぐことによって示されている。これを逐一指摘していたらたちまち本が一冊できてしまうほどなので詳しく取り上げるわけにはいかないが,最近のもので度し難いものを一つ挙げるならば,いわゆる「便器」事件を忘れることはできない。
8月13日「水10! ワンナイトR&R」という番組内のコーナー「ジャパネットはかたテレビショッピング」において,宮迫博之・出口智光が行ったコントがそれである。便器の中に王貞治(現・福岡ダイエーホークス監督,日本プロ野球名球会代表幹事,元・読売ジャイアンツ選手・監督)の顔が沈んでいる,洗浄機能付き便器のパロディーであるところの「王シュレット」なるものに宮迫が跨り,山口が「王さんちょっと喜んでますねぇ」などとほざき,ついで宮迫が「痛い! 痛い!」と大げさに騒ぐというものであった。
この下品かつ破廉恥極まりない番組に対して,福岡ダイエーホークスは球団として正式に抗議し,同球団が2003年のパ・リーグで優勝した場合,日本シリーズをフジテレビ系列で放映させないとするなど,厳しい態度をとった。王監督個人のみならずプロ野球全体を侮辱するものという弁も,現役選手時代の活躍からすれば決して誇張ではない。
これは,侮辱の対象が「世界の王」だからとか,一個人にとどまらないから問題だというのではない。笑いのためには,他者の人格や尊厳をいっさい顧みず,蹂躙することも何らいとわないという,出演者・制作者はもとより放送局としての見識と体質に,根元的問題があるといわねばならない。王監督であろうと自転車利用者であろうと,かかるものをないがしろにした点では,根元的問題においては共通しており,同罪である。
自転車および,主体的市民の一員たる自転車利用者の立場から,この妄言と番組およびかかるものを放映したフジテレビを弾劾する。
(2003.9.17)
捏造された「番組に送られてきた一通の封書」の映像。
切手と消印がないばかりか,折り目すらない真新しい封筒。番組制作者として主観的にはイメージ映像のつもりだったのかも知れないが,その実態たるや虚構を以て視聴者を欺くものにほかならない。かかる行為に何らの罪悪感も否定感も抱かない姿勢については,厳しく弾劾されなければならない。
低俗娯楽番組「交通バラエティ 日本の歩き方」は,8月26日放送分で,社会的問題を扱う資質において根本的欠陥を呈し,さまざまな立場の多くの市民から囂々たる批判を浴び,主要スポンサーが離れるにいたった。
しかしながら破廉恥にも,10月に入り,こうした声に挑戦するかのごとくレギュラー番組化が強行された。番組出演者による放言・妄言の類は,先の今田耕司にとどまらず,他の出演者からも相次ぎ,その内容・口調も煽情的になるなど,さらに悪質化が進んだ。
10月13日放送分では,番組冒頭からの大半を高速道路の渋滞を,イライラや怒りといった類の感情に依拠し,それらをさらに煽る形で取り上げた。その後「自転車vs歩行者」なるテーマのもと,人通りの多い商店街,早朝の駅附近での駐輪や自転車走行情況の映像を映し出し,「自転車のせいで安心して歩道を歩けない」,「通勤自転車軍団」などとして,自転車への恐怖心および利用者への敵対的感情を煽り立てた。なかでも番組出演者の一人・うつみ宮土理が,
「歩いてる人にとって自転車ってすごく怖いもの。ハンドバックぶつけられたりね。ハンドルのところで。」 「(子どもを前後に乗せている人について)そういう人は意外と横暴だよ。」 |
と罵倒する一幕は,この番組の一方的姿勢と低劣さを端的に示しているといえよう。
この妄言の伏線には,一見するともっともらしくも見える部分もあったが,中には事実に基づかない,実際上不条理な自転車との“接触”・“衝突”を含めた映像があった。また,通勤に利用される自転車については,望遠レンズによる遠近感の圧縮効果を悪用し,自転車が実際以上に密集しているように見えるようにつくったものも含まれているなど,自転車に対する畏怖心・敵対的感情を煽るのみならず,歩道を走る自転車を避けて歩行者が車道を歩く映像を流すなど,奇異な映像ソースを追及した所産であることが一目瞭然なものもあった。
かかる枝葉末節的な部分はともかく,「自転車vs歩行者」なるテーマにも端的に示されたとおり,この番組が,歩行者・自転車双方,とりわけ歩行者をして,自転車および利用者に対して,自らと相剋・敵対する存在であるとの意識を刷り込ましめるという,犯罪的役割を果たしたものであることをハッキリと確認し,弾劾しなければならない。
ここで重要なのは,「自転車vs歩行者」(さらにはこれに「vs自動車」も加わる)なるテーマと枠組み自体がもつ犯罪性を確認することである。個別具体的,さらには枝葉末節的事象をもって,歩行者・自転車・自動車各々に一般化したり,一つの立場から他者を罵倒するがごとき議論は,良心的・主体的市民のあるべき態度としては,厳に慎まねばならないものである。かかる議論は,件の枠組と同様に低次元で愚劣なものであるのみならず,それに規定され,その掌で踊らされるに等しいものであるといわねばならない。
そもそも生産的な議論が行われる前提として,その対象についての定義が明確になされ,それが意見の如何に関わらず議論に参加する者の間で共有されていることが必要だ。この番組中では何をもって「“暴走”自転車」と呼んだのだろうか。
同じ“暴走”でも,バイクや自動車を用いて集団で行う,いわゆる暴走族(現在ではこれを「珍走団」と呼ぶこともある)の場合は,比較的明確だ。速度や走行車線・方向などが道路交通法に違反するのみならず,他者への迷惑・危険が多大となると思われるものをもってしているといえる。もちろんこれ自体厳密性という点では若干の疑問が残る。その疑問の少なからざる部分は,かかる迷惑や危険が,集団によって行われることにより生じる,もしくは著しく増大すると認識されることによるものである。すなわち問題認識としての“暴走”とは,その対象が集団であったり,それを総体として認識することによる要素が多分に含まれているといえる。逆に個々のものによる一過性の行為に対して“暴走”と呼ぶことはまれである。
「“暴走”自転車」は,こうした「暴走族」のごときよりも漠然としたものだ。番組映像をよく見ると,少なくとも“暴走”という言葉が連想させるような速度ではない。歩行者を初めとした,自転車利用者以外の存在からみて,その個々具体的なものではなく,総体としてとらえることで,嫌悪感や威圧感をもよおす自転車をさしていうものであることがわかる。要は,敵対する存在としての自転車に対するレッテルとして,停まっていれば「“放置”自転車」−「違法駐輪」と呼ぶのと同様,動いていれば「“暴走”自転車」と呼んでいるのだ(「“暴走”自転車」の取り扱いに関する問題点については「TV番組「ご近所の底力」批判」参照)。
10月20日放送分では冒頭から,同13日放送分をうけて,自転車および利用者の立場・権利をないがしろにし,蔑視・嫌悪感・敵対心などを煽り立てる内容が,コマーシャルをはさんで30分あまり続き,番組出演者の意識と制作者の姿勢の低劣さがいっそう顕著になった。
いっそう悪質化した番組出演者の発言なかに,
「車道で走っていると,車で,なんか戦おうとして,ものすごい速い自転車いません?」 MEGUMI 「おるよ,おるおる,エイリアンみたいなメットつけたやつやろ。レース行け!レース。何キロ出してると思うとんねん。」 今田耕司 「(歩行者が横並びに)隊列組んだら罰してほしい。」 田嶋陽子 |
などといった妄言があった。このうち前2者は,従来の今田の妄言を敷衍した性質のもので,自転車および利用者に対する敵対的感情を煽り立て,その安全を自ら確保することを阻害するという点で,悪質であるのみならず,歩行者・自転車・自動車といった移動・交通主体がいずれも多様性をもった存在であることを没却したものであるという点でも,問題が大きいといわねばならない。
たとえば,自動車に大小や用途・形状といった差異がある以上に,自転車においても,単に自転車の車種・性能がもたらす差異に加えて,競輪などのスポーツ選手のごとく体力に優った者が高性能な自転車を利用する一方で,杖代わりに自転車を利用する高齢者もいる。歩行者においても通勤・通学・買い物など日常生活における必要性・必然性が高いのみならず,高齢者・乳幼児といったいわゆる交通弱者が含まれる割合も必然的に高くなる。こうした情況をふまえ,その各々にとって最善,少なくとも至善となるあり方を模索しなければならない。
しかし道路はこうした移動のためだけに存在するのではない。公衆に開かれた空間の一角をなすものであり,そこでは露店などの商行為,ストリート・パフォーマンスや演説,デモンストレーションなどといった表現の場であり,それを通じた市民間のコミュニケーションの場でもある。それ以前に子どもの遊び場となることもある。そうしたものの中では多人数によって集団的に行われるものもある。
その点で,3つ目の田嶋陽子の発言は,前2者と異なった危険性をもっていることを見落としてはならない。この妄言は,こうした公共空間としての道路の意味を否定するものである。これは日本国憲法で保障された基本的人権に含まれる言論の自由,表現の自由,集会・結社の自由を蹂躙するものであり,かかる権利・自由についての市民の認識をもおとしめるものである。さらにはファシズムへの道をも掃き清めるものであるという点で,看過できないものである。こうした妄言は,田嶋陽子自身が知識人として当然にも備えていなければならない見識をもたず,その責任を放棄し,自らの思想的頽廃を露呈したものである。これを弾劾するにとどまらず,ヨリ厳しい態度で臨まねばならない。
そもそも歩行者・自転車・自動車のいずれにおいても,移動目的・方向はもちろん,その身体的・経済力などといった諸条件は多様なものであり,それら相互に危険・対立・相剋が生じないようにするのはもちろん,それら各々をして,それを規定する条件下において至善の移動を実現せしめるものでなければならない。
いうまでもなく,道路交通法をはじめとした,およそ交通ルールとされるものが,こうしたものを保障するものでなければならない。それなくして存在理由はない。その個別具体的事象についてはもちろんのこと,その意義やあるべき姿などについても,かかる観点から適否を検証することなくしては,紹介や議論においても,そのこと自身を自己目的化したものや無意味な的はずれなものに堕してしまう。
「法は最小限の道徳」といわれる。その関係は「ルール」と「マナー」に置き換えても同様たるべきだろう。「法」−「ルール」は強制的拘束力を持つことからも明示的・限定的である必要がある。では「道徳」−「マナー」はいかにあるべきであろうか。こうした議論の前提として忘れてはならないことは,これらが文化的背景をもち,それによってあり方が規定されているということだ。とりわけ,「道徳」−「マナー」は,それが包摂する範囲が広範であり,そのぶん個々人の日常生活においても,身近で密接な関わりを持っている。
さまざまな人々との不断の交渉の中で,多様な文化に接し,自らと文化的背景を異にした人々と,地域社会という共通の空間において共生することは,日本各地においても今日的に重要な課題である。かかる情況にあって,既存の「法」−「ルール」は言うに及ばず,「道徳」−「マナー」を盲目的に肯定したり,まして押しつけるようなことは,何らの問題解決をもたらさないばかりか,かかる今日的課題に逆行するものである。
経済的・身体的条件の差異は言うに及ばず,さまざまな異なった価値観,文化的背景をもった多様な人々が共生する上で,共有できる認識と理解を,主体的市民のイニシアティヴのもとで構築してゆくことが求められるのである。すなわち,多文化共生の中での再構築が,問題解決の方途なのである。
こうした観点から,番組で取り上げられた具体的内容のいくつかを再検討しよう。
自転車が出すべき手信号を紹介すること自体は誤りではないが,そのやり方に問題がある。まず左折/右折する際に出すべき手信号のやり方を紹介したあと,それを実行しようとした熟年女性がよろめく姿を嘲笑的に映し出してみたり,さらにそれにつづいて,後退する際の手信号なるものを紹介した。しかも出演者に対するクイズ形式で勿体を付ける始末だ。
左折/右折の手信号ならまだ知れれているが,後退のそれは知られていないことから,意外性とクイズとしての難度を上げることをねらったものであろうが,通常の場合,自転車やバイクが後退する場合,運転するのではなく降りて押すことになるため,実際に使われることはほとんどない代物だ。番組構成のみを考え,移動・交通主体でもある視聴者の立場をいっさい考慮しない,番組制作者・出演者の姿勢を反映している。
ヘルメットについては,バイクの場合,4輪車におけるシート−ベルトと同様,今日では道路交通法でその着用が義務付けられているが,自転車の場合は義務付けられていない。実際にヘルメットを着用している自転車利用者は,高度のスポーツ性を追求する,自動車の通行量が多かったり,大型車が多い車道を走行するなど,自らが危険にさらされる可能性が高いと判断される場合などが主であり,自らの責任と主体的判断に基づいている。いわば自転車のヘルメット着用は,利用者の自主的・主体的な判断と行動の所産であり,その安全に対する認識の高さを示すものである。そうしたものに対し,違法行為や迷惑行為以下のものであるかのごとく罵詈雑言を浴びせたのが,今田耕司であったのだ。
すなわちこのたびの今田耕司の妄言の犯罪性は,妄言それ自体や,交通ルールに対する無知,自転車および利用者に対する蔑視・偏見にとどまらず,自主的・主体的な判断と行動に対して浴びせかけたことにあることを,ハッキリと確認し,弾劾するものでなければならない。
この「交通バラエティ 日本の歩き方」は,8月26日放送以来,囂々たる批判・非難の声が沸き起こった結果,10月のレギュラー番組化に際しては,スポンサーの顔ぶれも大幅に変わった。こうした新たなスポンサーは,この番組の問題性について無知であったところがほとんどであろう。なかには改善を期待していたところもあったかも知れない。いずれにせよ,番組内容のいっそうの俗悪化により,各社にも批判や責任を問う声が寄せられるにいたり,三菱自動車・エステー化学をはじめとして,スポンサーからの撤退表明が相次いだ。
こうした素早い対応は,スポンサーとしての宣伝効果に疑問をもったことが直接の動機であろう。だがそれにとどまらず,スポンサーとしての権利と責任において,番組内容の改善が見込めないとの判断の結果といえよう。かかる企業各社には,単にスポンサーとしてにとどまらず,これをも含めたところの企業が果たすべき社会的責任についての自覚を高める上で,今回の一件からヨリ多くの教訓をえることを期待したい。
すべての主体的市民の名において,今こそこの低俗有害番組に最後的鉄槌を下そうではないか。だがわれわれの責務は,公共の電波からかかるものを一掃することにとどまるものではない。その手段選択と過程を通して,われわれ自身の資質と見識を高めることが求められるのである。繰り返し言うが,かかる低俗有害番組に,私たちの意識や思考を規定させることがあってはならない。かかる所与の枠組みを前提にする限りにおいては,その中で取り上げられた個別具体的事象について,何らの生産的議論や認識の深化・展開などが生まれることはない。それ以上に,それによってつくられる相剋・対立が,犯罪性を拡大再生産する危険性について警戒するものでなければならない。
何にもまして重要なのは,多様性を内包した主体的市民が,各々の内なる理性の窓を開き,寛容の精神を陶冶し,多様な存在であることの意義を自覚し,それにふさわしい高い見識をもち,すべての都市住民と環境に優しい街のあり方の実現を目指して行動することである。いざともに歩まん!
(2003.11.7)
TV局に以下のコメントを送りました2003年8月26日放送「交通バラエティ 日本の歩き方」を拝見しました。 当方,「都市生活改善ボランティア〜Volunteer for Reforming Urban Life」では,すべての住民と環境に優しい都市のあり方を目指して,さまざまな調査・提言などの活動を行っています。その中でもとりわけ重視しているのが,自転車利用者の地位向上であります。そうした立場からは,標記番組については,出演者の発言について,その背後にある御局の姿勢とともに,非常に厳しい見方をしなければなりません。くわしくは当方のHPにある「フジテレビ番組における自転車蔑視発言を弾劾する」をご覧ください。 URLは http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4515/ です。 今後は,自転車及び利用者はもちろんのこと,様々な立場にある人々を対等な市民として認識し,その立場を尊重し,理性的に取り扱われるよう,改めてお願いします。 |
2003年10月13・20日放送についても同趣旨のコメントを送付済。
「寄せられたみなさんのメッセージから」より(抜粋)以下は「交通バラエティ 日本の歩きかた」に関して,フジテレビに寄せられ同局のホームページ( http://www.fujitv.co.jp/jp/b_hp/goiken/20030826.html )で紹介された視聴者の意見である。そこで紹介されるものは「フジテレビ・ホームページへ寄せられたものの中から選択されたもの」であるが,放送当日においてだけでも,厳しい批判が見られることがわかる。これらは番組批判として,比較的穏健な氷山の一角というべきものにすぎないが,同局が厳しい批判にさらされたことを示すものであることはいうまでもないだろう。 【初めて見ました】 【此花住吉商店街の事を見て。】 【交通バラエティ】 【自転車の件】 【司会者の発言について】 【考えてみてくださいまた提案してみてください】 |
「TV番組「ジカダンパン」批判」・「TV番組「妙案コロシアム」批判」
自転車問題をバラエティー番組で扱うことの問題については,こちらを参照されたい。
「TV番組「ご近所の底力」批判」
「“暴走”自転車」の取り扱いに関する問題点については,こちらを参照されたい。
「自転車から見た道路交通法」(自転車社会学会 −門岡淳氏のサイト)
自転車に関する道路交通法上およびその他の諸法令等については,こちらを参照されたい。