TV番組「ご近所の底力」批判 (NHK総合テレビ 2003年度木曜21:15〜)
放っておけない自転車敵視番組
「放っておけない放置自転車」(NHK総合テレビ2003年9月4日放送)
暑さ冷めやらぬ2003年9月4日,NHK総合テレビで「難問解決! ご近所の底力」という番組が,「放っておけない放置自転車」なるテーマのもと,プロ野球中継延長のため当初予定より1週間遅れで,放送された。この番組は,昨2002年4月30日,「放置自転車を退治せよ」なるテーマのもと放送された前身番組「妙案コロシアム」においてと同様,自転車と自転車利用者を自らと対等な市民と認識することなく,敵視感情を高めることに終始した。
かかる点においてヨリ巧妙化した,この番組の犯罪性を確認し,弾劾するとともに,自転車利用者を対等な市民と認識して,合理的・理性的にとらえ直す道を,改めて探っていこう。
難問解決!?
「あなたの地域の悩み,みんなの経験と知恵で,解決しませんか」,「ご町内から日本が変わる」なるふれこみのもと,「長引く不況,構造改革の痛み。問題山積の日本…。しかし今「嘆いているだけでは何の解決にもならないと,自ら解決に立ち上がる人々が増えています。そんな前向きで元気印な人々を応援する」番組として,前身番組「妙案コロシアム」をレギュラー化したものといえる。
アナウンサー・堀尾正明の司会で進行された今回の番組は,大田区蒲田駅西口地区の住民を「お困りご近所」とし,「自転車を“放置”する人」として自転車利用者を顔を隠して加えるところは,前身番組と同様の構成だ。これに渡辺千賀恵を「“放置”自転車」問題の「専門家ゲスト」(九州東海大学教授,この人物の専攻は土木工学であって交通工学ではない,また「“放置”自転車」の“対策”をすすめる区市町からなる「全国自転車問題自治体連絡協議会」にも関与している)として加えるなど,もっともらしさを演出することに若干の腐心をしたものだ。
しかしながら,清水圭・松居直美といった,現地リポートを担当したタレントの顔ぶれと手法からして,これまた報道番組ではなくバラエティー番組として作られたものであることがわかる。こうしたバラエティー番組でかかる問題を扱うことの不当性・犯罪性については,今更繰り返すまでもなく,賢明な読者はすでに理解されていよう。
つまり,自転車利用者を,自らと利害や立場は異にしつつも,対等な権利と主体性をもった市民と認識することなく,かかる前提抜きに一方的“解決”をはかろうとする姿勢に貫かれたものであるという本質に,何ら変わりはないのだ。これが目指されているところの「難問解決」なのだ。
実態はどうなのか?
番組冒頭で,蒲田駅西口地区の住民の「むかつく」なる暴言に字幕をつけて流すなど,自転車および利用者に対する敵視感情を煽る形で始められたものだけに,紹介された事例についても一方的・感情的なものであり,理性的・合理的な捉え方は依然なされていない。また,番組で取り上げられた事柄が,実際の情況のいかなる部分をどのように切り取り,さらには歪めたものであるかについても,検討してゆく必要があろう。
なお,この番組で取り上げられたもののうち,松山市・武蔵野市(吉祥寺)については,上述の前身番組「妙案コロシアム」でも取り上げられているので,その問題点は「TV番組「妙案コロシアム」批判」を参照されたい。また,その他重複することも少なからずあるので,それについてもこちらを参照されたい。
東京都大田区(蒲田):「キネマの天地」を舞台にした偏向番組
大田区は,東京都および23区の中でも南端に位置し,蒲田はその中のさらに南端部にある。サイレント(無声)映画時代に同地にあった映画撮影所によってその名を知られているまさにその場所だ。
番組で取り上げられた蒲田駅はJR京浜東北線のそれであるが,その西口には東急池上線の駅もあり,件の商店街はその池上線に並行する形で西へ延びている。蒲田駅西口と商店街西端近くにはスーパーがあり,個人商店を中心とする商店街は,それに挟まれる地理的範囲を中心に広がっている。このほかに,JR蒲田駅東口から京浜急行蒲田駅附近にも商店街は延びており,平坦な地形と相まって,自転車利用の需要が多い地域といえる。
同地に赴き駅前や商店街を一瞥すれば,「歩道は通行が不可能」などとする件の番組における映像が,自転車および利用者に敵対する形で恣意的に作られたものであり,「お困りご近所」なる「地区の住民」の言動が感情的・非理性的なものであることは,誰もが容易に見て取れよう。さらに番組(ホームページ)においては「患者搬送に駆けつけた救急隊員が通行を妨げられる事件」なるものまででっち上げられている。「事件」というからには,悪意をもって威力業務妨害をはたらいた自転車利用者がいたというのだろうか?


JR・東急蒲田駅西口附近 (2003.9.5)
この地域は,何軒かのスーパーはあるものの,郊外型大型ディスカウントショップなどはなく,多くの個人商店を中心とした広範に延びた商店街が,地域の消費需要を支えている。したがって商店街自身が著しい凋落傾向にあるとか,その活性化が差し迫った死活問題になっているというわけではない。自転車および利用者によってその商圏が広げられていることも忘れてはならない。
もちろんそうした中にあって商店間の競争はあり,消費者・マーケットのニーズにこたえられず,NOを突きつけられた商店主が,嘆きぼやくのみならず,先鋭的に自転車に悪罵を投げつけているわけだ。自分の店の前に自転車を止めて他店に入った買物客に対する商店主の言が,それを象徴している。要は,この種の他番組でもよく見られるところの,駅前商店街の一部個人商店主による,自転車への八つ当たりなのだ。だが地域全体の顧客数や売り上げの凋落が問題になっているのではないので,自転車および利用者に対する敵対的姿勢を悔い改め,顧客のニーズにこたえれば,件の商店主にも復活のチャンスはあろう。
ここでも例にもれず,大田区当局において「“放置”自転車」担当する者が登場し,愚にもつかない発言をしていた。大田区当局は,今2003年4月から“撤去”した「“放置”自転車」の返還手数料を従来の2000円から3000円へと一挙に1.5倍につり上げるなど,自転車および利用者への敵対姿勢をエスカレートさせているのみならず,番組で取り上げられた蒲田駅西口においては,連日駐輪された自転車を“撤去”するのみならず,「指導員」なる者を配置して,駐輪しようとする自転車利用者に対して敵対と妨害を行ってきた。この「指導員」(常識的にいえば,「指導」という関係が成立するためには,知識・情報のみならず,道義的にも優っている必要があるが,ここではかかる関係は成立しえない)は,自転車利用者からの反発(当然なされるべき存在と権利の主張を「反発」としてとらえること自体が問題である)を受けて,最近ではもっぱら駐輪された自転車の整理に当たっているという。
本来公務員は,日本国憲法において「全体の奉仕者」と規定されているように,自転車利用者と一部商店主という利害対立する両者がある中で,一方の側に立ち,もう一方の側の利害のみならずその存在すら顧みず抹殺するということは,到底許されるものではない。このことは個々の公務員はもちろん,機関としての行政当局,さらにはその業務を担う者についてもいえることである。これがおよそ公共性というものの原則だ。となれば「公共放送」をうたうNHKにおいても,かかる番組があるまじきものであることは明らかだ。
そもそも自転車がその場にあるのは,利用者の合目的的行動の所産であるという,当然の現状認識が欠如しているところから,問題としての「“放置”自転車」が発生する。駐輪という現象から発生するのではないのだ。そうしたものを対策の対象と位置づけ,大衆収奪と利権追求の具とするのが,日本の行政当局・地方自治体が行っているところの,世界でも類例をみない異常な「“放置”自転車」対策なのである。
移動・交通手段としての自転車および利用者との共生こそが,健全な地域経済の発展を導くものであることを,忘れてはならない。
松山市;恫喝にもスマイルで!?
道後温泉で知られる愛媛県松山市は,自転車普及率の高さとともに,市当局による自転車敵視政策が四国一であることでも知られている。昨年の前身番組においてと同様,今回も「放置自転車の監視員に熟年女性を採用。放置しようとする人に“優しく”声を掛け、駐輪場へといざなう作戦を展開」していることを紹介した。「あくまでも丁寧に話し掛け、決して相手を怒らせない」という表向きとは裏腹の実態を,ハッキリと確認するものでなければならない。
この熟年女性集団は,松山市内中心部の商店街に駐輪しようとした自転車利用者に近づき,駐輪場へと案内することを活動の趣旨としているというが,その実態たるや,自転車利用者を恫喝し,大衆収奪を担う尖兵に他ならない。またかかる集団が,全く自発的に長期間にわたって継続的に活動することは,常識では考えられないことだが,かかるものの政治的・組織的・資金的背景などについて,この番組は明らかにしない。
番組の中でその一人が,自転車を利用する商店街の買物客に,200円の公営駐輪場利用料か2000円の“撤去”した「“放置”自転車」の返還手数料かの二者択一を迫るに至っては,まさに恐喝であるといわねばならない。
この両者は,支出強要すること自体不当であるのみならず,金額的にも高すぎるものである。公営駐輪場は,地方都市では無料のところが多く,大都市部の有料のところでも100円もしくは100円台が普通である。「“放置”自転車」の返還手数料においても2000円というのは四国一の高額であり,西日本の大都市部においても限られたところでしかみられないものである。愛媛県の消費者物価や県民所得水準を考えれば,なおのこと突出した高さであるといわねばならない。
昨年の前身番組においては,これとあわせて駐輪場における“サーヴィス”にも焦点を当てていたが,今回かかるものについては触れられていない。これらは現在も存続しているのであろうか,それとも自転車利用者の不満をそらすためのごまかしであったのだろうか?
いうまでもなく,欧米先進国において,公共的性格の高い場所の駐輪場は無料が原則である。またバスや路面電車にも自転車積載用ラックをつけているところも多い。松山市においてかかるものは検討の対象にすら入っていないのであろう。だが,無料が原則の欧米先進国における公営駐輪場といえども,オプショナル・サーヴィスについては料金がかかる。それとて実費以下の名目的なものであることがほとんどだ。
こうした自転車優遇策も環境問題への関心の高まりが背景にあるものといえるが,ベーシックなもの(単に駐輪すること)について無料であるという原則と,それを前提にした上に有料のオプショナル・サーヴィスを附加することに,何らの矛盾もなく,この主体が,民間人であるか,公共性を求められる存在であるかということもまた問題となるものではない。件の熟年女性集団においても,駐輪場への自転車の搬出入を請負ったり,自転車修理・整備業者を斡旋・紹介したりして,手数料収入を得るなどすれば,多少は「サイクルガイド」の名にふさわしいものとなろう(観光ガイドの類と紛らわしい点は依然問題であるが)。もちろん駐輪場を無料にすることが前提だ。そうすれば,利用者が自分で駐輪場に持ち込めば当然にもいっさい費用はかからないし,それ以外は任意の附加サーヴィスへの対価として,その費用の性格が明確になるのみならず,地域経済の活性化にも寄与するであろう。
まずは,誰もが無料かつ無条件で利用できる駐輪場なくして「難問解決」はあり得ない。
武蔵野市(吉祥寺):行政当局の利権追求の裏で…
武蔵野市は,“撤去”した「“放置”自転車」の返還費用を全国で初めて3000円にし,市長・土屋正忠が「全国自転車問題自治体連絡協議会」の創立以来副会長を務める(ちなみに同協議会の役員を務める自治体首長のうち創立以来居座るのは,この土屋一人だけになった)など,市当局が自転車利用者に敵対的であるのみならず,こうした「“放置”自転車」“対策”を利権拡大の機会に利用することに執着していることで知られている。
昨年の前身番組においてと同様,今回も「週末で、営業していない銀行の駐車場を借りて駐輪場に」していることと,それが無料で利用できる旨を紹介した。だがここで注意しなければならないのは,件の駐輪場が,商店利用者に対して義務的にもしくはサーヴィスの一環として,限定的・臨時的につくられたものであって,決して公共的性格のものでも恒常的に利用に供されたものでもないということだ。まして武蔵野市の公営駐輪場が無料であることはない。
たしかに週末・休日の買い物客へのサーヴィスとしては一定の意味があろう。平坦な地形と公共交通機関の利便性不足などによって,吉祥寺駅まで自転車でアクセスする多くの通勤・通学者が,件の駐輪場の恩恵に浴することはない。のみならず彼らは,こうした「“放置”自転車」“対策”を利権拡大の機会に利用することに執着しているところの,武蔵野市当局による大衆収奪の餌食とされ続けているのだ。
このような番組では,かかる面を正面から取り上げることはない。
市川市(行徳):自転車イジメ千葉県一の市で起きていることの本質は?
市川市は,千葉県の西北端近くに位置し,西側の一部を浦安市と接するほかは,西側と北側の大部分を東京都江戸川区と接している。JR総武本線,営団地下鉄東西線,都営地下鉄新宿線により東京都心と直結しており,通勤・通学の便に恵まれたところである。また,全般的に平坦な地形のため,自転車利用にも便利である。
そうした自転車利用の需要の一方で,市川市当局は,“撤去”した「“放置”自転車」の返還費用を全国で初めて4000円にしたことでその一端が示されるように,自転車および利用者に対する強権的敵対的姿勢で知られている。ちなみにこの4000円という金額は,千葉県内でも突出して高いのみならず,今も千葉県一であり,全国でも五指に入るものである(「全国自治体における「“放置”自転車」“対策”の概況」参照)。
 
営団地下鉄東西線行徳駅前 (2003.9.6)
駅入口に至る広場と歩道。人や車が通るスペースに沿った角度から撮影すると何ということのないものであっても,そうでない角度から撮影すると,駐輪されている自転車によって通路がなかったり実際より狭く見えたりする。また,画面右手には2列に駐輪されているが,その部分を切り取って撮影すると,さも自転車によって人車の通行が妨げられているかのような画面をでっち上げることができる。これがこの種の番組で常套手段で用いられるトリックだ。今回の番組では蒲田駅西口でかかる映像が作られたが,この種ものものはいたる所で作られる危険があるものだ。
こうした市川市当局の強権的敵対的自転車対策を下支えする存在を,この番組は図らずも暴露した。

無料共有リサイクル自転車「フレンドシップ号」 (2003.9.6)
営団地下鉄東西線行徳駅前の駐輪場所にて。かかる場所におかれている「フレンドシップ号」が少ないため,乗り捨てられているものを移動して撮影したものも含む。無料利用できる点は評価できるが,乗る前に空気圧やブレーキを確認する利用者が多いことから察するに,この整備・管理情況には疑問が残る。
番組では,駅前駐輪を減らすとして,共有リサイクル自転車「フレンドシップ号」なるものが紹介された。これは市川市内で,地区の保護司・PTA役員らで構成するNPO「青少年地域ネット21」が,廃棄処分される「“放置”自転車」を譲り受け,市内の児童に模様を描かせたもので,車体広告の収入で経費を賄っており,約600台が無料で利用に供されているとしている。
番組で映し出された行徳駅前をはじめ,市川市内で実際に「フレンドシップ号」の利用実態を確認したところ,駅前や公共施設などの所定の置き場所からのニーズは高く,乗り付けられるや短時間のうちに次の利用者の手に渡るという状態であった。もちろん無料という看板に偽りもない。しかしその整備情況やクオリティーについては厳しい見方をせざるを得ず,ブレーキやタイヤに何がしらの難があるものがほとんどであった。利用者もその辺は心得ているようで,乗る前にタイヤの空気やブレーキの作動をチェックする姿が目立った。
こうしたことは利用に供されるうちに発生したものだけでなく,当初からのものもあったとみるべきだ。番組でも児童がチェーンに塗料で彩色を施している映像があったが,実際に本来塗装などを施すべきでない箇所への彩色が,少なからずなされていた。もはやこれは整備情況やクオリティー以前の,当該NPOらの自転車に対する安全認識の欠如をうかがわせるものだ。廃棄処分されるものゆえ,ゴミ同然の認識しかなくても不思議ではない。これでは児童がものを大切にする心を育む機会を逸するのみならず,利用者の安全がないがしろにされ,その生命がもてあそばれているといわねばならない。
番組中このNPO代表者・花崎洋は,利用率の高さに気をよくしてか,驚くべき放言をした。将来は駅前などの地域をこの「フレンドシップ号」だけを乗り入れ可能とし,それ以外の自転車の排除を目論んでいるというのだ。実際ヨーロッパでは市街地中心部への自家用車の乗り入れを禁止し,自転車や公共交通機関の利用を促進しているところがある。それをまねた発想のつもりなのかも知れないが,それとは逆の,あまりにも間抜けで愚劣な言辞というほかない。
利用目的や体格・体力などの身体的要素といった,自転車利用者の置かれている情況は多様である。そのため,たとえ愚策であっても,ひとつの方法が提示されること自体は,選択肢が増えるという点で評価されるべきものであるといえる。内容にかかる難点があっても,共有自転車という利用上の選択肢ができること自体は歓迎されるべきことである。しかしながら,それをもって他の方法を排除しようとすることは断じて許されない。
この「フレンドシップ号」 が,すでにかかる性格を帯びたものであることも見落としてはならない。現に自転車利用ニーズの高い場所が自転車“放置”禁止区域なっていることと表裏一体の関係にあるからだ。すでに述べたように「フレンドシップ号」は,廃棄される「“放置”自転車」から生み出されている。市川市はその突出した高額の返還費用ゆえに,“撤去”された「“放置”自転車」が持ち主のもとに返る率が著しく低いのだ。このことは同様の地理的条件にある近隣の浦安市や船橋市との比較においても明らかだ。これが「フレンドシップ号」存在の前提なのだ。
すなわちこの「フレンドシップ号」は,市川市当局の強権的敵対的自転車対策を前提としており,それを補完し,下支えする存在である。さらには,市当局がそれによって独占している利権に,“市民”を僭称して取り入り,その一角を分け前として預かろうと目論んでいるものであるといわねばならない。
覚めよ同胞(はらから)!
すべての賢明なる読者のみなさん。
すでに明らかにされたように,件の番組で取り上げられたところの,問題としての「“放置”自転車」なるものは,自転車がそこにあるということは利用者の合目的的行動の所産であるという,当然のことを理解できない,もしくはそれを頑強に拒む,貧困かつ頽廃的な感性に規定された,一方的かつ敵対的感情の発露によって,直接的には現象化されたものである。またその背景には,これに棹さし利権拡大の機会に利用する行政当局・地方自治体,上からの盲目的組織化に利用するさまざまな政治的権力があることを忘れてはならない。
主体的市民は,自転車利用者をその一翼となすところの,多様性を内包した存在であることを自覚し,すべての都市住民と環境に優しい街の実現にむけて,それにふさわしい知性と感性の成就を目指す自己変革と,それを阻む存在にたいする外なる変革とを,仮借なく進めるものでなければならない。
(2003.9.12)
大迷惑!暴走する自転車敵視番組
「大迷惑!歩道を暴走する自転車」(NHK総合テレビ2003年10月9日放送)
NHK総合テレビの「難問解決! ご近所の底力」では,9月4日放送の「放っておけない放置自転車」から約1ヶ月後の10月9日,「大迷惑!歩道を暴走する自転車」なるテーマのもと,またも自転車敵視番組を放送した。その偏見と敵視ぶりは,「本来、歩行者が優先されるはずの歩道やアーケード内を、我が物顔に走る自転車が後を絶たない。2人乗りや猛スピード、人混みをすり抜け、そして最近では携帯電話やメールを使いながらという無謀な運転も増えている。自転車が加害者となった事故は、この4年間で急増。去年は4600件に達した。「マナーの問題」の一言で片付けられ、警察にも行政にもほとんど対応策がないこの問題の解決の糸口をさがす」というふれこみからもうかがえる。
番組冒頭近くから「わがままな自転車」・「凶器」などと罵詈雑言を浴びせかけるアナウンサー・堀尾正明の司会で進行された今回の番組は,宇都宮市の東武宇都宮駅近くの商店街関係者らを「お困りご近所」としてスタジオに集め,自転車および利用者に対する怒りや暴言を煽るものであった。これに「自転車で歩道を暴走している人」として自転車利用者を顔を隠して加えるところは,これまでと同様の構成だ。「専門家ゲスト」として,高崎経済大学教授・岸田孝弥(きしだ・こうや)を加えているが,この人物は産業・組織心理学および労務管理を専門としており,かかる問題の専門家ではない(蛇足ながらつけ加えると,高崎経大には,自転車利用に関して著書もある,元NHK解説委員・横島庄治が,都市経営・国土政策を専門とする特任教授として在籍しているが,この人物がこの番組に関与した形跡は見いだせない)。番組冒頭近くのナレーションで「4年前から自転車の加害事故が急増」,昨年は「史上最悪」などとしながらも,その原因・根拠を説明できないことにも示されるように,的はずれで一方的・感情的な,自転車敵視番組の放送を,性懲りなく繰り返したのだ。
ゴミ・動物のフン並み,空き巣以下の自転車観
2003年4月の放送開始以来約半年の間に,この番組が扱ってきたテーマを概観してみると;
- 「やればできる!住宅街の防犯」(4月10日)…(c)
- 「犬のフン害に憤慨!」(4月17日)…(b)
- 「定年後 もう一花咲かせたい」(4月24日)
- 「大迷惑!落書きはなくせるか?」(5月1日)
- 「やればできた!ご近所のその後」(5月15日)
- 「カラスの勝手は許さない」(5月22日)…(b)
- 「スーパー撤退 買い物大作戦」(5月29日)
- 「マナー違反のゴミ退治」(6月5日)…(a)
- 「許しません!分別しないゴミ」(6月12日)…(a)
- 「若者よ タムロはやめて!」(6月19日)
- 「野良猫 増えて困ったニャン」(6月26日)…(b)
- 「油断大敵!マンションの防犯」(7月3日)…(c)
- 「抜け道暴走車を撃退せよ」(7月10日)
- 「元気回復!ふるさとの商店街」(7月17日)
- 「日本の夏 祭りよ よみがえれ」(7月24日)
- 「やればできた!ご近所のその後 PART II」(7月31日)
- 「ゴミを減らせ!お悩み解決スペシャル」(8月21日,2部構成)…(a)
- 「放っておけない放置自転車」(9月4日)…(d)
- 「お年寄りの閉じこもり解消大作戦」(9月11日)
- 「ステ看板に大迷惑!」(9月18日)
- 「やればできた!ご近所のその後 PART III」(9月25日)
- 「油断大敵!マンションの防犯」(10月2日)
- 「ルール無視!歩道を暴走する自転車」(10月9日)…(d)
- 「平和を乱す ハトのフン」(10月16日)…(b)
- 「犯罪から子供を守れ」(10月23日)
- 「バスも鉄道もない 生活の足が欲しい」(10月30日)
といった具合だ。この中でもっとも時間を割いているのが,(a)に示されるゴミについてだ。しかも6月12日・19日と2週連続していたり,8月21日に2部構成のスペシャルと称して通常の2倍の時間であるなど,特に力を入れているといえる。ついで,犬・猫・烏・鳩と変わるものの(b)の動物およびそのフンについてが多いといえる。そのほかに複数回にわたって取り上げられているのが空き巣(c)と自転車(d)なのだ。もっとも空き巣の場合は,4月10日・7月3日と約3ヶ月の間があいているのに対し,自転車は9月4日・10月9日と約1ヶ月しかあいていない。この間隔は動物に関するはじめ3回のそれとほぼ同様である。それだけ自転車を執拗にターゲットにしているわけだ。
たしかにゴミや動物およびそのフンは衛生面で問題だろうし,空き巣が犯罪であることはいうまでもない。しかしながら自転車の場合,その利用者は,それ以外の人と何ら変わるところない対等の存在である市民なのだ。それをかかるものと同様に扱ってきたことは,その人格と尊厳をないがしろにした,重大な侮蔑である。このことは単に自転車に対する敵視姿勢が突出していることにとどまらない重大な問題である。
「お困りご近所」の背後にあるものは?
番組に「お困りご近所」などとして登場する「住民」が,その文字通りの意味の存在として立ち現れている訳ではない。彼らをその尖兵として組織しているところの,背後にあるものについて,ここで言及しないわけにはいかない。
前身番組「妙案コロシアム」(2002年4月30日放送)では,東京都練馬区・武蔵野市・松山市を取り上げていた。これらの区市当局はいずれも,「“放置”自転車」の“対策”をすすめる区市町からなる 「全国自転車問題自治体連絡協議会」の積極分子として,その強権化と,それを利用した利権拡大を追求してきたことで悪名を轟かせている(「「全国自転車問題自治体連絡協議会」を解体せよ」参照)。9月4日放送分では練馬区に代わって大田区と市川市が入っているが,その本質は変わっていない。むしろ,創設以来事務局を置き,前区長・岩波三郎が会長を務めるなど,同「協議会」を牛耳り続けた練馬区を外したりすることで,かかる背後を隠蔽しようとした分,巧妙化・悪質化したとえよう。
今回は,静止している「“放置”自転車」から移動に利用されている「“暴走”自転車」に,その矛先を代えたという点で現象的に異なる部分があるものの,依然かかる行政当局という背後関係があることを,そして自転車および利用者に対する直接的攻撃性と,上からの組織化と大衆動員という,そのファッショ的・権力者的意図がいっそうエスカレートしていることを忘れてはならない。
「“暴走”自転車」はこうして生まれた
ここで「“暴走”自転車」とされているものについて検討しよう(「“暴走”自転車」の取り扱いに関する問題については,フジテレビ「交通バラエティ 日本の歩き方」(2003年10月13・20日放送)でも共通してみられる部分があるので,同番組を批判した「フジテレビ番組における自転車蔑視発言を弾劾する」を参照されたい)。
「“暴走”自転車」とは何か?
議論を生産的なものにする前提として,その対象についての定義が明確になされ,それが意見の如何に関わらず議論に共有されていることが必要だ。同じ“暴走”でも,バイクや自動車を用いて集団で行う,いわゆる暴走族の場合は比較的明確だ。速度や走行車線・方向などが道路交通法に違反するのみならず,他者への迷惑・危険が多大となると思われるものをもってしているといえる。だがそれにとどまるものではない。かかる迷惑や危険が,集団によって行われることにより生じる,もしくは著しく増大すると認識される要素などが含まれる。すなわち問題認識としての“暴走”とは,その対象が集団であったり,それを総体として認識することによる要素が多分に含まれているといえる。逆に個々のものによる一過性の行為に対して“暴走”と呼ぶことはまれである。
「“暴走”自転車」は,こうした「暴走族」のごときよりも漠然としたものだが,“暴走”についてのイメージにおいて共通している。すなわち,歩行者を初めとした,自転車利用者以外の存在からみて,その個々具体的なものではなく,総体としてとらえることで,嫌悪感や威圧感をもよおす存在をさしていうものであるということだ。要は,敵対する存在としての自転車に対するレッテルとして,停まっていれば「“放置”自転車」と呼ぶのと同様,動いていれば「“暴走”自転車」と呼んでいるのだ。
虚構のつくられ方
番組で流された,宇都宮の商店街での「ルール無用で歩道を走る自転車」なるものの映像を検討してみよう。
まず自転車が「歩道を走る」ことについては,道路交通法で軽車両に分類され車道を走るべきとされながらも,実際には多くの歩道が自転車通行可とされていることに,番組中でも触れているように「ルール無用」とするのは誤りだ。いかに安全かつ円滑に自転車が車道を走るかを提示できない以上,「歩行者優先」といったところで,自転車および利用者に対するバッシングを煽るだけだ。「2人乗り」・「3人乗り」については,女子高校生と思しき2人による前者と,母親が乳幼児を乗せているものを続けて流すことにより,合法か否かを問わず,一様に問題があるような印象を強めている。
「激突」が明らかな誇張であることは説明無用だが,「猛スピード」のそれについては少し立ち入っておこう。緩い下り坂を降りてきた,下校途中の高校生の自転車をスピードガンで測定し29km/hほどであったとしている。その測定対象の選択自体が恣意的なものであることはいうまでもないが,音波反射時の周波数変化であるドップラー効果を利用したスピードガンは,測定対象との角度・距離等による誤差が大きく発生するのみならず,周囲の物体による影響も受けやすいものだ。かかる情況下では何とでも数字は作れるのだ。この原理であるドップラー効果については,高校物理の基本をマスターしていれば容易に理解できる。
その程度の知識があれば,かかるものを見抜くことは,大学入試センターのセンター試験や高校の校内定期考査の問題よりも易しいはずだ。
高校生と自転車
都市部でも地方でも,高校生の通学手段として自転車の役割は重要である。大都市部では最速達の交通手段となる場合も少なくなく,地方では長大な道のりを利用する場合もある。いずれも徒歩での通学は困難・不可能でありながら,鉄道・バスなどの公共交通機関への依存もまた困難・不可能ななかでの利用が主となるという,切実さがある。
また,かつてこうした高校生の自転車通学風景は,清新なイメージを持つものであった。たとえば,原節子・吉永小百合らが主演した映画「青い山脈」で,オープニングなどで大勢の生徒が自転車を連ねて登校するシーンが,テーマソングが流れる中で映し出されていることは,広く知られている。そうしたものが現在,清新とは逆のイメージで,ときには敵意や憎悪すら込められて,取り上げられるにいたった。そうした転回の過程とそれが意味するものについて,検討していこう。
高校生にとって,その通学距離からして,通学手段としての自転車の役割は低下していない。地方においては長距離の自転車通学は今なお珍しくない。1970年代までは高校進学率が上昇し続けたため,また1990年前後は同年代人口が増加したため,高校生の数は増加していたが,この10年来は少子化が進む中にあって,高校生の数は減少している。こうした高校生が人口にしめる比率および,その時代情況と時々の社会で高校生がおかれてきた位置・位相が,彼らに対する見方を規定し,イメージを作り上げる。
そのように見てゆくと,近年,少年犯罪の凶悪化が喧伝される中にあって,彼らの行動に対していっそう厳しいバイアスがかかり,それがマスコミ報道などを通して拡大再生産されていることが解る。この番組で取り上げられた宇都宮および静岡の高校生についても,その例外ではない。
蛇足ながらつけ加えると,少子化に伴う学校の統廃合は,高校よりも小中学校でヨリ進められている。その結果通学距離が延びることによる影響は,一般に学年が低いほど深刻となることはいうまでもないが,中でも中学生の場合,これが自転車通学のニーズを高める要因となる。高校生はもとより,中学生においても,通学をはじめとした自転車利用環境の整備が求められるといえよう。
実態はどうなのか?
これまでと同様,番組で取り上げられた事例が,自転車および利用者に対する敵視感情を煽る一方的・感情的なもので,理性的・合理的な捉え方は依然なされていないものであることは,もはや繰り返すまでもない。
宇都宮市:餃子日本一の街で
栃木県宇都宮市は,北関東の内陸県の県庁所在地で,JR宇都宮駅・東武宇都宮駅を中心に,地域住民の通勤・通学・買い物などといった,日常生活における交通・移動ニーズが形成されている。その中心部近くには,日光街道をはじめとした,東京都心と東北地方を南北に結ぶ幹線道路があるなど,同地域と首都中枢を結ぶとともに,同地域を通過する長距離交通ニーズを担っており,面積・人口に比して過大な交通量となる場所も生まれてくる。局所的に集中する交通量の一方で,同駅附近では,大型小売店が相次いで撤退するなど,商業的には厳しい情況にある。「お困りご近所」として番組に登場した商店主らも当然それに含まれ,彼らが自転車に八つ当たりするのも,この種の番組の典型的パターンだ。
そのため,大型車両の割合も多い,交通量の多い幹線道路に自動車が集中する一方,これを避けて歩行者・自転車が別の場所に集中するという現象が必然化する。そうした歩行者・自転車が集中する場所の一つが,番組でも取り上げられた駅前商店街なのだ。もっとも朝の通勤・通学の時間帯の交通量は1日の中でも特に多いものの,それらが通る時間帯には商店はほとんど開いておらず,かかる交通量が商店の売り上げに寄与することにも妨げになることにもならないのだ。だが,その帰途となる夕方は商店の営業時間中であるものの,商店主らには,こうした通勤・通学者が往路同様通過者としてしか認識されていない。その必然の結果として,商店の売り上げは低迷し,八つ当たりの対象とされたわけだ。そうした意識の形成は「“放置”自転車」と同様である。その解決方法も同じく,かかる通勤・通学者を顧客たらしめるべく,そのニーズに沿った営業へと,商店(街)を改革し,地域経済活性化の中でなされるべきことだ。
静岡市:激しい交通事情の中で
現在の静岡市は,静岡県の県庁所在地であるとともに,首都圏と中京圏の中間に位置する東西交通の要衝である。政令指定都市を目指して,隣接する清水市を吸収合併して拡大志向を強めたが,そうした性格は変わったわけではない。
行政区画としての静岡市に限らず,東海道沿い地域の交通量の多さと激しさは格別だ。地域住民の日常生活の上での移動・交通ニーズに加えて,商工業に関して同地域とその他各地を結ぶ交通ニーズ,さらには首都圏と中京圏およびそれ以遠を結び,同地域を通過する長距離交通ニーズが加わるからだ。特に長距離交通ニーズは,同地域の住民生活や地域経済などには直接寄与するものではない,それどころか犠牲的負担を恒常的に強いられている。しかもそのニーズの多さから,高速道路・幹線道路はいうに及ばず,ときには生活道路さえも過大な交通需要を支えるようになっている。
かくして日常的に交通戦争に直面することが不可避となっているのだ。このことは歩行者・自転車・自動車のいずれにおいても同様だ。同地域の高校生らの通学で利用する自転車による衝突事故については,以前に他局番組でも紹介された(ただし「難問解決! ご近所の底力」では,清水警察署提供の衝突現場の映像を使用)ことがあることからも解るように,かかるもの自体は事実として存在する。だがこれがかかる激烈な交通事情のいかなる一部分であるかを注意しなければならない。
番組において「静岡県内の県立高校に配置されている「学校交通指導員」は、高校生の自転車マナー向上に大きな成果を上げている」などとして紹介しているものは,かかる激烈な交通事情の矛盾を,自転車通学の高校生の「マナー」にツケを回し,その解決に向けてのトータルな問題把握と施策を阻むものに他ならない。また,「学校交通指導員」は教員でもなければ教育について何らの資格を持つものでもなく,さらには交通問題に関しても他者に「指導」をという行為・働きかけを行う上で,いかなる資質を持つのか疑問である。公道上だけならともかく,「自転車の整理・点検など、安全を陰で支える」として学校内で活動することは,交通問題を口実にした,生徒はもちろん教員も含めた,行政当局による学校教育現場に対する管理・監視の強化なのだ。
自転車のみならず,歩行者・自動車も含めた,地域住民の安全と利便を確保し向上させる上で,個々の交通・移動主体がとるべき行動のあり方について,根本的に見直すものでなければならない。
東京都荒川区:自転車課税失敗のあとで
荒川区は,東京23区では自転車産業がもっともさかんな区であり,重要な地場産業の一つとなっている。荒川区は,文京区に接する南部の一部が高台になっているほかは,文字通り荒川に接した平坦な低地がほとんどをしめる地形で,自転車利用に不便を感じる地理的条件は少ないといえる。それだけ交通・移動手段としての自転車利用のニーズは高いといえる。
これに対し2000年12月,「“放置”自転車」対策費用の捻出を口実に,藤枝和博区長(当時)が,区内で購入される自転車への課税を画策したところ,区議会・自転車店らの囂々たる反対により撤回し,翌年1月には区長を辞任するという事件があった。また,台東区・中野区とともに,「“放置”自転車」返還費用が,全国最高額の5000円となっているなど,荒川区当局は,自転車および利用者に対する敵対的姿勢により,その悪名をとどろかせている(「荒川区による自転車課税策動を弾劾する」参照)。
このとき区当局のもとには,当然にも,区内外を問わず,全国各地から自転車利用者をはじめとする多くの批判・非難,さらには弾劾の声が寄せられた。爾来荒川区当局は,自転車および利用者を,主権者および主体的市民の一翼をなす存在としてではなく,従来通りの対策の対象としてのみならず,当局の統制下におき,上からの組織化をおしすすめるべく,自らへの新たな権力付与と,それに伴う利権増大化を画策してきた。そうした中で生み出されたのが「自転車運転免許証制度」なのだ。
昨2002年に始められた「自転車運転免許証制度」は,「安全な自転車の乗り方や交通ルール、自転車マナーについて学び、自転車事故を防止し、社会ルールを守る地域社会を実現する」などとして,区当局が「区内の警察署、町会、PTA、青少年対策地区委員会等と協力して実施するもので、講義、筆記試験、実技講習を経」た者に「自転車運転免許証」を与えるというもので,小学校4年生以上が対象で,大人も受講・取得可能としている。自動車運転免許などと違って,運転に当たっての取得や携帯を法的に強制されるものではない。また公的資格を意味するものでもない。
しかしながら,区内の公立中学校で,この「免許」が自転車通学の許可条件となっているなど,実質的に強制力を持ち始めている。あわせて,荒川区内の警察署や町会連合会・PTA連合会・交通安全協会などによる「荒川区自転車運転免許証制度推進協議会」を設立したり,「自転車安全運転見守り隊」なるものに組織・動員するなど,交通安全を大義名分とした,住民・大衆に対する上からの情報収集・組織化・動員の飛躍的強化がはかられている。
番組では,「自転車のルール徹底を図る」効果などについて自画自賛する荒川区長・藤澤志光を登場させているが,これとあわせて「子供がルールを守っている前で大人が無視するわけにいかないという効果」としているものについて,厳しく警戒するしなければならない。「ルール」を錦の御旗にしているが,行政当局・権力者の最終目的はそれではない。行政当局・権力者の意図に無批判的に盲従すべき存在としての意識を植え付け,(可能的)主権者・主体的市民たるべき存在としての自覚・覚醒を阻むべく,まずは弱い立場にある子どもをターゲットにし,彼らを大人が既にもっているところの主権者・主体的市民としての意識を切り崩す尖兵として活用してゆこうとするもの,すなわちかのナチスのヒトラー・ユーゲントのごとき役割を期待されたものに他ならないからだ。
自転車課税失敗のリベンジは,行政当局・権力者に異を唱える者に対する予防弾圧をはかるべくなされた,ファッショ的大衆動員と組織化の拡大・深化であった。
「マナー」に名を借りたバッシングと草の根ファシズム
自転車および利用者に対するバッシングに際してたびたび「マナー」なるものがあたかも「錦の御旗」のごとく持ち出されている。これについても分析しておかねばならない。
「ルール」と「マナー」
そもそも歩行者・自転車・自動車のいずれにおいても,移動目的・方向はもちろん,その身体的・経済力などといった諸条件は多様なものであり,それら相互に危険・対立・相剋が生じないようにするのはもちろん,それら各々をして,それを規定する条件下において至善の移動を実現せしめることを保障することが,道路交通法をはじめとした,およそ交通ルールとされるものの存在理由として要求される。
「法は最小限の道徳」といわれる。その関係は「ルール」と「マナー」に置き換えても同様たるべきだろう。「法」−「ルール」は強制的拘束力を持つことからも明示的・限定的である必要がある。では「道徳」−「マナー」はいかにあるべきであろうか。こうした議論の前提として忘れてはならないことは,これらが文化的背景をもち,それによってあり方が規定されているということだ。とりわけ,「道徳」−「マナー」は,それが包摂する範囲が広範であり,そのぶん個々人の日常生活においても,身近で密接な関わりを持っている。
こうした観点から「法」−「ルール」および「道徳」−「マナー」のあり方について検証するものでなければならない。既存のそれらを盲目的に肯定したり,押しつけたりすることは,何らの問題解決をもたらさない。経済的・身体的条件の差異は言うに及ばず,さまざまな異なった価値観,文化的背景をもった多様な人々が共生する上で,共有できる認識と理解を,主体的市民のイニシアティヴのもとで構築してゆくことが求められるのである。すなわち,多文化共生の中での再構築が急務なのである。
真の危険はどこに?
以上のように,この番組はもとより,NHKには広範に,自転車および利用者に敵対的な姿勢が蔓延しており,かかるものがバイアスとして番組の内容に反映されている。生活のなかでの移動・交通情況をめぐる問題の全体像の中で,自転車がおかれている位置・位相をとらえ直せば,偏向番組としての犯罪性は,明らかになろう。
その一方で,この番組でも取り上げられたところの,自傷他害を惹起する可能性のある行動が,歩行者・自転車・自動車の如何を問わず,一部の交通・移動主体において行われていることを否定できない。しかもかかる者が自らの行動が惹起するであろう危険の具体的内実について無知であることは皆無に等しいであろう。
もっともこうした認識された可能的危険の内実は,おおむね物理的なものに限られるであろう。だが,現下の情勢のもとにおいては,それ以上の危険があることを想起しなければならない。すなわち,ここですでに明らかにしたように,かかるものを口実にして,上からの組織化や大衆動員が行われるなど,ファシズム体制づくりに棹さすものとなっているということだ。これらを含めたトータルな注意と警戒を,不断に堅持するものでなければならない。
そうした観点をもってすれば,自転車および利用者をめぐる情況はもとより,この番組「難問解決! ご近所の底力」そのものがもつ問題性・危険性がハッキリと明らかになる。そもそもスタジオに集まってくる「お困りご近所」などとする集団は,先のアジア・太平洋戦争中に国家総動員体制−ファシズム支配体制の末端として組織した「隣組」や,関東大震災後の被災地で朝鮮・中国人の虐殺に手を染めた「自警団」のごときものであるといわねばならない。
物理的危険とともにファッショ性がもたらす危険に不断に警戒するとともに,かかるものを煽情する番組を弾劾する。
(2003.11.11)
TV局に以下のコメントを送りました
総合テレビ2003年9月4日放送「難問解決! ご近所の底力」を拝見しました。
当方,「都市生活改善ボランティア〜Volunteer for Reforming Urban Life」では,すべての住民と環境に優しい都市のあり方を目指して,さまざまな調査・提言などの活動を行っています。その中でもとりわけ重視しているのが,自転車利用者の地位向上であります。そうした立場からは,標記番組については,昨2002年4月30日放送の「妙案コロシアム」同様,非常に厳しい見方をしなければなりません。
問題点は,自転車を一方的・感情的に悪者として敵視し,対策の対象と位置づける番組の姿勢そのものと,具体的事例の扱いの2つに大別できます。くわしくは当方のHPにある「TV番組「ご近所の底力」批判」をご覧ください。
URLは http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4515/ です。
今後は,自転車及び利用者を,対等な市民として認識し,その立場を尊重し,理性的に取り扱われるよう,改めてお願いします。
|
10月9日放送分についても,同趣旨のコメントを送付済。
関連
「フジテレビ番組における自転車蔑視発言を弾劾する」
「“暴走”自転車」および「ルール」と「マナー」の扱い方についての問題は,こちらを参照されたい。
「TV番組「妙案コロシアム」批判」・「TV番組「金曜フォーラム」批判」
これまでのNHK番組における自転車問題の扱い方についての問題は,こちらを参照されたい。
「「全国自転車問題自治体連絡協議会」を解体せよ」・
「日本地方自治体の自転車“対策”と「全国自転車問題自治体連絡協議会」」
世界に類例を見ない愚劣な日本の自転車“対策”の元兇「全国自転車問題自治体連絡協議会」の犯罪性・欺瞞性については,こちらを参照されたい。
「駐輪場強行設置の根拠となった自転車法改正は実に漫画チックな策略」
(木村愛二氏のサイト 憎まれ愚痴 「仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記」より)
 
|