ほんでええんかいな?
大阪府交通フォーラム

自転車って便利な対策の対象
せやけどほんでええんかいな?

2007年10月28日,大阪商工会議所において,「交通フォーラム〜自転車って便利 でもそれだけでいいの?」が,大阪府車社会対策推進会議・大阪商工会議所主催,大阪府交通需要マネジメント推進会議共催で行われよった。

フォーラムの実態

このフォーラムの趣旨については

 環境にやさしく健康にも良い、誰もが利用できる気軽な移動手段として都市交通ネットワークの一端を担う自転車。しかし、一方では駅前での無秩序な放置自転車、走行ルールやマナーの欠如による交通事故など根深い課題があるのも事実です。
 今回のフォーラムでは、私たちの普段の生活に欠かせない自転車について、「もっと便利に、もっと安全に、もっと快適に」という視点から、利用者、メーカー、行政が果たすべき役割とは何かを考えます。

とうたわれとる。以下プログラムから拾ってみたら,

第1部 話題提供
「自転車の走行環境整備に関する施策及び課題について」(大阪府)
「市内の自転車交通問題と対策について」(大阪市)
「自転車事故の現状と交通マナーについて」(大阪府警)

第2部 座談会
コーディネーター:
狭間 惠三子(サントリー次世代研究所 課長)
パネリスト:
日野 泰雄 (大阪市立大学大学院工学研究科 教授)
中村 博司 (自転車博物館サイクルセンター 事務局長)
疋田 智 (自転車ツーキニスト、TBSプロデューサー)

といった構成やった。以下順を追って検討していきまひょ。

一方的な“ご託宣”;第1部 話題提供

ひとことでいうたら,このフォーラムは,「自転車って便利ええ対策の対象と利権追求の手段 せやけどほんだけでは物足りまへん…」ちう大阪府・大阪市・大阪府警のホンネと,いっそうの利害貫徹への意志を垣間見させるもんやったが,とりわけこの第1部において顕著や。しかもこの部については,後半の第2部のパネルディスカッションで言及されることも,内容的連関もあらへんと,まして質疑応答も許さんゆう,きわめて一方的なもんやった。

大阪府;一般的な道路整備情況へのすりかえと利用者への責任転嫁

大阪府交通道路室交通対策課長・梶山善弘は,上記の表題のもと,「都市における総合的な交通政策」としていっちゃんはじめに,「交通事故,環境問題,経済効率の低下」といった「クルマ社会がもたらす弊害」について触れ,「移動手段の多様性」を確保した上で,各々の交通手段におうた役割を活かすことをふまえ,「クルマ社会抑制のため,自転車の利用促進と併せ,公共交通(特にバス)の利用促進をはかるべき」であると「同時に,事故防止のため,違法駐輪などルールの遵守やマナーの向上を図っていく必要がある」としたちうわけや。

ついで「自転車走行環境の整備」として,「大阪府管理道路における歩道の整備状況」が必要な延べ延長の半分強しか整備されてへんし,「交通事故低減に向け歩道整備が急務である」ことから説き起こし,自転車と「歩行者の事故が急増している」として,「歩行者と自転車の分離誘導」を,白線・カラー舗装・自転車マークにより視覚的に「どなたはんにでも分かり易くする」とともに,「ルールやマナーの指導・教育も不可欠」であるとしたちうわけや。

しまいに「自転車に関する今後の課題」として,「自転車利用促進の手法」と「自転車事故の削減と駐輪問題」を,後者ではさらに「一人ひとりがマナーを守る意識が大切」,「歩行者空間の安全性確保(通行帯の分離)」,「自転車走行空間のネットワーク形成」をあげたちうわけや。

以上のように,一般的な交通環境や道路整備情況の後進性を,具体的で有効な自転車走行および歩行環境整備を打ち出せへん口実に利用するもんで,「自転車走行環境の整備」は最小限にもならへんアリバイ的なもんでしかのうて,「自転車走行空間のネットワーク形成」に至っては,何ら具体性もあらへん,絵に描いた餅にもなってへん。しかこないな現状について「ルールやマナー」なるもんをたてにとちう,自転車および利用者,さらには歩行者にその責任を転嫁したろおもていうもんでしかいないちうわけや。

大阪市;自転車“対策”の推進と利権化への決意表明

大阪市建設局管理部自転車対策担当課長・藁田博幸は,プログラムとはちごて「大阪市における自転車対策の取り組み状況について」と,もっぱら“対策”についてだけの内容となり,なんぼかは移動・交通手段としての自転車をとらえたやろう「自転車交通問題」は,内容的にも没却されてしもた。

はじめに「大阪市のこれまでの取り組み」と称して,駅周辺の駐輪対策として,1973(昭和48)年から「自転車駐車場」(ついでに言うたらこら駐輪場の有料化を追求する中で作られよった用語なんや)整備を,1983(昭和58)年から“放置”禁止区域の指定を,1988(昭和63)年からは「自転車駐車場」の有料化をそれぞれやってきとって,有料化については,「近距離を中心とした不要不急の利用を抑制」し「自転車利用の適正化を図る」ために実施したとするちうわけや。つづいてこれらの効果や実績なるもんを開陳し,しまいに「今後の対策の基本的な考え方」として「地域により異なる状況」をふまえ,「地域を単位として」,「地域住民,区,道路管理者,警察などが協働して地域の状況に応じた対策の取り組み」を行うことをぶちあげたちうわけや。

これとあわせて見落としたらあかんもんがあるんや。「その他の取り組み」として「有料自転車駐車場の料金格差」・撤去強化」とあわせて挙げられとる「サイクルサポーター(啓発指導員)制度」と「自転車利用者への啓発活動」の問題性や。「サイクルサポーター」というても自転車および利用者の便宜を図るためのもんではまるっきしへん。市わいの自転車“対策”の尖兵となる「市民ボランティアによる啓発指導員」のことで,その「活動内容」は,「道路上に放置しようとする自転車利用者への啓発」,「自転車駐車場の案内・誘導」,「放置自転車の整理」とのことや。こないなもんが「サイクルサポーター」を名乗る資格があらへんんはもちろん,主体的市民の自発的意志による活動であるヴォランティアの名に値せんことはいうまでもへん。こらまさに,ファッショ体制さながらの上からの組織化とイデオロギー攻撃といわねばならへん。

そもそも,自転車だけやのうて交通環境の整備全般にわたちう,交通移動主体である市民のニーズとは乖離した政策,対立する“対策”を強行するばっかりの,いやその前に「全体の奉仕者」=パブリック・サーヴァントである市わいに,主権者にして主体的存在である市民を「啓発」・「指導」する一片の資格もあらへんし,こないなことを正当化できる立場にもあらへん。さらに「啓発」ちうんは,相手を無知蒙昧な存在と見なしその目を開かしめる意味や。無知蒙昧であるが故に自転車を利用する市民やらはどこにもおらへん。まして市民の自転車利用のあり方を無知蒙昧と決めつける理由やらどこにもへん。「啓発」されなあかんは,市民の意志とぬかすべき自転車利用の現状とニーズについて,まるっきし理解したろおもてせへんし,ただ“対策”の対象と位置づけ,自らの利権拡大に利用する大阪市わいのヤカラにほかならへんとちゃうか。

大阪市の自転車“対策”担当は建設局管理部におかれとる。概して自転車“対策”担当が土木部門におかれるとエスカレートしやすなる上に,コストがヨリかかるもんになりがちや。この点では大阪市も例に漏れへん。しかも大阪市では伝統的に局の力が強て,このことがまた自転車“対策”の利権増大化に拍車をかけるちうわけや。人員削減・緊縮財政を強いられはる中,市わいおよび職員らが,自転車“対策”を利権源として死守するっちうことに躍起になることは火を見るより明らかや。こらまさに自転車および利用者への挑戦であるとともに利権化への決意表明であるといわねばならへん。

大阪府警;自転車事故増加の現状を喧伝

第1部のしまいは,大阪府警察本部交通部交通総務課企画担当管理官・今井康雄や。先に登場した府市わいのヤカラの肩書きにある“対策”の2文字が彼にはあらへんのが不思議ちうか,かえってそれだけで好感が持てるほどや。ちうてもその報告内容が,自転車利用政策抜きの“対策”から自由で,好感が持てるもんであるかというたら,決してそうとちゃうかった。

大阪府下の交通事故情況についての一般的な統計資料をもとに,自転車事故の急増を喧伝するもんで,それについての分析が充分なされたとは言い難く,自転車利用の現状に関する課題のひとつを提示した以上とちゃうかったといえるちうわけや。

強者の論理のリレートーク;第2部 座談会

続く第2部の座談会では,「自転車ツーキニスト」・自転車部品メーカー・学識経験者各々の報告の後,若干のパネルディスカッションが行なわれたちうわけや。これまたひとことでいうたら,強者の論理のリレートークへの陥穽を懸念させるもんやった。

第1部がごっつうも一方的なもんやったことから,コーディネーターが申し訳程度にバランスを取ろうとしたさかいやろうか,ここでは予定とはちごた順番で行われたちうわけや。以下それに即して述べることにしまひょ。

「自転車ツーキニスト」

はじめとなりよった疋田智については,ホームページ自転車通勤で行こうやメールマガジン「週刊 自転車ツーキニスト」において,自転車通勤を勧めとる人物としてだけやのうて,他2人のパネラーとの対比で自転車利用者を代表するかのような紹介のされ方やった。

まず自らの体験をもとに,自転車利用による体質改善・健康維持に始まり,都市内で自転車利用をするっちうことにより地理感覚が点から線へとつながって新たな発見が楽しめたことやらから,自転車利用を勧めるもんであるトコから,語り始めたちうわけや。

続いてオランダ・ドイツやら,自転車利用先進国の事例について,鉄道車輛へ自転車持ち込みや,走行・駐輪環境の整備ぶりやらを紹介したちうわけや。ここで自転車走行環境について,自転車道のほか,歩道やのうて車道走行が常やちうことについて,昨2006年末から今年初めの情勢との関連もあって,強調しとった。

これとあわせて,通勤やらの自転車利用において,クロスバイクやらの一般的な自転車より高価なスポーツ車の利用を推奨する一方,「ママチャリ」を,重量がありスピードが出ぇへん,単に楽に移動したろとおもうだけのもんで,自転車歩道通行によって生まれたとするやら,疑問の余地がある発言もみられはった。

自転車部品メーカー

続いて発言したんが中村博司や。この人物は自転車博物館サイクルセンター事務局長の肩書きやし,ここでは「自転車メーカー関係者」でもあるとされたが,同センターはシマノが運営するもんで,自転車メーカーやのうて自転車部品メーカーなんや。発言内容の検討とあわせて,こないな規定性にも用心せなならへん。

まず自らが所属する自転車博物館の紹介からはじめ,同社・同館の地元なんやし,日本でもっとも自転車産業が盛んな堺市を,「自転車力」を活かしたまちづくりを目指したろ思て「自転車のまちづくり」を提言して「堺自転車のまちづくり・市民の会」を組織し,行政に働きかけ,施策に反映させていく取り組みをしてんことやらを報告したちうわけや。

「自転車のまちづくり」ちうても,行政との協働の中で,翼賛化・下請け化が進んどる面が目立つ。また自転車利用者とともに自転車産業としたかてまたこないな取り組みも必要や。自転車および利用者の安全のためには自転車の品質が一定以上であることが不可欠なんやし,こないなもんを生産・供給し続るための政策と環境整備も必要や。自転車利用者の利便性と自転車産業の健全な発展(低廉粗悪な自転車は同社製部品の使用率はきわめて低いんはもちろん,同地において製造されとるもんはほぼ皆無やけど…)をともに実現するっちうことが,これからの政策課題んはずやけど,かかる点までの展望が報告さられへんかったトコは画竜点睛を欠くといわねばならへんやろ。

学識経験者

プログラムでは最初やったが,実際にはしまいに発言した日野泰雄は,大阪市立大学大学院工学研究科教授の肩書き通り学識経験者としての位置づけと役割を求められての登場となりよったのやろうが,前2者の発言との関連性よりは,第1部の行政わいの発言に近いスタンスで,フォーラムの流れを行政サイド寄りに揺り戻してまとめるもんやったといえるちうわけや。

「良いものほど使い方が大切」と称し,自転車利用の現状に関する問題点を一応示した上,府・市行政わいさらには法律−国レヴェルにおいて進められようとしてん,もしくは各レヴェルの行政わいの意図を乗り越え先取りするような規制強化や抑制策を正当化する内容をも含んやもんやったといえるちうわけや。

看過でけへん問題点

個別の報告者・発言だけやのうて,このフォーラム全体として浮かび上がった問題点をいくつか指摘しときまひょ。

定義曖昧な能書きの振り回しによるバッシング

日本における自転車利用の否定的情況を形づくる要因として,世界でも例を見いひん異常な自転車“対策”の亢進ぶりがあげられるけど,それが“対策”をすすめる行政わいの愚民化政策にも規定され,自転車利用をめぐる議論を低劣なもんに押しとどめることで,正当化し下支えさせられとる面があるんや。

こないな言説や議論の低劣化は,自転車“対策”を進める行政わいによるファナティックで煽情的なキャンペーンの形を取ることも多いけど,あわせて定義曖昧な能書きを振り回すことによっても起こるもんなんや。こないな定義曖昧な能書きの振り回しは,自転車“対策”のためのキャンペーンの中でも見られよるが,それ以外でもしばしば不用意に用いられよることが多いちうわけや。

こないなもんはしばしば煽情的なトーンを帯び,ときには不当なバッシングに及ぶこともあるんや。かかるもんにたいしては,冷静な理性の力をもって臨むことが肝要や。

「“放置”自転車」

こないな自転車をめぐる不当な能書きの代表は「“放置”自転車」や。「“放置”自転車」は日本独特の問題とされるが,諸外国において,都市景観中に走行中の自転車もあれば停止・駐輪されとる自転車もようけ見られよるけど,こないなもんを「“放置”自転車」といわへんんはなんでやろか? 結論的に言うたら,それだけ自転車および利用者の存在と意味が理解され,認められ,市民権を得とるからや。これをア=プリオリに認めんと,その排除と抹殺を課題として設定するトコから,問題としての「“放置”自転車」が生まれたんや。ほんでこないな「問題」への“対策”が,青天井に増大しうる利権となっとることから,次々とその対象が飽くことなく求められとるんや。

すなわち「“放置”自転車」とは,自転車および利用者にたいする理解と認識の低さによって生み出され,再生産され続けとる以外のなあんものでもあらへのんや。(「“放置”自転車」やらなんやらの能書きの不当性については日本の街ん中で自転車がどないされとるんか参照)。

「ママチャリ」

「ママチャリ」や「チャリンコ」の語源については既に何度も述べとるさかい繰り返さへんけど,ここでは発言者の主観に基づいて低廉粗悪とおぼしき自転車にたいするレッテル貼りとして用いられよったもんやちうことを,またこないな語用と論調にたいして理性的批判をもって臨むべきであることを明らかにしておきたい(「ママチャリ」定義の曖昧さについては警察庁による自転車“対策”を許さんで参照)。

ここでは,クロスバイクやロードレーサー,荷物運搬に耐える実用車を除外した一般車の自転車を漠然とさしてんようやけど,かかる一般的自転車の中にも一定の水準をもったもんは今なお見られよる。今日見られよる低廉粗悪な自転車のほとんどは一般車スタイルのもんやけど,マウンテンバイクや同ルック車にも少なからず見られよる。1980年代末アジアNIEsから輸入された低廉粗悪な自転車では,折りから普及し始めたマウンテンバイク風のもんが目立ち,今日のような一般車の低価格化と市場の席巻は,ほんでごっつう時間が経ってからのことや。

かかる低廉粗悪な自転車が横行してん日本だけちうんはあながち誤りとちゃうんや。こういったもんの重量が重いとするんは一面的や。鉄製フレームやったらそれなりの重量になるけど,一定の強度を得るには必要なもんなんやし,走行時の安定性をもたらすもんなんや。ホンマに粗悪なもんはむしろ「重」ない。せやけど走行部が劣悪やったら,こぐと「重」なるちうわけや。こないなもんの耐久性や安全性については今更いうまでもへんやろ。

自転車が工業製品として一定の水準をもったもんとして流通するためには,それに見あったコストは必要や。これを政策的に放置するんやったらば「悪貨が良貨を駆逐する」情況を生み出し,そんだけの水準をもった自転車関連産業が壊滅的打撃を受けることにもなるちうわけや。

品質劣悪にして自傷他害の危険がある自転車については,工業製品としての一定の基準の下に製造・販売に制限を加えなあかんにせよ,その具体的基準を示すことなく,抽象的な蔑視的なレッテル貼りをもってするんやったらば,もはや単なるバッシングでしかいないちうわけや。そこから生産的・建設的議論が生み出されることは期待でけへん。

強者の論理−格差拡大と弱者排除

会場の参加者は,性別では圧倒的に男性がようけで,とりわけ中高年が目立ち,そのほとんどを占めとったちうてええ(もちろんこの中には,主催者たる府市行政および府警わいの動員によるもんも含まれようわ)。こら主として,パネラーの年代層にも規定されてのこっちゃが,ワイが思うにはは通勤やらでの利便性とともに,楽しみと健康増進に自転車を利用したろおもておる層であると考えられる。こら,利用目的もさることながら,年齢・性別・体力・経済力といった要素においても多様性をもつ自転車利用者としては,その中のいわば経済的・体力的強者といえるちうわけや。良きにつけ悪しきにつけ,パネラーの発言もそれに向けて寄せられよったもんであるといえまひょ。

体力があればそれだけ速い速度でヨリ遠くまで自転車で行けることは当然なんやし,経済力があればそれだけ高性能な自転車を利用可能なこともまたしかりや。スポーツなり趣味の面からしたら,かかるもんを追求するっちうことに必然性や意味があるんや。せやけど一方で安価な自転車しか利用でけへん経済状況の利用者も少なない。また体力なり身体的条件からしたら,杖や車いす代わりに自転車を利用するような高齢者・障碍者もおる。

こないな格差を単純に全肯定するっちうことも全否定するっちうことも,あってはならへんことや。移動交通手段としての自転車の利用環境・情況を考えるとき,そないな違いや多様性をふまえつつ,それぞれの情況において至善となるあり方を模索し構築するもんやないとあかん。

自動車においても,いわはるとこのスーパーカーのごときも大衆車・軽自動車も,公道上においてはほとんど同じ速度で走るのが普通や。一方でさまざまな場面で性能や目的による差も出ようが。一定の範囲での違いをふまえつつ,交通ルールなり利用環境が設定されとることが解るやろう。自転車においてはその点でヨリ広範な違いを含めた多様性を認めた柔軟な利用環境を構築する必要があるんや。

経済的弱者については,自転車“対策”を利権化したろとおもう立場からしたら,収奪対象として意味のあらへん存在とみなされるやろうし,自転車利用抑制策として行う現状では,その打撃はきわめて大きいもんであるとともに,きわめて理不尽なもんや。またなんぼ安価な自転車しか利用でけへんというても,自傷他害の危険があるような劣悪なもんに甘んじなければならへんちう筋合いはあらへん。最低限の品質をもった自転車の利用は,それ自体が権利であるとの認識が必要や。

ここにおいて,高級な自転車の利用や健康増進を求めるあんまり,こないな主張が強者の論理へと傾斜し,多様な自転車および利用者の間での格差拡大を肯定するだけやのうて,これに棹さし,あわせて弱者排除へとつながる危険があるもんやちうことを見逃してはならへん。

大阪府・大阪市行政わいの反動的暴走を許さんと,
 今こそ市民主体の街を取り戻そう

このフォーラムの冒頭で一方的に開陳された,大阪府・大阪市行政わいの自転車および利用者にたいする無策ぶりと反動性は,それ自体として批判・弾劾されなならんもんやけど,あわせて今日の両行政わいが置かれとる情況を,市民の立場からとらえ返すことで,問題を総合的に把握し,市民主体の街を取り戻す一環として,かかる問題に対峙する必要性があることを,明らかにしたいちうわけや。

自転車“対策”による新たな利権創出・潜在化を許すな

バブル崩壊の頃から大阪府・大阪市とも厳しい財政状態にあり,近年に至っては財政再建団体への転落寸前とされるほどで,行財政改革が急務となっとる。とりわけ市にたいしては職員厚遇や外郭団体の濫費といった問題で厳しい眼が注がれとる。

こないな中にあっても大阪市わいは,これまでもたびたびそうしてきたように,問題とされたもんを辞めたり削減したりするとともに,別個の名目を付与して,それに代わるもんを用意してきたちうわけや。厚遇が問題になったらヤミ手当やらの代わりのそれを,外郭団体が問題になったら,債務を市がまる抱えして名前を代えるなりするだけといったような具合や。それとあわせて新たな利権創出にはよりいっそう血眼になっとる。

大阪市わいが,日本第二の都市の,大都市を一括した領域と権限をもつ存在としては日本一の規模(数値的には横浜市が上回る面もあるが,総合的には大阪市がそうであるといえる)の,行政を担う者としてはごっつうも低劣な自転車“対策”を開陳し,その「推進」を叫ぶゆう愚行の背景には,この自転車“対策”が,利権創出の機会として狙われとることを意味してん。

大阪市わい・市職員(人口あたりの市職員数は他の政令指定都市に比べて際だって多いとされる)にとっては,外郭団体の整理や市営事業の民営化,余剰人員の整理といった行財政改革の課題を突きつけられとるなかにあって,既得権益の維持と生き残りをかけて,新たな,しかも手っ取り早い対象が,自転車“対策”であるといわねばならへん。まさに自転車および利用者を喰い物にした反動的愚行や。

もちろんこら自転車および利用者だけの問題とちゃうんや。かかる反動的愚行にたいしては,他の同種の問題とともに,阻止し弾劾するだけやのうて,市民オンブズマン的観点から監視を続ける必要があるんや。

浪華の行政は今こそ原点に帰れ!

府わいであれ市わいであれ,浪華の行政の基本にして出発点とは,市民の自発的意志や行動を活発にし,そのありようを第一義に尊重し,その所産についてはお預かりさせてもらう,引き継がせてもらうちう姿勢で臨むことなんや。

江戸八百八町にたいして,大阪(大坂)は浪華八百八橋といわれるほど橋が多い水の都やった。そないな橋の中には個人名や屋号が名前になっとるもんも多いちうわけや。大阪市役所ねきの淀屋橋はその代表例や。これらは,市民が自らのニーズのために架けたもんであるとともに,他の人々にも自由に利用したってもらおうゆうもんやった。

その橋の下にある人工河川(運河)にしたかてまたしかりや。道頓堀も実はその例や。こういったもんは近代に入っても続き,中之島の市役所の東にある大阪府立中之島図書館大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)やらはいずれも民力をもって準備・設立され,のち行政わいに委ねられよったもんや。

こういった例はハードやインフラに限りまへん。ソフト面においてもまたしかりや。大阪をはじめとする関西では,エスカレータやらでは右翼側に立ち,急ぐ利用者に左翼側をあけるのが普通や。こら阪急電鉄が梅田駅を現在の場所に移すにあたり,それまでより離れた駅へのアクセスのために,エスカレータやムービングウォーク(1970年の大阪万博当時では「動く歩道」と呼ばれとったが,それに替わる名称として定着させた)を設置した際,円滑で安全な利用を図るべく,ヨーロッパの実例に範をとちう,利用者に呼びかける形で始めたもんや。

官が権力で強制したもんやのうて,民のニーズの中からおのずから形づくられよったもんや。そないな成り立ちとありよう自体に意義を認め尊重するっちうことが,民・官ともに求められまひょ。

いずれも市民自らのニーズに基づく自発的意志・行動がなにがしらの形で現れ具体化されたもんを出発点とし,行政はその委託・信託にこたえて預かり引き継ぐ存在ちうべきや。まずヴォランティア・スピリットやヴォランタリーな行動が先駆けになり,その蓄積から私利の追求と公益の増大が高い次元で調和するんが浪華の伝統や。行政がまずすべきは,かかるもんを尊重し,自らはそれを預かり受け継がせてもらうちう姿勢で臨むことや。

主権者にして主体的存在である市民に,パブリック・サーヴァントたる行政わいのヤカラが,市民と乖離した自らの利害の追求ために,強権的・高圧的姿勢で臨むこと自体が根本的錯誤であることはいうまでもへん。とりわけ浪華の地においては,前近代から営々と受け継がれてきたヴォランタリーな民力と対立し,その成果を奪うもんにほかいならんゆう点で,きわめて犯罪的や。

浪華の行政は今こそ原点に帰れ!

(2007.11.29)

参考

大阪市がやっとること警察庁による自転車“対策”を許さんで日本の街ん中で自転車がどないされとるんか
大阪府交通フォーラム (HARA Hideki's Blog)・ママチャリ(HARA Hideki's Room)