警察庁による自転車“対策”を許さんで車道からの自転車締め出し策動を許すな 警察庁が,「自転車対策検討懇談会」の「提言」を受けて,2007年の通常国会に提出する道路交通法改正法案において,自転車の歩道通行をヨリ広範に追認するとともに,車道からの事実上の締め出しをも画策してんことが,2006年11月30日の報道で明らかにされたちうわけや。 まさにこら,広範かつ多様に利用されとる自転車及び主体的市民の一翼をなす自転車利用者の役割・立場,さらにはその尊厳や存在を,もっぱら“対策”の対象と位置づけ,ことごとくシカト・抹殺するもんやちうことはいうに及ばんし,自転車及び利用者をして,歩行者やその他のようみなはんいわはるとこの交通弱者にたいして[可能的]加害者たらしめることを強要するもんやと言わならん。さらには自動車利用者やら,その他の交通手段を利用する一切の市民にとっても有害無益なもんや。 こないな内実をともなりよった道路交通法の改悪を阻止するとともに,この間行われてきた警察庁による自転車“対策”のデタラメ性を明らかにし,弾劾するもんなんや。 ![]()
全歩連キックオフミーティング (左,2006.12.22),シンポジウム「道路は誰のためにあるのか」 (右,2007.1.20) 自転車活用推進研究会は「歩行者を危険にさらす自転車歩道通行義務化に反対します。」を発表したのに続いて,東京・日比谷で「安心して歩ける歩道/安全な自転車道/渋滞の無い車道を実現する全国連絡会」(略称 全国歩道連絡会/全歩連)キックオフミーティングを行ったんですわ。(「キックオフミーティング」(HARA Hideki's Blog)参照)
「自転車対策検討懇談会」の性格と実態「自転車対策検討懇談会」は,警察庁「交通局長の私的懇談会」として2006年4月に設置されよって,「会議は5回程度開催し、今秋を目途に提言を交通局長に提出する」ちう計画んもと,6回の会合を経て,11月30日付で「自転車の安全利用の促進に関する提言」をまとめよった。 「検討」の趣旨と立場2006年4月に出しよった文書では「懇談会の目的」を 自転車は、現在の我が国において、日常生活の交通手段やスポーツ・レジャーの対象等として幅広く利用され、我が国交通社会における主要な交通主体の一つとなっている反面、自転車が当事者となる交通事故の増加や自転車利用者のルール・マナー違反に対する社会的批判の高まりなど、自転車の道路交通に係る課題は多岐に渡っている。 もんやちうて,「検討する事項」ちうて (1)自転車の通行スペースの確保と通行方法に関する検討 を挙げとる。そのホンネはともかく,ただ文字通りのもんやったら,警察庁一幹部の私的懇談会によって,わずか数回の会議で結論が出るようなもんやないことやけは確かや。 「懇談会」構成員の実態あわせて公表されとる「自転車対策検討懇談会」構成員の顔ぶれを見てみまひょ。公表されとる委員名簿に見えるんは以下の人物や。 岸田孝弥(座長,高崎経済大学大学院経済・経営研究科教授,専門:産業・組織心理学・労務管理) これに,警察庁出席者として,交通局長・長官官房審議官(交通局担当)・交通局交通企画課長・同交通指導課長・交通規制課長,オブザーバーとして,内閣府(政策統括官(共生社会政策担当)付参事官(交通安全対策担当))・文部科学省(スポーツ・青少年局学校健康教育課)・国土交通省(道路局地方道・環境課)が加わったとされとるちうわけや。 一瞥して自転車及び利用者にたいする包囲網といえるもんやちうことが見て取れる代物や。 座長の岸田孝弥が,これまでにもテレビ番組で自転車及び利用者に敵対的・侮蔑的な言辞を煽情的口調でぬかしとったことは,既にこのサイトでも述べた通りだ(「TV番組「ご近所の底力」でちょっとおかしなこと言うてたで」参照)。自転車利用はもとより交通工学やらちうたもんを専門とするもんやない,こないな奴が座長となりよったんは,こないな自転車敵視・蔑視の姿勢が警察官僚に気に入られてのこっちゃか。また自転車やのうて,自動車利用者向け雑誌・書籍出版者が加えられとるに至っては,従来のいわはるとこのクルマ社会−自動車中心・優位の交通秩序体系を盲目的に肯定するゆう,自転車にたいする対策や包囲の立場や性格を如実に物語っとると言わなならん。 諮問機関の位置づけ警察庁が内部に非公式に設置してん諮問機関の類は,「懇談会」・「研究会」やら名称は異なるもんの,このほかにもようけあるんや。その一つ「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」を見てみまひょ。こらすでに報道されとるトコでは, 警察庁は「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」を設置し、子どもを取り巻く性・暴力に関する情報の氾濫や、ゲームやインターネットにのめり込むことの弊害について議論を開始した。 とされるちうわけや。15人の委員の顔ぶれをみると,治安・少年犯罪担当警察官僚をはじめとし,御用学者らをかき集め,これに若干の著名人をお飾り的に加えたもんやちうわけや。警察内部及び他省庁の官僚も加えられとるけど,その人選においても,こないな問題にたいする警察庁及び担当部署の優位性を維持・増長させたろおもて,セクショナリズムと利権追求の貫徹をはかったもんやちうことが判るちうわけや。 「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」の場合,委員の数や会合の回数,資料の分量やら,量的側面では「自転車対策検討懇談会」に比べると多いけど,彼らが議論を重ねてなにがしらの結論をまとめ上げるためにはえろうたらんもんには違わへん。委員らの議論からまとめられよったもんができあがる前に,あまっさえできあがることを阻みつつ,あらかじめ警察官僚がお膳立てをし,そのシナリオに乗せられよった委員の名前を利用して,虚構としての外部性を粉飾した「提言」を出すんや。 これらはいずれも,こないな諮問機関に共通した特徴やちうて言い過ぎやあらへん。やけど各々の対策の対象にたいする位置づけや認識には違いがあるんや。かつて少年犯罪・非行の対策としては,その原因となりよったり誘発したりするとされるもんを,絶対悪同然の扱いで,子どもから切り離し,それを大義名分にして大衆動員や上からの組織化に利用するっちうことが多かったちうわけや。成人向け図書を「有害図書」として追放キャンペーンを繰り広げたり,バイクにたいして行った「三ない運動」とかぬかすもんがその例や。 これと同様の扱いをするんやったら「バーチャル社会」やインターネットそのもんを子どもから切り離したらなあかん絶対悪と決めかねへんとこやろうけど,さすがにそこまであほなことはしとらへんことは,資料からうかがえるちうわけや。もっとも「性・暴力情報」・「インターネット、ゲーム依存症」の内実はいささか主観的で恣意的解釈の余地が大きい(その政治的意味を見落としてはならへん)やけど。 ともあれ,こないな諮問機関の類に共通する特徴や問題点とともに,それらの中で「自転車対策検討懇談会」が,粗雑さとデタラメ性において突出しとることを,概観できるやろ。 「自転車対策検討懇談会」の「提言」のデタラメ性自転車対策検討懇談会は2006(平成18)年4月12日から11月14日の間にわずか6回の会合を開いただけで「自転車の安全利用の促進に関する提言」をまとめよったちうわけや。警察庁他の省庁関係者をのぞけば7名の委員だけで,こないな問題に対して適切な「提言」が出るはずがあらへん。もちろんそのまえに警察官僚のお膳立てがなされてとってそのシナリオにそって踊らされただけやといえるけど,内容の粗雑さと自転車敵視姿勢のエスカレートぶりは,覆い隠しようがあらへん。「提言」の「おわりに」で; 各委員の自転車に対する見方や立場も様々であったが、基本的に自由に意見を述べ合って討論し、提言に関しては意見の集約を図っていったものである。特に自転車の通行空間の考え方については、委員の間でかなり見解が分かれる面もあり、改めて自転車の多様性・多面性とそれゆえの取扱いの難しさが実感された。 やらとぬかしとるけど,ここに本懇談会と「提言」がいかに欺瞞と矛盾に満ちたもんかが,端的に示されとるといえまひょ。 「自由に意見を述べ合って討論」やらと文字通りに受け止めることがでけんことはいうまでもあらへん。また委員や官僚の中に現状のクルマ社会はもとより警察権力や警察官僚の利権増大化に積極的な者もいれば,相対的にではあるけど,これに消極的・批判的な者もおったやろうし,その利害対立もあったやろうことは,その行間から推察できるちうわけや。そら,自転車支持派と反/非自転車派ちうような,自転車を軸とした単純図式やのうて,自転車[利用者]対策を通じた強権化と利権の増大化と集中をめぐる中での角逐にあったことを看破せなあかん。 自由な討論の中でこないな対立があれば,両論併記的な答申が出されたり,せやなかったら「提言」自体が出ぇへんこともありうるちうわけや。そやかてこないな「提言」が出たことは,当初からのシナリオの枠内に押しとどめ,警察権力と警察官僚の利害貫徹がはかられはったことを意味するちうわけや。また「提言」内容における矛盾や齟齬は,利害対立をめぐって妥協が成立したもんやのうて,利権・権力をめぐる強硬な,場合によっては狂信的な動きがあったことをうかがわせるもんや。 そないなもんやさかいに,大義名分となっとる交通政策の観点からは,従来の警察わいをはじめとする政府の一連のそれ(詳細後述)の域を出て前進させるもんやのうて,むしろ退化させるもんやといわなあかん。 “対策”の対象でしかいない自転車そもそも前提として自転車及び利用者をどう位置づけとるんか。 「提言」では「自転車を交通主体の一つとして真正面から取り上げ」たやらほざいとるが,もしそないな風なもんやったらとうていこないな「提言」が出ることなんかあり得へんことはいうまでもあらへん。その本質は,これに続く部分「諸問題への対策を取りまとめた意義は少なくない」が示すとおり,無条件の前提として,自転車及び利用者を“対策”の対象と位置づけ,それをエスカレートさせ,強権化をはかるなかで利権追求を貫徹したろとおもうもんにつきるちうわけや。 こないな位置づけからなされた「提言」からまともな施策が生み出されることはあらへん。 自転車利用の現状にたいする認識の錯誤「提言」で繰り返し言及されとるトコの,自転車の数の増加,広範かつ多様な利用者層および利用形態といった現下の自転車利用情況それ自体について「自由気ままな走行」やらとこれまた繰り返し罵倒してん。それだけやのうて, 自転車は、化石エネルギーを消費せず、交通渋滞といった問題を引き起こさない環境負荷の少ない交通手段として、地球温暖化対策の観点から、国民の間でその利用を促進することが京都議定書目標達成計画(平成17年4月28日閣議決定)等の中で位置付けられている(p.3) といったような,今日的趨勢の中で,新たに認識せなあかんようになってしもた自転車利用の意義や利用推進をいっそう進める理由付けをも,それを特性として活かすための施策が一切見えへんのはもちろんのこと,あからさまに反駁・否定・挑戦するような文言こそ抑えられとるもんの,やっぱりその本質において,権力者然とした高みから,抗うべき“対策”の対象とみなしてんねや。 以下,「提言」が言及するトコの,“対策”の対象としての,現下の日本における自転車利用をめぐる情況認識が,いかに恣意的解釈と錯誤に満ちたもんであるかを,いくつかの例をもとに示しておきまひょ。 「自転車関連事故」の増加「提言」では「自転車の関連する交通事故の状況」として「自転車保有台数の増加と国民の自転車利用の進展に伴い、自転車の関連する交通事故は、年々増加している」(p.7)としてん。ここでいう「事故」とは事故として警察に届け出されたもんで,実際の「事故」の増減やその内実とは別のもんや。また「自転車利用の進展」とあわせて考えたら,直ちに事故割合が高くなりよった交通手段であるとの結論を導き出すことも誤りや。 当事者をして「事故」として警察に届け出る必然性を認識せしめる対象の増加や,市民間の自転車にたいする見方のひとつの反映であることには違おらへん。こないな情況と認識の内実及びその変遷について検証してゆく必要がありまひょ。それのうて「自転車関連事故」を論じることは許されへん。 「提言」から自転車関連事故に関する記述をいくつか拾い上げてみまひょ。 我が国の自転車乗用中死者の割合は、欧米諸国のそれに比べてかなり高いといえる。(p.4)…�� �,砲弔い討蓮い海譴紡海い董崗�態別30日以内死者数の割合の欧米諸国との比較」ちう表があり,ここでは日本の歩行中が30.8%,自転車乗用中13.9%とされ,こら各々比較されとる欧米諸国の2〜4倍ちうことになるちうわけや。また自転車普及・利用情況の違いを斟酌したら,日本の歩行者及び自転車が極めて高い危険にさらされとることとなるちうわけや。これを各々の交通移動主体,交通法規及びインフラといった個別の要素の責に帰したり対策を講じることで解決でけへん問題であることを示してん。 �△砲弔い討蓮じ充造痢峪�故」件数やのうて警察へ事故として届け出て処理されたもんの数やちうことは既に述べたけど,それが「自転車対歩行者の事故」の「急増」なるもんの実態であるだけやのうて,これを自転車及び利用者へのバッシングに利用する一方,「563件から2,576件」となりよったそれを圧倒的に凌駕する「22,470件から152,287件」となりよった「自転車対自動車の事故」については,有効な施策を提示するっちうことなく没却してんねん。同時にこら最大にしてシカトでけへんはずの[可能的]事故当事者たる自動車を免罪し,そのツケを自転車及び利用者,さらには歩行者に回すもんでもあると言わねばならへん。 年齢別事故割合の意味するもん(1);元気な高齢者の増加「提言」では「年齢別自転車関連事故」なるグラフ(p.10)を挙げとる。 高齢者の事故割合が多いんは,高齢化社会をむかえて人口比がようけなりよったことと,いわはるとこの元気なお年寄りが増え,自転車利用を通じた積極的な外出が進んどることの反映やろう。一方で従来のよないわゆる交通弱者もおって,高齢者の交通移動実態自体の多様化と格差拡大が進んどることの一側面を示すもんと理解すべきもんや。「自転車関連事故」だけやのうて,画一的な規制や保護のもとで高齢者の移動交通に関する問題を論じることが,何らの解決や前進をもたらさへんことを,ここから学ぶべきや。 自由意志に基づいた移動は自己実現の一環なんや。その尊重を第一に据えた政策は,福祉に限らず交通政策においても求められとる。 年齢別事故割合の意味するもん(2);少子化と少年非行・犯罪の変身また,ティーンエイジャーに関したかて,多分に入り込んどるバイアスをシカトでけへん。 もっとも高齢化社会の一方で少子化が進んで既に久しく,ついに本2007年は大学入学定員と志願者がほぼ同じになるゆう大学全入時代をむかえるまでになりよった。そないな背景を考え合わせてこの「提言」を額面通りに受け止めれば,13〜19歳の「年齢別事故割合」は,実際の人口比以上に高いんはもちろん,「事故」を起こしたり「事故」に遭ったりする割合が突出して高い世代ちうことになるちうわけや。もっとも中学生から高校生・大学生・社会人までをも含むこの年代をひとくくりにしてなんやがしらの結論を導き出そうゆうんは無理がありまひょ。問題分析においてももうちびっと区切ってみなあかんトコも多いちうわけや。 一例を挙げると,少子化にともなって小中高校とも学校統廃合が進んやため通学距離が伸びとるんは,全国的な傾向や。それだけでも交通事故に遭遇する可能性が高なることはいうまでもへん。もちろん自転車通学の必要性も高まり,自転車通学をする個々の生徒の距離・時間も増大するっちうことになるちうわけや。こないな背景をふまえたら,交通「事故」の責任を直ちに生徒自身に帰するっちうことが無理なことが解るやろ。 もちろんティーンエイジャー自身の問題もあるんや。携帯電話を利用しながら,音楽を聴きながらの自転車利用のごときがその一例やけど,こら前述のように増大した通学やらの移動時間をコミュニケーションや消費に充てよる行為といえるちうわけや。こないなことは,成人や歩行者でも多いが,こら交通問題に限定されるもんやのうて,情報化社会におけるモバイル情報機器利用一般の問題に帰せられるべきもんや。 さらに少年非行の変身ちう観点からみたら,暴走族やらの組織的で大規模な行為が衰退した代わりに小規模分散化する傾向にある上,いじめやらのように内面化,陰湿化が進んどるもんもあるんや。かつてやったら非行・犯罪として噴出したストレス・フラストレーションの発散が,ごく一部の兇悪事件とおおくの微罪レヴェルの行為に分化してん。自転車の乱暴運転の類も動機・背景としてはこれに含まれるもんが少なない。すなわちこないなもんは,交通問題やのうて,少年犯罪・非行防止の観点から予防・対策すべきもんなんや。 もちろんこないなもんが,大多数のティーンエイジャーに当てはまるもんやのうて,一部であることはいうまでもあらへん。そやかて,ティーンエイジャーの交通移動上のルールやモラルについちゅうやったら,自転車においても,その生まれる前から自転車車道通行の原則崩壊や歩道上利用空間の未分化といった問題が発生しとり(詳細後述),こないなもんに規定されたもんを,彼らの責めに帰すことはでけへん。ともあれ,交通問題の範疇に押し込めて“対策”の対象にするっちうことに無理があることはもちろん,こないな無理を承知の上やろうとなかろうと,これを通じて貫徹されようとしてん権力者的意図を,見抜いたらなあかん。 自転車利用情況観の錯誤今日の日本の自転車利用情況を,自らの既成概念にとどまらんさかいに「自由気まま」やらと罵倒してんが,この「提言」をまとめよった懇談会委員が,その多様性それ自体を「管理上難しい」やらと認識しつつその内実と意義を理解できてへんことを示すもんなんや。彼らの無理解ぶりいうたらそれをお膳立てした警察官僚を凌駕してん。 定義曖昧な「ママチャリ」から導き出される錯誤に満ちた“対策”そもそも「ママチャリ」とは何をさすのやろうか。 「ママチャリ」の「ママ」はおかんのことやし,「チャリ」は「チャリンコ」を縮めたもんで,昔から関西地方の方言として使われとったけど,その語源は朝鮮語で自転車を意味する「チャヂョンゴ」に由来すると考えられとる。今日では自転車の俗称として広く使われる「チャリンコ」やけど,美称・尊称として使われることは稀である一方,蔑称として使われることは少なない。 語源からしたら,直接的にはおかんが乳幼児を乗せるための自転車をさすことになるけど,今日的には,ロードレーサーやマウンテンバイクといったスポーツ的用途の自転車や運搬・配送に使われることの多い実用車を除いた,一般的用途の自転車を広くさすことが多いちうわけや。こないな自転車のほとんどは安価で,中には利用者の安全をないがしろにしたような粗悪なもんもみられる。「提言」では「ママチャリ」の定義を,対象を広く,もっとも曖昧なまんま用いとる。スポーツ用途のそら一応除外してんようやけど,いわはるとこの従来の実用車については不明や。この「提言」において,自転車が運搬・輸送やらに果たす役割自体を認識してんかどうかすら疑わしいトコや。 そこから導き出される“対策”が錯誤に満ちたもんやちうことは,もはや検討を要さへん。定義曖昧にもかかわらず「提言」全体を通じて一貫してんは,単に“対策”の対象と位置づける程度を越えた,自転車及び利用者にたいする蔑視だけや。 「ママチャリ」や一部の折りたたみ自転車やらの安価で粗悪な自転車による車道通行の困難さが,自転車車道通行原則の崩壊を促したとする指摘をする者もあるんや。たしかに耐久性に乏しく,フレーム熔接部分が破断し,走行中「空中分解」する事例すらあるちう。また,機能維持の困難さのうえに,コスト面での折り合いがつかへんさかいに,メンテナンスや修理が充分なされへんし,短期で使いホられることがようけになっとる。走行においてCO2を排出せえへんかて,製造工程・流通過程では環境負荷がなされとるさかい,これでは「地球に優しい」特性は活かされへん。ちうたかて,そのほとんどは一応,公道走行に見合ったギア比や必要な制動力やらが備わっとる以上,車道走行を妨げる要因となるもんとちゃうんや。 問題は「ママチャリ」の名のごとく,子どもを乗せての走行においてや。この場合,いかに幼児といえども通常の荷物の運搬以上の重量がある上に重心が高なるため,どエライ不安定となるちうわけや。これにヘルメット着用やらといった付け焼き刃的対処をしたかて,根本的解決にはならへん。 自転車の品質に関する問題を,一方的に利用者の責に帰し,警察権力によって交通政策において解決を図ろうとするっちうことは筋違いも甚だしおます。またそのマナーを云々するっちうことも無意味や。 自転車事故にたいする認識の錯誤;死にさえせなええんか?死亡事故では圧倒的に頭部損傷としてんけど,死亡事故以外を含めた事故全体ではどうか。 死亡事故及びそれ以外のもんも広く含めんと一面的な対策しか導き出せへん。死にはせんけど依然危険なまんまの,もしくはかえって危険遭遇可能性が高まる道路や交通ルールになるちうわけや。 死亡事故については,救急医療技術の進歩による救命率の向上,自動車設計技術とりわけIT化の進展による自動車利用者へのダメージ軽減,運転者のヒューマンエラー対策やらが,減少させるファクターとなっとる。またこれとは別に,経済不況やらにより自動車利用そのもんが減りよった場合も,減少要因となるちうわけや。そやかて,統計上の「死亡事故」は事故発生時から一定時間内に死亡したもんをさすもんなんやし,その定義にある時間の後に死亡した場合や,脳死・植物状態となりよったもんは含まれへん。 救急医療技術の進歩による救命率の向上は統計上の事故死者を減少させたが,事故死者たることを免れた人がみな順調に回復を遂げるとは限らへんし,植物状態はもとより重度障害やらの後遺症に苦しみ続ける悲劇を,かえって増やしてんちうてええ。 また,圧倒的多数の,もとより死亡に至らへんケースに至っては,いかなる予防・対策を講じるゆうのやろうか? さらに自転車に関しては,自動車の場合のように,技術の進歩やIT化による事故防止策は採りにくいちうわけや。ヒューマンエラーに関しては,交通ルールやインフラにおいて,合理的で,どなたはんにでも理解・実行可能な単純・明快な利用環境整備を行うことに尽きるちうわけや。 ひとつの重大な事故の背後には無数の軽微な事故が発生してんさかい,その防止・対策は別個のもんとちゃうんや。軽微なもんへの対処が重大なそれの防止につながってゆくもんや。こないな観点は,この「提言」が,既存の「交通安全対策推進プログラム」(詳細後述)から大きく後退したもんのひとつなんや。 自転車車道通行原則の崩壊この「自転車の安全利用の促進に関する提言」において,自転車及び利用者の権利をないがしろにするだけやのうて,歩行者・自動車利用者やら他の交通移動主体にたいしたかて有害無益なもんの最たるもんが,自転車車道通行原則のなし崩し的崩壊やていわなあかん。 この「提言」で問題としてんトコの自転車事故なるもんの大多数は,自転車車道通行の原則が遵守され,またそのことが歩行者・自動車利用者やら他の交通移動主体にも周知されていれば,そもそも発生し得へんもんや。これについて枝葉末節的な議論をする向きもあるが,なかには「木を見て森を見ず」的な陥穽を脱せんもんもみられる。いかいなる詳細な検討よりも原則の再確認に優る解決策があらへんことを示すことが,必要にして充分な対処法やろう。 原則崩壊の背景と意図自転車車道通行原則の崩壊をはかる「提言」にはいかいなる背景があんねやろうか。もちろんそれを細かく分析したかて,結局のトコ移動・交通手段としての自転車にたいする敵視・蔑視・無理解に行き着くのであるが。 移動・交通手段としての自転車にいかなる特性があるかについて,ちびっとだけでも冷静な理解をもってしたら,車道通行原則の必然性と歩道通行それ自体の問題性は自明のもんやろ。しかも自転車対歩行者の事故について論いながら,その増加を導くような策を主張するやらばかげとる。 また,車道からの自転車締め出し策動は一般道制限速度緩和を目論む布石との推察もあるが,こらいかがなもんやろか。ヨリ高速化された自動車を円滑に走行させるため,その障碍となるやろう自転車を車道から排除するんがねらいやとする推察や。もっとも現状においても制限速度以上でのクルマの流れが普通であるトコは多いちうわけや。また都心部やらの交通量の多いトコロでは制限速度以下でのクルマの流れが普通や。いずれの場合も,道路やらのインフラや交通量・交通様態が同じやったら,制限速度を上げても実際の変化はほとんどあらへんやろ。もちろん自転車を排除したかてや。 そやかて,道路やらのインフラに手を加えるとなると別や。自動車走行にのみメリットのあるもんへと造り替えればスピードアップの効果があるかも知れんとの推察もできるが,それよりも見落としてはならへんのは土木利権が生じるゆうことや。自動車走行速度アップや交通事故減少やらの効果があろうとなかろうと,土木利権発生ちう効果は確実や。そないな土木利権の新たな発生を謀ることも,法改正を通じた本来の意図のひとつやていわなあかん。 原則崩壊にいたる過程そもそも自転車は道路交通法で「軽車両」に分類されており,他の「軽車両」と同様に車道の左翼側を通行するっちうことが義務づけられとる。歩道は「通行可」に指定されとる場合しか走れへん。そやかて法文を一読したらどなたはんでも判る基本原則がないがしろにされる歴史は約30年に及んどる。しかもその原則崩壊をもたらしたんは,自転車利用者とちゃうや。したがってその原則崩壊にともなう責めを自転車利用者自身に帰せしめることは,きわめて不条理なもんにほかならへんことが解るやろ。 ここで「提言」より昔にさかのぼり,道路交通法の関連項目と,それに関する動きを簡単にたどっておきまひょ。当然のことながら,もともと道路交通法には,自転車を他の[軽]車両と区別して,歩道通行を認める規定はあらへんかった。 (通行区分)第17条1項 車両は,歩道と車道の区別のある道路においては,車道を通行しなければならない。ただし,道路外の施設又は場所に出入りするためやむを得ないときは,歩道を通行することができる。P>もちろん今日でも法制度上はこれが原則といえるもんやけど,自転車に関してこの原則が崩壊させられはる第一歩は,以下の文言が付け加えられよった,1970(昭和45)年の改正やった。 (自転車の歩道通行)第17条3 二輪の自転車は,第17条1項の規定にかかわらず,公安委員会が歩道又は交通の状況により支障がないと認めて指定した区間の歩道を通行することができる。 この原則崩壊が現実化するんは,「普通自転車の歩道通行」を具体化させた第63条の4を盛り込んだ1978(昭和53)年の改正やった。 (通行区分)第17条1項 車両は,歩道又は路側帯(以下この条において「歩道等」という)と車道の区別のある道路においては,車道を通行しなければならない。ただし,道路外の施設又は場所に出入りするためやむを得ない場合において歩道等を横断するとき,又は第47条第3項若しくは第48条の規定により歩道等において停車し,若しくは駐車するため必要な限度において歩道等を通行するときはこの限りではない。 これについては,国会の場において,結果として議員がまともな理解をせんまんま,法案を通過・成立させてしもたわけやけど,一応の論議がが行われとった。自転車車道通行については,一応これを原則とするがごとき姿勢を示しとったもんの,自転車歩道走行による問題に有効な具体的対処を行わんと,なし崩し的現状追認に堕していったといえるちうわけや。 こないな答弁には,実務者レヴェルのもんが立つときもあるが,警察官僚の中そやけど,交通問題の専門家やのうて,エリートとされる警備公安畑出身の者があたることも多いちうわけや。そやから,交通問題に通じとるわけとちゃうだけやのうて,道路交通法本来の趣旨とは別に,治安体制維持の観点からその有用性を判断するっちうことになるわけや。こないな観点から重要思われへんかったさかいに,自転車利用に関する問題はなおのこと軽視されたといえるちうわけや。 その一方で,自転車道整備を求める動きもはよからあったちうわけや。欧米に範をとり自転車事故の減少をはかる大義名分こそ掲げられとったけど,その本質は,一部地方選出議員による土木利権的利益誘導策として追求されたもんで,その政治的意図の貫徹はもとより,移動交通手段としての自転車走行環境の向上にはほとんど結びついてこへんかったことは,もはや歴史の証明するトコや。 実際には,「自転車歩道通行可」をなし崩しにしてゆく情況が生み出されとった。1978年よりどエライ昔から,一部に自転車の歩道通行が見られ,それにたいする歯止めを失う懸念がなされていながら,有効な対処を一切怠ってきたことも見落とせへん。また,車道上において以上に歩道上において,自転車の走行空間が元々充分に考慮されておらへんし,歩行者との分離は事実上ほとんどなされへんまんまなんやし,その走行方法においても,歩行者と同じような速度で「徐行」して走ることや「押して歩く」ことを求めるやら,自転車の通常の走行方法では無理ちうべきもんを,何らのためらいもなく求めてきよったちうわけや。こないな無理と不条理を棚に上げ,自転車及び利用者のせいにするんが,「提言」でも繰り返されとる自転車及び利用者にたいする罵詈雑言なんやし,そこから「懇談会」委員や警察官僚の意識と資質の低さをうかがい知ることができるちうわけや。 まるっきし無知愚策の所産ちうほかいないもんやけど,こないなもんが約30年,いやそれ以上の長きにわたってまかり通ってきたゆうことは,人間のライフスパンでは優に1世代以上ちうことになり,乳幼児はおろか青少年に至っては生まれる前から,その親の世代においても物心つく前から,こないな原則崩壊がなされており,こないな長期間を経て少なからざる市民が,こないなもんに馴致させられるちう,まさに愚民政策がまかり通ってきたといわなあかん。 1970年というたら,大阪で万国博覧会が開かれた年なんやし,日本が高度経済成長を謳歌するケツの時期で,モータリゼーションの進行とともに,交通秩序もまたクルマ中心へとシフトしていった時代なんや。きょうび全国各地で相次いで縮小・廃止されていった路面電車のごときとともに,自転車もまた交通手段としての役割を軽視されとったちうわけや。 また,現在では,環境問題への問題意識と危機感の高まりから,クルマ中心の交通秩序を見直し,自転車利用を推進する交通政策へと転換してんヨーロッパ先進国においても,1970年はもちろん1978年でもまだクルマ中心の交通体系をもってしとり,その点では日本の交通政策が特段遅れとったわけとちゃうんや。 やけど自転車の歩道通行容認は,今日はおろか当時においてすら,日本をおいて他に例のあらへん愚策やった。諸外国においては,その交通政策が自動車中心であれ,自転車利用積極推進であれ,自動車・自転車・歩行者各々の道路上での通行帯の区別は,その原則を当然のこととして貫くことで,時間をかけて定着させてきたといえるのなんや。決して一朝一夕になされたもんでもあらへんし,厳罰による徹底化を図って生まれてはじめてなされたもんでもあらへん。 政策上の不作為=自転車のシカト・抹殺の正当化今日では「自転車歩道通行可」ちう“例外”が,歩道の4割以上,地球を1周半以上の総延長にまで,なし崩し的にはびこらされるに至っとるちう。これでは,一般的な国民の常識的理解の水準では,「自転車歩道通行可」があくまで限定的な条件下での例外措置であると認識させることは難しく,あまっさえ警察わい及び警察官自身が,法の枠組みをシカトして,その原則崩壊に棹さしてきたことを忘れたらあかん。当然「提言」がこないな反省を表明するわけはなく,これによって生じた問題をもっぱら自転車及び利用者に転嫁させることになるちうわけや。 交通政策上の無知と不作為により,その矛盾を自転車に転嫁してきたことについて「提言」では以下のように述べとる。 我が国の道路状況において、特に自転車道の整備が容易ではないことも事実である。自動車の通行量が多く、およそ自転車の通行が困難な道路も少なくなく、また、自転車走行の迅速性・快適性よりも、何より安全性を重視する自転車利用者も多いことから、勢い自転車の歩道通行が広く見られるようになっている。 (p.10) ここで自転車走行の「迅速性・快適性」と「安全性」とが,あたかも背反するもんであるかのごとく対置せられ,しかもそれが自転車利用者におのずから生じた意識情況であるかのごとく描き出してんが,これこそ警察−道路行政わいの交通政策上の無知と不作為を隠蔽し,自転車及び利用者自身の問題へとすり替える詭弁にほかなりまへん。 「迅速性」・「快適性」・「安全性」等々,自転車利用情況におけるファクターはさまざまで,ずぅぇえんぶのファクターが十全に満たされるのが理想やけど,ヨリようけのファクターが,ヨリ大きい度合いにおいて実現されることが求められる関係にあり,背反律的・二者択一的関係にあるちうんは,こないな性格を歪曲するもんや。 そもそも交通政策において「自転車道の整備」=自転車走行空間確保やないことを見落としたらあかん。基本は既存の道路インフラにおける自動車・自転車・歩行者各々の利用空間の案配なんやし,続いて道路新増設時におけるそれや。自転車利用推進に積極的なヨーロッパ先進国においても,自動車専用道路の建設や,自動車が通行でけへん道路の整備と同様かそれ以上に「自転車道の整備」が,道路建設・整備一般から見ればむしろ少数であるからや。 もし高速道路やバイパスといった自動車専用道路以上に「自転車道の整備」を要求するとするやろ、ほしたら,そら,自転車利用ニーズに即したもんとは言い難く,自転車を土木利権創出・増大化の手段として利用したろおもていう立場からのもんやていわなあかんし,また国民的理解を得るべく過大なもんやとの誹りを免れへんやろ。 現実には、自転車歩道通行可の規制の有無にかかわらず、自転車の利用者が自らの判断で歩道通行しているという実態も一般的に見られ、こうした中で、一部の自転車の歩道上での無謀な通行やルール違反、マナーの悪さが歩行者の立場から厳しく指摘されるという事態が生じている(p.10) こら「自転車歩道通行可」とするっちうこと自体および自転車車道通行原則崩壊に至る過程における誤り・問題を一切棚上げして,自転車及び利用者にその責めを転嫁する姿勢が,もっとも端的に示された部分といえるちうわけや。 自転車の通行方法については……自転車の通行区分について検討するとともに、特に歩道における自転車と歩行者の共存を図るための実効性のある具体的なルールを定めることが適当である。 そもそも自転車の車道通行ちう大原則をなし崩し的に崩壊させといて,その責を自転車利用者に転嫁しするっちうことが,前提として大きな誤りや。その誤りを誤りとして顧みることなく,その上に立って「歩道における自転車と歩行者の共存」やらちうこと自体が無理や。まして「歩道上での自転車の通行方法をより明確にする」やらちうんは,砂上の楼閣に過ぎんもんや。しかもその実効性が乏しいことをもっともよう知っとるんは,他ならん警察わい自身とちゃうやろか? しかもここでは原則であるはずの自転車車道通行を「…又は車道を通行すること」,「迅速な走行を行おうとする自転車利用者は…」やらと,あたかも条件付の例外であるかのごとくに貶める始末や。条件付の例外は「自転車歩道通行可」の方とちゃうかったんか? 車道における自転車と自動車との共存、歩道における自転車と歩行者との共存を図るため、自転車利用者に対してだけでなく、自動車運転者や歩行者に対しても、自転車の通行ルールや事故実態等について教育・広報していくべきである。 「車道における自転車と自動車との共存」は当然のことや。これを当然のこととして「教育・広報していくべきである」ことはいうまでもあらへんけど,これについては,ほかならん警察わい者自身が教育されなあかん存在やと言わねばならへん。「歩道における自転車と歩行者との共存」なるもんが直後に続いて並立せられとるトコから,彼ら自身の見識の低さが示されとる。もちろん,デタラメな「自転車の通行ルール」や,原則崩壊の所産である「事故実態等」を,自転車利用者はもとより,自動車運転者・歩行者にたいしたかて「教育・広報」するやら,あほげとる。いったいどないな風に「教育・広報」するゆうのやろうか? 個々の交通現場で自転車利用者が通行ルールを理解できるよう……自転車利用者に対する具体的な広報啓発を推進することを検討すべきである。この場合、法律上自転車の歩道通行が禁じられており、そこを通行してはならないときや、法律上自転車の通行が可能な歩道であっても、歩道上の歩行者の通行が多く、自転車の走行が歩行者に危険や迷惑を及ぼすときは、自転車を降りて押して歩くようにしなければならないことなど、具体的にどのような行動をとればよいか分かるように広報啓発の内容を工夫する必要がある。(p.28) 自転車車道通行原則をへんがしろにするだけやのうて,「自転車歩道通行可」のなし崩し的正当化をはかり,さらにはこれを「通行ルール」なるもんをもって問題を隠蔽し,緻密化を謀ろうとするもんや。またあわせて自転車と歩行者の対立・相克を煽り,自転車及び利用者にたいする敵視感情を醸成させることをねらっとる。いうまでもなく,「自転車を降りて押して歩く」ことの強要は,自転車の移動交通手段としての存在をシカト・抹殺するもんなんや。蛇足ながら付け加えると,自転車を押して歩いた場合は軽車両やのうて歩行者として扱われるが,原動機付き自転車・自動二輪車を押して歩いた場合,実際には運転してんと同様に扱われるゆう点そやけど,矛盾があるんや。もちろん「自転車を降りて押して歩く」ことによって「歩行者に危険や迷惑を及ぼす」ことがななるやらとするんは思いこみや幻想でしかないことを,警察わい者自身がハッキリと理解せなあきまへん。 「危険」の対象と判断の根拠は?これまで見てきただけでも「提言」において,たびたび「安全」・「危険」・「迷惑」やらといった文言が出てくるが,それらは何にとちうのん,何にたいしてのもんやろうか。その判断の主体は何やろうか。またその根拠は何なんやし,またいかにして示されるのやろうか? 自転車の走行環境の整備(?)に関して述べた部分を見てみまひょ。 ○ 自転車道や車道における自転車の走行環境の整備状況に応じ、自転車歩道通行可の規制を解除すること 前項は一見,自転車車道通行原則への復帰を目指してんように錯覚する向きもあろうが,「自転車の走行環境の整備状況に応じ」ちう条件設定がなされとることから解るように,そのホンネは,「自転車の走行環境」が整備されへんまんまで現状のようなもんやったら,さらには現状より悪化させられれば,「自転車歩道通行可」を容認し,あまっさえ拡大するっちうこともできるとするもんや。自転車利用環境整備の不作為と後退を正当化し,そのツケを自転車及び利用者に回そうゆうもんにほかなりまへん。 次項は,自転車車道通行の原則を根底から崩壊させ,移動交通手段としての自転車の存在意義をもシカト・抹殺するもんであることが,一見して解る代物や。やけど問題はこれにとどまりまへん。ここにいう「危険」の内実はもちろん,それを判断する基準や主体について,何らの説明がなされておらへんことから,いかようにも解釈・運用するっちうことが可能となるもんからや。 ここでいわれとる「危険」とはどないなもんやろうか? これについて「提言」では何ら説明がなされておらへん。説明せんこと自体,説明するっちうことで生じるやろう不都合を予防するゆう,不誠実さと官僚的保身の所産といえるちうわけや。また,長年にわたって自転車車道通行の原則をへんがしろにし,崩壊に棹さし,あまっさえその愚策のツケを自転車及び利用者に転嫁してはばからへん「自転車対策検討懇談会」と警察官僚どもん考えることやさかいに,一般的社会通念や市民的良識からしたら荒唐無稽なもんであっても,その強行が策されとる可能性は大いにあると言わねばならへん。 まず「危険」はどなたはん[何]にとちうのんもんかから問題にされなければならへん。文脈上自転車についてのもんと理解するっちうことは誤りではおまへんやろ。ここから「懇談会」と警察官僚の自転車観を見てみまひょ。 自転車はもとより歩行者についても,危険とする理由のひとつはその速度差・運動エネルギーの差により,ヨリ大きなもんからダメージを受けうることをもってするもんや。こらどれほどの妥当性を持つのやろうか? こら実に一面的なもんで,衝突時のエネルギー量がもたらすやろうダメージだけを取り出して「危険」とするに過ぎあらへんもんや。 速度・運動エネルギーの差は大きうても,自動車・自転車・歩行者各々の通行帯・利用部分の分離が明確・厳格やったら問題へん。時速数十km,場合によっては100km以上のスピードで電車が通過するホームで,風圧による巻き込みを防ぐべく設定された1m足らずの間隔しかあらへんもんについて,直ちに危険とする向きはあらへんやろ。こないな風なもんでも遵守していれば,脱線・転覆か故意の飛び込みでもせん限り,接触はあり得へんからや。ヨーロッパの中にも,時速数十kmで走る車のすぐ横を自転車が走るトコはなんぼでもあるんや。その場合そやけど,通行区分が厳格に定められ守られており,日本のように車道端の二輪車の通行を妨げるべく幅寄せするような運転が横行しておらへんから,自転車が安全に走行できるのなんや。 こないな「危険」をもってするっちうことの延長には,物理的可能性いがいに,他の交通移動主体が排他的独占性を保持・増強する上で不都合と認識されるもんの存在自体へと,その「危険」観の対象認識はエスカレートしてゆくのなんや。高速道路やバイパスのごとき自動車専用道路を必要とするような情況やったら,こないな発想もまだしもちうトコやろが,一般道における自動車と自転車の利用空間分離ちう次元では,不要なもんなんや。 また,合理的根拠がどうあれ,目障りと感覚されるやら,単に敵対的・排他的感情によるもんも要因として挙げられる。こら,自らと異なる他者にたいする違和感から出発して,敵対的・排他的感情へとエスカレートさせるもんで,こないなもんへの理解を心がけるとか,共感したろおもていった方向性からそっぽを向いたもんや。そもそも市民社会は多様性を内包したもんなんやし,その否定は偏狭で排他的な社会を生み出すもんなんやし,その上からの組織化は,まさにファシズムなんや。また,こないな“対策”は,排他性・敵視感情が高まればそれだけエスカレートするもんなんやし,それにともなって利権の増大化をもたらすのなんや。こないな問題は,わが都市生活改善ボランティアがこれまでも繰り返し告発してきたもんにほかいなりまへん。 さらに大きな問題点は,警察わい及び警察官の恣意的判断・裁量の余地が無制限的に増大するっちうことなんや。しかもその場合に根拠・基準・証拠の明示も必要とされへんし,勝手な判断に基づいた職権濫用がまかり通ることになるちうわけや。 こないなトコからは,その適用方法をめぐちう,自動車の交通量が多い幹線道路でのい自転車車道通行が原則どころか全面禁止になりかねんちうた可能性すら出てくるんやし,そら決して荒唐無稽なもんとちゃうんや。いっぽう,歩道上での自転車通行の現状や対歩行者事故の危険について,ここでだけは問われておらへんのや。自転車に歩道通行を強要するっちうことの問題については,自らのまいた種になるもんであるが故に,「懇談会」と警察官僚は,ここではあえて踏み込めへんのや。あほな矛盾や。 もちろんこれ以外にも,通常の社会通念や,欧米先進国はおろかその他一切の外国での事例やらからはおよそ想像もつかんような,一片の合理性や必然性もあらへん,あほな自転車の歩道通行を強要する基準が生み出される可能性は高いと言わねばならへん。 自転車車道通行原則を徹底してんトコでも幼児・児童が利用する自転車は歩道通行を認めており,この程度の例外は合理性があるといえまひょ。もちろん駐停車,路外との移動および緊急避難の類も同様や。 ほんで何より問題にせなならへんのは,こないな拡大解釈・運用がなんぼでも可能となるような,根拠・範囲が明示されへん,恣意的運用の余地が大きい,裁量を容認する,曖昧な規定を盛り込むこと自体が,権力の濫用と無制限的拡大が生み出され,基本的人権の侵害を惹起しかねんちう,民主主義社会においてもっとも重大な問題を孕んだもんとなることなんや。こら自転車にとってだけやのうて,人権と民主主義にとってこそ「危険」なもんや。 こないなもんは,厳罰化はもとより,法改正の“効果”によって解決・軽減されることが見込めへん「危険」を口実にして,さまざまな市民活動への介入・弾圧に利用される危険が増大し,日本国憲法に定められた集会・結社の自由,思想の自由やらの基本的人権の侵害・蹂躙が,これまで以上に進められよるやろう。 「自転車に係る安全教育等の現状」いっちゃんはじめに,自転車が交通移動手段であること,自転車利用者が主権者の一翼を担う存在なんやし,その権利と尊厳は他の交通移動手段利用者と何ら変わらへんこと,これを前提として社会的共通認識とするっちうことなしには,どないな「安全教育」も無駄かつ無意味や。 最大の反面教師としての警察官及び警察当局「提言」では「警察では、自治体や関係機関・団体と連携し、自転車の事故防止やマナーの向上等を訴えかける広報啓発活動を実施」(p.12)やらとしてんけど,実際のトコ,ほかならん警察自身がこないな「安全教育」における最大の反面教師やちうことに,もはや異論の余地はあらへんやろ。警察自体はもとより「連携」する「自治体や関係機関・団体」においても,主権者にして主体的市民の一翼を担う自転車利用者にたいして,無知蒙昧な存在と位置づけることを前提とした働きかけである「啓発」を行う資格やらもあらへん。そら単なる独善と大衆蔑視でしかあらへん。 道路交通法上の諸原則を主観的解釈と恣意的判断で蹂躙し,それを自転車及び利用者に場当たり的に押しつけてきたのが警察官及び警察わいにほかなりまへん。左右折や停止に決して手信号やらの合図をするっちうことなく,歩道上を並進して尊大な態度で走る警察官の自転車は,自転車利用における模範どころか,もっとも典型的な反面教師なんやし,道路交通法違反の百貨店ちうべきもんとちゃうか。 ほんで何よりも,現下の道路交通法にある自転車の車道走行原則をなし崩しにしてきたんは彼らの最大の罪業なんやし,自転車及び利用者,とりわけティーンエイジャーをあたかも無法者のごとく罵倒するにいたっては,自らの罪業を転嫁するもんにほかなりまへん。 「自転車に係る安全教育等の現状」の最大の問題点は,警察官及び警察わいにあることは明らかや。警察官及び警察わいが安全教育の主体なり担い手たらんとするんやったらば,まず自転車及び利用者にたいする認識を,根本的に自己変革するもんやないとあかん。 自動車運転者に求められるべき意識変革自動車運転に際しては当然のことながら運転免許証の取得が義務づけられ,免許対象の車種についての運転技量及び交通法規の習得は一応なされとるとの前提に立った上での議論は可能やろう。せやけど免許対象以外の種類の車両はもとより,歩行者・自転車にたいしての認識となると,はなはだ不十分などころか,前述のような警察官及び警察わいの錯誤に加えて,少なからざる部分がそれに規定されとるトコの,運転者の主観的・独善的解釈が,便利わるいと危険を強いとる場合が少なない。 自動車・自転車・歩行者各々の通行帯を物理的に分離するっちうことは確かに有効性を期待できる部分が少なないが,それだけで解決するもんとちゃうんや。道路自体や各々の通行帯に十分な幅員がなかったり,適切な形状がなかったりしたら,かえって便利わるいだけでなく危険や。 自動車・自転車・歩行者といった速度差・運動エネルギー差が大きく,その利用形態も異なるもんがほとんど隣り合わせで移動するっちうこと自体をなくすことはでけへん。そのことを認識した上で,それにふさわしい運転・走行のあり方を要求されなあかんのや。一例を挙げるんやったらば,車道上のバイクや自転車の通行を阻む形での幅寄せのごときは,ほとんど日本の道路上特有の珍現象ちうべきもんや。欧米先進国のなかには,都心部の自動車の制限速度を厳しくしてんトコもあるが,件の幅寄せのごとき他の通行を阻んやり危険を及ぼしたりするような運転にたいしてはそれ以上に厳しい姿勢で臨んどる。もちろん風圧や泥はねのごときは不可避であるにしたかて,人為的要因は可能な限り排除されとる。また,「提言」においても自転車と自動車の事故でとりわけ多いとされとる,出会い頭の事故防止のための安全確認のあり方も,こないな観点から改めたらなあきまへん。 特定のもんにたいして罰則を設けても,それ以外のもんを容認するがごときもんとなってしもて,総体としての効果は望めへん。自動車・自転車・歩行者のそれぞれが,交通移動主体として共生すべきもんであことの意識改革が不可欠や。免許証取得時及び更新時の講習に盛り込めば,3〜5年でずぅぇえんぶの自動車運転者に普及させることが可能やろ。 「自転車運転免許証」の問題:ボクラ少国民!?近年「自転車運転免許証」なるもんがいくつかの地域でみられるようになりよった。おおくは小学生向けの交通安全講習の受講修了証のように使われとるが,それが始められよった際の政治的背景を没却したらあかん。 これをはじめに導入したんは東京都荒川区や。当時の荒川区長・藤澤志光は,2004年夏,汚職事件のため,公選された特別区長として初めて現職のまんま逮捕されたことで,全国にその悪名を轟かせた人物やけど,そのもとでは,「つくる会」教科書の採択や,ジェンダーフリーを否定し男女共同参画に敵対する条例の制定が策されるやら,時代錯誤的・反動的・ファッショ的政策が陸続と追求されとって,この「自転車運転免許証」もその一環にほかならへんのや。 直接的には,少子化にともなう学校統廃合のため通学距離が伸び,23区で初めて区立中学生徒に自転車通学を認めるに至ったんにともなうもんやった。そのため自転車通学にあたっては「自転車運転免許証」の“取得”が要求されとる。せやけどダンさんその対象は小学生(高学年)から成人にまで及び,免許証取得のための講習会なるもんをはじめ,荒川区内の警察署や町会連合会・PTA連合会・交通安全協会やら区内のさまざまな,上から組織された団体やらの機能を発揮させ,あたかも戦時中の国家総動員体制を彷彿させる相互監視体制と情報収集体制の構築にあることが判るちうわけや。まさに「交通問題」を口実としたあらたなファシズム体制づくりにほかいなりまへん。 「安全教育」を口実とした学校教育への介入:少年犯罪・非行だけが口実ではおまへん現代はまさに,警察権力の学園への介入について,危機感をあらたにせなならへん時代や。 教育の場であるとともに研究の場であることから,とりわけ大学やらの高等教育機関においては,学問の自由,思想の自由の侵害につながる警察権力の介入については,従来厳しく弾劾されるのが常やった。学園闘争の後退とともに緊張感は稀薄化しつつあるもんの,大学人の間ではなお一定の問題意識は共有されとるやろ。 また,小学校・中学校・高等学校といった,初等・中等教育機関にあっても,学校における教育目的の達成の観点はもちろん,教育を担う教育労働者及び教育の客体たる児童・生徒らのいずれにも,学問の自由,思想の自由はあり,人格権の尊重ちう観点からも,警察権力の学校現場への介入に厳しい制約が要求されるのが常やった。 こないな中にあって,非行や少年犯罪の抑止・対策と称して,警察権力の学校への介入がなされ,児童・生徒に関する個人情報が,学校・教師から警察に収集され,事実上監視対象にされつつあるんや。やけど警察の学校への介入と両者の結合のもっとも大きな口実は「安全教育」であることを忘れたらあかん。 警察が行っとる「安全教育」の内実はいかいなるもんやろうか? 「提言」では, 児童・生徒を対象とした自転車安全教育については、もとより、学校と警察の緊密な連携が重要となる。現在の学習指導要領等のもとで、自転車安全教育を含めた交通安全教育は、安全学習としては、体育又は保健体育の保健領域や「総合的な学習の時間」等の中で行われ、安全指導としては、学級活動やホームルーム活動、学校行事、生徒会活動、クラブ活動等の中で行われている。 やらと紹介してんが,こら警察による学校教育への介入の一端を示すだけやのうて,「様々な工夫」と称するもんは,これまたファッショ的なもんおよび「安全教育」・「自転車教室」の中では例外的なもんを都合よう集めて列挙したもんであるだけやのうて,警察が行う必然性ちう点で何ら説得力を持たへんもんや。 学校教育における立場がどないやっても,基本的人権を付与された主権者・国民として学問の自由,思想の自由が尊重されねばならへんちう,もっとも基本的なことがないがしろにされとるちう現状があり,その原因が教育行政と警察権力にあることを看破し,その不当な介入を許したらあかんことを,今いっぺんハッキリさせておきまひょ。 学校では自転車を科学教育に活用せよ学校において交通安全教育を行うにあたっては,既存の教育内容といかに関連させ位置づけていくべきかが,その内容とともに問われるちうわけや。スポーツや道徳教育との連関ごときについては既にようけの指摘があるんでここでは繰り返さんけど,とりわけ自転車に関しては,科学教育との連関の欠如を指摘しとかなあかん。これこそ学校で自転車を通じて行う教育としたかてっとも必要にして効果的なもんとちゃうやろか。 自転車が走る原理については,小中学校の理科の単元にそのほとんどを対応させることができるちうわけや。その点で自転車は優れた理科教材や。自転車利用(走行はもちろん整備・修理等も含めて,また移動交通手段として以外にもスポーツ等の用途においても)を行う上で,原理を理解するっちうことを前提とするんとせんのとでは大きな違いができるちうわけや。もっとも自転車製造の技術に関するっちうことは小中学校のレヴェルを超えるし,製造・流通のごときは社会科の範疇やけど,それとの連関が成立するトコから転移するもんなんやし,また,それらを通じて,もんを大切にする心,ものつくりや勤労を尊ぶ精神もおのずから涵養されるちうわけや。 「交通安全教育」は移動・交通ニーズに即して地域で児童・生徒の移動・交通ニーズ,そのために必要な交通安全認識が何であるか,そのために必要なもんは何か,もっともよう心得とるんは警察やのうて教師や保護者なんや。また,児童登校時に横断歩道に立つ「みどりのおばさん」のように地方自治体もそれを担ってきており,今後もその存続が求められとることを忘れてはならへん。 また,移動・交通手段の安全性と利便性は,個々人の「交通権」だけやのうて,地域コミュニティーのクオリティーの重要なファクターなんや。自動車偏重ともいうべき今日の日本の交通情況を鑑みるんやったらば,その他の移動・交通手段の選択肢を広げること,公共交通機関の確保が重要課題となっとる。それらの活用と安全性の確保を図る中で,「交通安全教育」の内実と方向性が規定されるもんやないとあかん。それを決めるんは警察やのうて,地域コミュニティーの構成員としての主体的市民にほかなりまへん。 「歩行者vs.自転車vs.自動車」の対立図式にはめられはるな!道路交通問題を論じるにあたちう,もっとも大きな陥穽のひとつは「歩行者vs.自転車vs.自動車」の対立図式にはめられはることや。こら市民間の対立感情を煽り,分断を謀るとともに,問題の本質から目をそらすゆう,権力者の常套手段であることを忘れてはならへん。 自転車利用者の地位向上のみやったらへんし,「ずぅぇえええぇぇええんぶの都市住民と環境に優しい街を」実現させるためには,既存のクルマ社会−−自動車偏重・自動車中心の交通体系−−は変革されねばならへんが,一面的・一方的・感情的な自動車利用抑制を求めてはならへん。 たとえばやなあ,道路の「再配分」についての議論から見てみまひょ。こないな議論はようけの場合,既存の走行区間における通行区分にのみ着目・収斂させるもんが多いちうわけや。これこそ陥穽の最たるもんや。もうちびっと考えればどなたはんにでも解ることやけど,走行空間とともに,乗降・搬出入・緊急避難やらのための駐停車および,その他移動・交通以外の機能も万全にした上での道路の「再配分」のあり方を追求せなあきまへん。 パーキングメーター設置箇所や路上駐車されとる部分(駐車違反摘発の民間委託により“減少”したとされる)を自転車走行帯にせよといった,とってつけたような浅薄な機会利用論のごとき主張は,ホンマに慎むべきもんや。あわせて,市民生活において道路が果たすべき役割をヨリ広範な観点から見直すことが求められとる。 それにあたっては,既存の道路・施設といったインフラを最大限有効活用するっちうことを第一とし,新設・拡幅は極力避け,どないしたかて必要思われるもんを吟味して最小限にとどめる必要があるんや。土木工事が環境破壊と利権の創出をもたらすさかいや。自転車利用環境の整備を土木利権拡大の機会にしたらあかん。 また,他の交通機関・手段との連携・併用の利便性高めることは,単にこないな陥穽を脱するんみやったらへんし,市民の多様な交通移動ニーズにこたえる道なんや。 道路路用のあり方についての建設的議論は,公共空間としての道路本来の機能発揮を通じた,広範で多様な市民生活向上の一環やないとあかん。 「自転車の安全利用に関する対策の方向性」この「提言」中,そのデタラメ性をもっとも端的に示してん「自転車の安全利用に関する対策の方向性」なる部分を紹介して,小括としておきまひょ。 自転車は、今や国民の身近な交通手段として定着し、多様な利用者層に多様な用途・目的で利用されており、環境負荷の少ない交通手段等として今後一層の利用の促進が求められている。一方で、自転車の保有台数の増加と利用の進展に比して、自転車道等の自転車専用の通行空間の整備が十分に進まない中、自転車が当事者となる事故が年々増加傾向にあるとともに、自転車の歩道通行が一般化し、自転車利用者のルール・マナーの悪さが厳しく指摘されるという事態も生じている。 自らの浅薄な現状認識を,一見もっともらしい(?)文言で粉飾しつつも,その虚飾ぶりと無内容さは覆うべくもあらへん。その対応との関連では,いっそう矛盾と自らの無能ぶりをさらけ出すことになるちうわけや。自転車及び利用者を対策の対象へと位置づけるばっかしで,自転車を交通交通手段として認識し位置づけでけへんことを自己暴露し,そのツケを自転車利用者の責に帰す一方で,それを上からの大衆操作と組織化を通じた体制強化と利権増大の機会に利用するゆうホンネを垣間見させてくれることに,注意をもってしたら,容易に解読できるもんや。 このことは,この「提言」を通したコンテクストの中で読み取れるけど,とりわけこのあとに続く部分との対比においても鮮明になるちうわけや。 そこで、対策の方向性としては、 自転車及び利用者にたいする罵詈雑言のトーンがあがるだけやのうて,対策の対象としての自転車及び利用者にたいするフレームアップや包囲網の構成についてのホンネが,よりいっそうハッキリしてきよるちうわけや。一方で虚飾に込められよったホンネについてもハッキリしてくるちうわけや。たとえばやなあ「自転車利用者の意見を反映すること」といった部分だけ読めばなんやらもっともらしくも見えるけど,そのあとの「配意」ちう文言は,「反映するっちうこと」についての義務的拘束力を意味するもんでも,努力規定を意味するもんでもあらへんからや。 そもそも「推進」したろとおもう「対策」の対象の「意見を反映する」こと自体が自己矛盾なんや。対策の対象と位置づけることを止めることが「地域住民や自転車利用者の意見を反映する」前提や。 道路交通法改悪策動を許すなこの間の道路交通法改正[試]案に関する動きを整理しておきまひょ。 2006年11月30日,警察庁の「自転車対策検討懇談会」が「自転車の安全利用の促進に関する提言」をまとめよった。これをもひとつのもとにした「道路交通法改正試案」について警察庁は,2006年12月29日〜2007年1月28日の1ヶ月間「パブリックコメント」をつのりよった。 これを受けて2月15日,世論の理解を得ることが困難と判断しよったんか,「試案」で前面に押し出されとった,酒類・車両提供者にたいする厳罰化と同乗者への罰則の新設について,引き上げる最高刑はそのまんまにしたうえで,恣意的裁量・判断の余地が大きい「同乗罪」やらを一部ゴマカシ的に限定させるやらの変更を行ったことが報じられよったけど,自転車の歩道通行に関しては「誤解によるもの」やらとして,まともに取り上げることなくしりぞけるゆう欺瞞的・詐術的対応をとったちうわけや。 3月2日,閣議決定され,「試案」は,警察庁の思惑をほぼ貫徹させた形で「道路交通法改正案」となり,2007年の通常国会に提出されたちうわけや。 この「道路交通法改正案」は,同じ通常国会において,国家への無批判的忠誠心を植え付けるべく改悪が策された教育基本法はもとより,軍事大国化=戦争ができる国(これが安倍晋三のいう「美しい国」だ!)造りのために改憲を目指しての国民投票法が,だまし討ち的に制定されようとしてんことから,その陰に隠れてしもた感があるけど,権力者的意図としては,これらが一体のもんであることを,わてらはハッキリと確認しておく必要があるといわなあきまへん。 他にもある「道路交通法改正試案」の問題・欠陥以上のように,「自転車対策検討懇談会」の「提言」のデタラメ性および,それをもとにした「道路交通法改正試案」の「自転車利用者対策の推進」の問題・欠陥は明らかや。やけど「道路交通法改正試案」自体の問題・欠陥がこないな部分だけにあるんとちゃうんや。またあわせて,警察庁による道路交通法改悪策動そのもんの持つ意味を見落としたらあかん。 この間の政府による交通政策のおーまかなトコとしては,2006年3月14日,内閣府中央交通安全対策会議により決定された第8次交通安全基本計画)および,これを具体化するために警察庁が策定した「交通安全対策推進プログラム」があるんや。この策定にあたっては,ヒューマンアヤマチとしての事故予防・被害軽減(JR西日本福知山線脱線事故やら大きな鉄道事故が相次いだことによる),被害者救済やらについての議論がなされてきたが,こないなもんは「道路交通法改正試案」には反映されとらへん。また一部「自転車対策検討懇談会」と重複する委員のもと,対歩行者事故の増加ちう認識から,一方的・感情的に悪者・邪魔者扱いした自転車[利用者]対策も含まれとって,「道路交通法改正試案」にも反映されとるけど,車道からの自転車締め出しを策すごときばかげた内容までは盛り込まれておらへん。 この「道路交通法改正試案」における数々の問題・欠陥のうち最大級のもんが「自転車利用者対策の推進」にあることは,自転車及び利用者の立場に立つか否かにかかわらず,もはや明らかやろう。やけど他の箇所についても,さまざまな問題・欠陥がみられよる。また施策が必要な課題であっても,厳罰化や禁止・抑制によって行うのやなくて,他の方法によって行うべきもんも少なない。その中のいくつかについて簡単に言及しておきまひょ。 キャンペーンの背後にある政治性を見抜いて,冷静な議論をまず「飲酒運転に対する罰則の強化」については,本題に入る前に,この数ヶ月ごっつい間,冷静な議論がなされる情況にあったかどうかを確認ときまひょ。2006年夏の福岡県・海の中道における事故を最大限利用する形で,キャンペーンが繰り広げられよった。加害者が地方公務員やったことから,公務員一般への反感を煽り立て,公務員削減を含めた行財政改革強行の正当化だけでなく,何よりも,秋に成立した,A級戦犯・岸信介直系の孫である安倍晋三極右翼反動政権のきな臭さから国民の耳目を逸らし隠蔽すべく,政治的にも利用されたことを,想起せなあかん。 小泉内閣のもとで強行された「国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)」をはじめとする有事法制に続いて,教育基本法改悪,防衛省設置やら,この間なされたトコから,さらにはだまし討ち的強行が策されとる「共謀罪」制定策動やらからも,その一端が示されとるトコの安倍反動路線においては,強権化・軍事大国化とあわせて,それを支えるべく,上からの組織化とそれに盲目的に従順となる国民づくりが策されるちうわけや。この道路交通法改悪策動も,こないな政治路線の一環であるといわなあかん。 厳罰化やのうて被害者救済を交通違反に限らんと,およそ犯罪一般において,厳罰化が一定の抑止力になる場合もあるやろけど,それには限界があるんや。逆に潜在化・陰湿化を促すこともある上,なくすことはでけへん。求められるんは予防と,何より忘れてはならへんのが,発生してしもた後の被害者救済や。こないな視点を欠いた議論が,一方的で浅薄なもんやちうことを自覚しまひょ。 刑罰の重さや種類についても,他の犯罪とのかねあいでバランスを取ることも必要や。刑罰が社会秩序維持の方法の1つである以上,当然のことや。特定のもんを突出して重したり軽したりするっちうことは,取んなあかんバランスを欠くことになるちうわけや。飲酒運転については,現行の道交法においても,刑法犯と比較して重すぎるほどなんや。これ以上の厳罰化はさらなる突出でしかあらへんし,不要であり理由がおまへん。同じく,被害者・物損が発生せぇへんかった事案や未遂事案について,被害者が発生した事案や既遂事案と同等の刑罰を科すことも同じく不要やし,理由があらへん。しかもこないな厳罰化は,事故予防・被害軽減やらの施策をなおざりにし,そのツケを当事者に転嫁するもんであるといわねばならへん。さらに警察官の主観的・恣意的判断が入る余地が大きなることについても,問題視せなならへん。 また交通事故・交通違反で重視されなならへんのは,被害者救済なんや。保険金の給付でまかなわれる部分には限りがあるんや。また,加害者の資力の差が被害者救済の差を生み出すことは免れへん。加害者に科す刑罰が重なるとその分被害者救済の資力を減少させるちうわけや。懲役刑になったら収入は失われるし,執行猶予になっても職業上の制約が生じるさかい,やっぱり資力が減少するちうわけや。罰金刑(科料等も含む)においてはもっとその関係がハッキリするちうわけや。しかも加害者が納めた罰金が被害者救済のために使われることは一切ないんや。 この問題の根本的解決には,被害者にたいする公的救済制度を整備するっちうことが必要や。もっともそうなったら広く犯罪被害者にたいする救済制度を拡充させ,交通事故被害者を犯罪被害者とあわせて救済してゆくことが求められまひょ。 抑制やのうて代替手段の拡充を「高齢運転者対策等の推進」については「運転に必要な記憶力、判断力等の認知機能に関する検査を行うこととし、その結果に基づいた高齢者講習を行うことによって、高齢運転者の安全運転継続を支援」するとしてん。同じ「対策」をうたっててもこっちは,一応文言の上で「支援」をうたっとる点で,シカト・抹殺的姿勢を取る「自転車」と違いがあるんや。そやかてその本質が抑制にあることは明らかや。 高齢運転者の「認知機能」の低下といずれ自動車の運転が不可能になることは,個人差が大きいもんの,不可避であるといわねばならへん。そやかて,自立して生活を営み,自由意志に基づいて移動する権利主体である以上,資格剥奪には慎重やないとあかん。ほんでまず望まれるんは,公共交通機関やらの代替手段の整備・拡充と利用促進によって,移動手段の転移を促すことや。 もちろんその中には,自転車も代替交通手段の1つとして位置づけられなあかん。「認知機能」の低下防止・抑制にはもちろん,その向上・回復を,体力や平衡感覚やらの運動能力やらとともに期待できるちうわけや。 基本的人権の一環として理解されなあかん「交通権」の確保ちう観点からは,代替交通手段の整備・拡充を先立って行うことが必要や。こら,国土交通省・経済産業省・厚生労働省やらの他省庁・地方自治体・民間が行うべきもんであって,警察庁が行うこととちゃうんや。 市民主体の政策実現へこないな省庁間,中央と地方,官民の役割分担や協働については,そのあり方を主体的市民のイニシアティヴのもとで構築し推進してゆくもんやないとあかん。こら市民が主体性を発揮するっちうことはもちろん,特定の省庁・自治体やらの機関に権限が集中して利権が増大化するっちうことやその暴走を防止し,さらには権力機構の動向を監視し,check and balanceを健全に機能させる上で,不可欠や。 「パブリックコメント」に民意は反映されるか?警察庁は,年末年始を含めた約1ヶ月,今回の「道路交通法改正試案」について「パブリックコメント」を募りよった。警察庁ではこれまでも何度か,いくつかの施策について「パブリックコメント」を募りよったことがあるけど,それらはいずれも,対象となる法改正や新たな施策に関して,それ自体を容認・支持しつつ,その上で,もしくはその枠内で,若干の修正や追加を期待するゆうもんやった。 そやから,法改正や新たな施策自体に反対したり,総体として批判的やったり疑問視するような意見については,いわば想定外ちうことや。 また,寄せられよった「パブリックコメント」の内容を法案や施策に反映する上での義務や拘束力はあらへん。内容を恣意的に解釈する余地もあるんや。いかいなるコメントがどんだけ寄せられよったかについても,公正に公開される保証もあらへん。昨秋暴露された「タウンミーティング」におけるヤラセ問題のごときがなされとる可能性や余地もあるんや。 この間,自転車車道締め出しに反対するなかで「パブリックコメント」提出を呼びかける動きもあったが,個人として,今回の道路交通法改正自体を認めつつ,特定の部分の修正を求める限りにおいては,ひとつの方法やろう。やけど大幅な変更や削除をともなうもん,また法改正自体に批判的もしくは反対であるもんについては,こないな手段選択がマイナスに作用するちうわけや。 ともあれ「パブリックコメント」が,それを募る側の土俵であることを忘れたらあかん。原則論からいうたら,そないな相手の土俵に乗ってまうことは,主権者としての国民,主体的存在としての市民としての立場を貫くことにおいては,本質的にプラスになるもんとちゃうんや。またこないなもんを,その内実の如何に関わらへんし,組織・機関名で出すことについては疑問や。「パブリックコメント」とは別に意見書なり声明やらを出すべきではおまへんやろか。 主権者としての国民,主体的存在としての市民であるとの自覚を,常に想起しうち鍛えまひょ。 「交通」・「治安」を口実とした警察国家・監視社会にNo!を今回の警察庁による道路交通法改悪策動において,とりわけ「自転車利用者対策の推進」に重大な問題・欠陥がみられよること,その強行を阻止せなならへんことは繰り返すまでもあらへんやろ。やけどそれを他と切り離して単独でとらえ扱うことは適切やあらへん。「道路交通法改正試案」の他の箇所におけ問題・欠陥もさることながら,今般の社会・政治情勢の中でこれをとらえ返すことが必要や。 「共謀罪」を凌駕する兇暴性こないな厳罰化と適用範囲の拡大については,「共謀罪」との関係においてもシカトでけへんもんがあるんや。 厳罰化を進めれば,道交法においても「共謀罪」適用対象が増大するちうわけや。こないなもんは「共謀罪」のタテマエ的な趣旨からしたら必要とされへんもんのはずや。「共謀罪」に批判的な声に押されて,その適用範囲を限定(当初の政府案では「4年以上の懲役・禁錮」に当たる619の犯罪を一律に対象としとったもんを,「テロ」「薬物」やら5類型の約120〜150に絞り込むとしたが,「児童買春」や「有価証券偽造」やらも含むやら,依然「テロ等謀議罪」の範疇を超えるもんがようけ含まれとる)するようになりよったが,警察権力濫用の危険性がなくなりよったわけとちゃうんや。一例を挙げると,飲酒・酒気帯び運転にこないな「同乗罪」・「幇助罪」のごときからだけでも,警察官及び警察わいによる恣意的判断の余地と適用対象が大きくなっとることが判るやろ。しかもそれらは「共謀罪」を適用せえへんかて,それと同様の,せやなかったらそれをもしのぐ危険性をもたらしうるもんや。 もちろんこないなもんは歩行者・自転車利用者やらにもふりかかるちうわけや。道路交通法は,公道上の交通の安全と円滑化のためだけに機能させられよるもんやあらへんことを忘れたらあかん。文字通りの目的・趣旨だけのために適用・運用されるもんやないことは,他の法令でも同様やけど,こないな恣意的拡大適用は,警察官及び警察わいの利権増大化のためになされるだけやのうて,市民の自由意志に基づく自発的なさまざまな活動を弾圧する口実・手段として用いられよる常套手段や。ほんでその手段として使われる法律は,治安維持法の再来=破防法だけとちゃうんや。一切の法律,とりわけ規定内容が曖昧漠然としてて恣意的解釈の余地が大きいもんがそれに使われるもんやちうことを忘れたらあかん。 条文上に明記された適用拡大だけやのうて,恣意的裁量の余地を拡大し,もしくはあらたに作り出すことで,権力者にヨリ強大な兇器を与えることになるちうわけや。こないな厳罰化と適用範囲拡大は,まさに形を変えた「共謀罪」として,良心的主体的市民に振り下ろされる匕首となる危険性を孕んやもんやちうことを,ハッキリと読み取り,これを弾劾せなあかん。 道路交通法の厳罰化や罰則適用範囲の拡大は,交通の安全円滑に寄与せんだけでなく,こないな権力者的濫用の手段たらしめるもんであることをハッキリと見抜き,それにたいする阻止と弾劾のうねりを作り出すことが,主体的市民の緊急かつ重大な責務なんや。 今こそ主体的市民の責務を全うしよう監視社会化・警察国家化の動きが陸続と強行・強化されとる現下の情勢にあって,それらの中には,軽微な犯罪から「テロ攻撃」に至るまで,「治安」を口実としたもんが目立つ。やけど「交通」も口実として,ふるくから利用されてきたもんであることを忘れてはならへん。今回の警察庁の動きは,「交通」を口実とした人民大衆の上からの組織化と相互監視の強化を,自らのセクショナリズムの貫徹を通して,画策するもんなんや。まさに警察国家・監視社会の強化をもたらすもんにほかなりまへん。 かくのごとくとらえ返すことによって,自転車を対策の対象へと落とし込めることに,その矛盾がもっとも集約されとることが解るちうわけや。こら自転車及び利用者にとって不幸なことであるが,同時に,もっとも矛盾が集約されたトコから情況を変革するっちうことの意義は極めて大きく,主体的市民としての責務もまた重かつ大なんや。 自転車及び利用者がおかれとる否定的情況は,他の交通移動主体及び手段選択との間において矛盾・対立させられとるちう構図の中に落とし込められとることにも,一局面となって現れとる。このことを自覚せな,そらすなわち自他を陥穽へと導くもんであるといわねばならへん。 またこの自覚は,単に交通移動主体・手段選択間におけるもんにとどまらへんし,多様性を内包した主体的市民の一翼を担う存在としての自覚としたらなあかん。情況の変革は,変革すべき対象への働きかけとともに,変革の主体の成長をも同時に勝ち取ってゆくもんなんや。 警察庁による自転車“対策”を弾劾し,道路交通法改悪を阻止するとともに,これを「交通」・「治安」を口実とした一切の警察国家・監視社会の動きに,「No!」を突きつけてゆく過程として取り組んでゆくもんやないとあかん。 これが主体的市民としての責務や。 (2007.5.15) 参考警察庁による自転車“対策”・道路交通法改悪策動関連資料 TV番組「ご近所の底力」でちょっとおかしなこと言うてたで
/B> HARA Hideki's Blog |