警察庁による自転車“対策”を弾劾する

車道からの自転車締め出し策動を許すな
警察国家への道〜道路交通法改悪策動を許すな

警察庁が,「自転車対策検討懇談会」の「提言」を受けて,2007年の通常国会に提出する道路交通法改正法案において,自転車の歩道通行をヨリ広範に追認するとともに,車道からの事実上の締め出しをも画策していることが,2006年11月30日の報道で明らかにされた。

まさにこれは,広範かつ多様に利用されている自転車及び主体的市民の一翼をなす自転車利用者の役割・立場,さらにはその尊厳や存在を,もっぱら“対策”の対象と位置づけ,ことごとく無視・抹殺するものであることは言うに及ばず,自転車及び利用者をして,歩行者やその他のいわゆる交通弱者にたいして[可能的]加害者たらしめることを強要するものだと言わねばならない。さらには自動車利用者など,その他の交通手段を利用する一切の市民にとっても有害無益なものだ。

かかる内実をともなった道路交通法の改悪を阻止するとともに,この間行われてきた警察庁による自転車“対策”のデタラメ性を明らかにし,弾劾するものである。


全歩連キックオフミーティング (左,2006.12.22),シンポジウム「道路は誰のためにあるのか」 (右,2007.1.20)

自転車活用推進研究会では「歩行者を危険にさらす自転車歩道通行義務化に反対します。」を発表したのに続き,東京・日比谷で「安心して歩ける歩道/安全な自転車道/渋滞の無い車道を実現する全国連絡会」(略称 全国歩道連絡会/全歩連)キックオフミーティングを行った。(「キックオフミーティング」(HARA Hideki's Blog)参照)
第二東京弁護士会公害対策・環境保全委員会が主催するシンポジウム「道路は誰のためにあるのか〜歩行者や自転車にやさしい道路のために〜道路交通法改正問題を考える」が,霞ヶ関の弁護士会館で行われた。(「シンポジウム「道路は誰のためにあるのか」(HARA Hideki's Blog)参照)

「自転車対策検討懇談会」の性格と実態

「自転車対策検討懇談会」は,警察庁「交通局長の私的懇談会」として2006年4月に設置され,「会議は5回程度開催し、今秋を目途に提言を交通局長に提出する」という計画のもと,6回の会合を経て,11月30日付で「自転車の安全利用の促進に関する提言」をまとめた。

「検討」の趣旨と立場

2006年4月に出された文書では「懇談会の目的」を

自転車は、現在の我が国において、日常生活の交通手段やスポーツ・レジャーの対象等として幅広く利用され、我が国交通社会における主要な交通主体の一つとなっている反面、自転車が当事者となる交通事故の増加や自転車利用者のルール・マナー違反に対する社会的批判の高まりなど、自転車の道路交通に係る課題は多岐に渡っている。
これらの課題について具体的な解決策を検討するため、部外有識者からなる検討懇談会を開催し、幅広く意見を求める

ものとし,「検討する事項」として

(1)自転車の通行スペースの確保と通行方法に関する検討
(2)歩行者の安全確保方策(自転車運転者のマナー向上等を含む。)に関する検討
(3)その他自転車の諸問題に関する検討

を挙げている。そのホンネはともかく,ただ文字通りのものであれば,警察庁一幹部の私的懇談会によって,わずか数回の会議で結論が出るようなものでないことだけは確かだ。

「懇談会」構成員の実態

あわせて公表されている「自転車対策検討懇談会」構成員の顔ぶれを見てみよう。公表されている委員名簿に見えるのは以下の人物だ。

岸田孝弥(座長,高崎経済大学大学院経済・経営研究科教授,専門:産業・組織心理学・労務管理)
久保田尚(副座長,埼玉大学大学院理工学研究科教授,専門:都市交通計画)
小幡純子(上智大学法科大学院教授,専門:行政法)
古倉宗治((財)土地総合研究所理事)
渋谷良二((財)日本自転車普及協会事業第1部長)
内藤泰樹(東京都青少年・治安対策本部参事(交通安全対策担当))
吉岡耀子((株)JAF MATE社出版部長)

これに,警察庁出席者として,交通局長・長官官房審議官(交通局担当)・交通局交通企画課長・同交通指導課長・交通規制課長,オブザーバーとして,内閣府(政策統括官(共生社会政策担当)付参事官(交通安全対策担当))・文部科学省(スポーツ・青少年局学校健康教育課)・国土交通省(道路局地方道・環境課)が加わったとされる。

一瞥して自転車及び利用者にたいする包囲網といえるものであることが見て取れる代物だ。

座長の岸田孝弥が,これまでにもテレビ番組で自転車及び利用者に敵対的・侮蔑的な言辞を煽情的口調で弄していたことは,既にこのサイトでも述べた通りだ(「TV番組「ご近所の底力」批判」参照)。自転車利用はもとより交通工学などといったものを専門とするものでない,かかる人物が座長となったのは,こうした自転車敵視・蔑視の姿勢が警察官僚に気に入られてのことだろうか。また自転車ではなく,自動車利用者向け雑誌・書籍出版者が加えられているに至っては,従来のいわゆるクルマ社会−自動車中心・優位の交通秩序体系を盲目的に肯定するという,自転車にたいする対策や包囲の立場や性格を如実に物語っていると言わねばならない。

諮問機関の位置づけ

警察庁が内部に非公式に設置している諮問機関の類は,「懇談会」・「研究会」など名称は異なるものの,このほかにも数多くある。その一つ「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」を見てみよう。これはすでに報道されているところでは,

 警察庁は「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」を設置し、子どもを取り巻く性・暴力に関する情報の氾濫や、ゲームやインターネットにのめり込むことの弊害について議論を開始した。
 この研究会は、生活安全研究会の分科会として設置。弁護士や学者、精神科医、ジャーナリスト、PTA関係者らで構成され、首都大学東京都市教養学部長の前田雅英氏が座長を務める。検討項目は、1)子どもを性の対象とするアニメ等について、2)インターネット上に氾濫する性・暴力情報について、 3)子どものインターネット、ゲーム依存症について──などで、問題点を整理するとともに、その改善策を探るという。
 研究会ではすでに4月10日に第1回会合を開催しており、その配布資料や議事要旨が5月1日に同庁のWebサイトで公開された。配付資料には「児童買春・児童ポルノ事件の検挙状況の推移」「いわゆる出会い系サイトに関連した事件の検挙状況」などが含まれる。

とされる。15人の委員の顔ぶれをみると,治安・少年犯罪担当警察官僚をはじめとし,御用学者らをかき集め,これに若干の著名人をお飾り的に加えたものであるといえる。警察内部及び他省庁の官僚も加えられているが,その人選においても,かかる問題にたいする警察庁及び担当部署の優位性を維持・増長させるべく,セクショナリズムと利権追求の貫徹をはかったものであることが判る。

「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」の場合,委員の数や会合の回数,資料の分量など,量的側面では「自転車対策検討懇談会」に比べると多いものの,彼らが議論を重ねてなにがしらの結論をまとめ上げるためには極めて不十分なものであることには違いない。委員らの議論からまとめられたものができあがる前に,あまっさえできあがることを阻みつつ,あらかじめ警察官僚がお膳立てをし,そのシナリオに乗せられた委員の名前を利用して,虚構としての外部性を粉飾した「提言」を出すものだ。

これらはいずれも,かかる諮問機関に共通した特徴であるといって過言ではない。だが各々の対策の対象にたいする位置づけや認識には違いがある。かつて少年犯罪・非行の対策としては,その原因となったり誘発したりするとされるものを,絶対悪同然の扱いで,子どもから切り離し,それを大義名分にして大衆動員や上からの組織化に利用することが多かった。成人向け図書を「有害図書」として追放キャンペーンを繰り広げたり,バイクにたいして行った「三ない運動」なるものがその例だ。

これと同様の扱いをするのであれば「バーチャル社会」やインターネットそのものを子どもから切り離すべき絶対悪と決めかねないことになるのだろうが,さすがにそこまでばかげたことはしていないことは,資料からうかがえる。もっとも「性・暴力情報」・「インターネット、ゲーム依存症」の内実はいささか主観的で恣意的解釈の余地が大きい(その政治的意味を見落としてはならない)が。

ともあれ,かかる諮問機関の類に共通する特徴や問題点とともに,それらの中で「自転車対策検討懇談会」が,粗雑さとデタラメ性において突出していることを,概観できるだろう。

「自転車対策検討懇談会」の「提言」のデタラメ性

自転車対策検討懇談会は2006(平成18)年4月12日から11月14日の間にわずか6回の会合を開いただけで「自転車の安全利用の促進に関する提言」をまとめた。警察庁他の省庁関係者をのぞけば7名の委員だけで,かかる問題に対して適切な「提言」が出るはずがない。もちろんそれに先だって警察官僚のお膳立てがなされていて,そのシナリオにそって踊らされただけであるといえるが,内容の粗雑さと自転車敵視姿勢のエスカレートぶりは,覆い隠すべくもない。「提言」の「おわりに」で;

各委員の自転車に対する見方や立場も様々であったが、基本的に自由に意見を述べ合って討論し、提言に関しては意見の集約を図っていったものである。特に自転車の通行空間の考え方については、委員の間でかなり見解が分かれる面もあり、改めて自転車の多様性・多面性とそれゆえの取扱いの難しさが実感された。
 本提言については、結果としては現実的な交通管理という観点に力点が置かれた面もあるかもしれないが、これまで、自転車に係る交通管理について本格的に議論されることが多くはなかったことからすれば、当懇談会において、自転車を交通主体の一つとして真正面から取り上げ、諸問題への対策を取りまとめた意義は少なくないと考えられる。(p.26)

などと述べているが,ここに本懇談会と「提言」がいかに欺瞞と矛盾に満ちたものであるかが,端的に示されているといえよう。

「自由に意見を述べ合って討論」などと文字通りに受け止めることができないことは言うまでもない。また委員や官僚の中に現状のクルマ社会はもとより警察権力や警察官僚の利権増大化に積極的な者もいれば,相対的にではあるが,これに消極的・批判的な者もいたであろうし,その利害対立もあったであろうことは,その行間から推察できる。それは,自転車支持派と反/非自転車派というような,自転車を軸とした単純図式ではなく,自転車[利用者]対策を通じた強権化と利権の増大化と集中をめぐる中での角逐にあったことを看破するものでなければならない。

自由な討論の中でかかる対立があれば,両論併記的な答申が出されたり,あるいは「提言」自体が出ないこともありうる。しかしながらかかる「提言」が出たことは,当初からのシナリオの枠内に押しとどめ,警察権力と警察官僚の利害貫徹がはかられたことを意味する。また「提言」内容における矛盾や齟齬は,利害対立をめぐって妥協が成立したものではなく,利権・権力をめぐる強硬な,場合によっては狂信的な動きがあったことをうかがわせるものである。

そのようなものであるが故に,大義名分となっている交通政策の観点からは,従来の警察当局をはじめとする政府の一連のそれ(詳細後述)の域を出て前進させるものではなく,むしろ退化させるものであるといわねばならない。

“対策”の対象でしかない自転車

そもそも前提として自転車及び利用者をどう位置づけているのか。

「提言」では「自転車を交通主体の一つとして真正面から取り上げ」たなどほざいているが,もしそのようなものであればとうていこのような「提言」が出ることなどあり得ないことは言うまでもない。その本質は,これに続く部分「諸問題への対策を取りまとめた意義は少なくない」が示すとおり,無条件の前提として,自転車及び利用者を“対策”の対象と位置づけ,それをエスカレートさせ,強権化をはかるなかで利権追求を貫徹しようとするものにつきる。

かかる位置づけからなされた「提言」からまともな施策が生み出されることはない。

自転車利用の現状にたいする認識の錯誤

「提言」で繰り返し言及されているところの,自転車の数の増加,広範かつ多様な利用者層および利用形態といった現下の自転車利用情況それ自体について「自由気ままな走行」などとこれまた繰り返し罵倒している。しかのみならず,

自転車は、化石エネルギーを消費せず、交通渋滞といった問題を引き起こさない環境負荷の少ない交通手段として、地球温暖化対策の観点から、国民の間でその利用を促進することが京都議定書目標達成計画(平成17年4月28日閣議決定)等の中で位置付けられている(p.3)

といったような,今日的趨勢の中で,新たに認識せざるを得なくなった自転車利用の意義や利用推進をいっそう進める理由付けをも,それを特性として活かすための施策が一切みられないのはもちろんのこと,あからさまに反駁・否定・挑戦するような文言こそ抑えられているものの,やはりその本質において,権力者然とした高みから,抗うべき“対策”の対象とみなしているのである。

以下,「提言」が言及するところの,“対策”の対象としての,現下の日本における自転車利用をめぐる情況認識が,いかに恣意的解釈と錯誤に満ちたものであるかを,いくつかの例をもとに示しておこう。

「自転車関連事故」の増加

「提言」では「自転車の関連する交通事故の状況」として「自転車保有台数の増加と国民の自転車利用の進展に伴い、自転車の関連する交通事故は、年々増加している」(p.7)としている。ここでいう「事故」とは事故として警察に届け出されたもので,実際の「事故」の増減やその内実とは別のものだ。また「自転車利用の進展」とあわせて考えれば,直ちに事故割合が高くなった交通手段であるとの結論を導き出すことも誤りだ。

当事者をして「事故」として警察に届け出る必然性を認識せしめる対象の増加や,市民間の自転車にたいする見方のひとつの反映であることには違いない。かかる情況と認識の内実及びその変遷について検証してゆく必要があろう。それなくして「自転車関連事故」を論じることは許されない。

「提言」から自転車関連事故に関する記述をいくつか拾い上げてみよう。

我が国の自転車乗用中死者の割合は、欧米諸国のそれに比べてかなり高いといえる。(p.4)…��

この10年で自転車関連事故は、1.3倍に増加しているが、このうち、自転車対自動車の事故は122,470件から152,287件と約1.2倍の増加であり、自転車対歩行者の事故は563件から2,576件と約4.6倍に急増している。(p.4)…��

自転車関連事故の73.8%は交差点で発生しており、中でも、自転車と自動車の出合い頭事故、右左折時の事故が多くなっている。(p.5)…��

�,砲弔い討蓮い海譴紡海い董崗�態別30日以内死者数の割合の欧米諸国との比較」という表があり,ここでは日本の歩行中が30.8%,自転車乗用中13.9%とされ,これは各々比較されている欧米諸国の2〜4倍ということになる。また自転車普及・利用情況の違いを斟酌すれば,日本の歩行者及び自転車が極めて高い危険にさらされていることとなる。これを各々の交通移動主体,交通法規及びインフラといった個別の要素の責に帰したり対策を講じることで解決できない問題であることを示している。

�△砲弔い討蓮じ充造痢峪�故」件数ではなく警察へ事故として届け出て処理されたものの数であることは既に述べたが,それが「自転車対歩行者の事故」の「急増」なるものの実態であるのみならず,これを自転車及び利用者へのバッシングに利用する一方,「563件から2,576件」となったそれを圧倒的に凌駕する「22,470件から152,287件」となった「自転車対自動車の事故」については,有効な施策を提示することなく没却しているのである。同時にこれは最大にして無視できないはずの[可能的]事故当事者たる自動車を免罪し,そのツケを自転車及び利用者,さらには歩行者に回すものでもあると言わねばならない。

年齢別事故割合の意味するもの(1);元気な高齢者の増加

「提言」では「年齢別自転車関連事故」なるグラフ(p.10)を挙げている。

高齢者の事故割合が多いのは,高齢化社会をむかえて人口比が多くなったことと,いわゆる元気なお年寄りが増え,自転車利用を通じた積極的な外出が進んでいることの反映であろう。一方で従来のようないわゆる交通弱者もおり,高齢者の交通移動実態自体の多様化と格差拡大が進んでいることの一側面を示すものと理解すべきものだ。「自転車関連事故」に限らず,画一的な規制や保護のもとで高齢者の移動交通に関する問題を論じることが,何らの解決や前進をもたらすものでないことを,ここから学ぶべきだ。

自由意志に基づいた移動は自己実現の一環である。その尊重を第一に据えた政策は,福祉に限らず交通政策においても求められる。

年齢別事故割合の意味するもの(2);少子化と少年非行・犯罪の変化

また,ティーンエイジャーに関しても,多分に入り込んでいるバイアスを無視できない。

もっとも高齢化社会の一方で少子化が進んで既に久しく,ついに本2007年は大学入学定員と志願者がほぼ同じになるという大学全入時代をむかえるまでになった。そうした背景を考え合わせてこの「提言」を額面通りに受け止めれば,13〜19歳の「年齢別事故割合」は,実際の人口比以上に高いのはもちろん,「事故」を起こしたり「事故」に遭ったりする割合が突出して高い世代ということになる。もっとも中学生から高校生・大学生・社会人までをも含むこの年代をひとくくりにしてなにがしらの結論を導き出そうというのは無理があろう。問題分析においてももう少し区切ってみるべきところも多い。

一例を挙げると,少子化にともなって小中高校とも学校統廃合が進んだため通学距離が伸びているのは,全国的な傾向だ。それだけでも交通事故に遭遇する可能性が高くなることは言うまでもない。もちろん自転車通学の必要性も高まり,自転車通学をする個々の生徒の距離・時間も増大することになる。こうした背景をふまえれば,交通「事故」の責任を直ちに生徒自身に帰することが無理なことが解るだろう。

もちろんティーンエイジャー自身の問題もある。携帯電話を利用しながら,音楽を聴きながらの自転車利用のごときがその一例だが,これは前述のように増大した通学などの移動時間をコミュニケーションや消費に充てる行為といえる。こうしたことは,成人や歩行者でも多いが,これは交通問題に限定されるものではなく,情報化社会におけるモバイル情報機器利用一般の問題に帰せられるべきものだ。

さらに少年非行の変化という観点からみれば,暴走族などの組織的で大規模な行為が衰退した代わりに小規模分散化する傾向にある上,いじめなどのように内面化,陰湿化が進んでいるものもある。かつてであれば非行・犯罪として噴出したストレス・フラストレーションの発散が,ごく一部の兇悪事件とおおくの微罪レヴェルの行為に分化している。自転車の乱暴運転の類も動機・背景としてはこれに含まれるものが少なくない。すなわちかかるものは,交通問題ではなく,少年犯罪・非行防止の観点から予防・対策すべきものである。

もちろんこうしたものが,大多数のティーンエイジャーに当てはまるものではなく,一部であることは言うまでもない。しかしながら,ティーンエイジャーの交通移動上のルールやモラルについていうなら,自転車においても,その生まれる前から自転車車道通行の原則崩壊や歩道上利用空間の未分化といった問題が発生しており(詳細後述),こうしたものに規定されたものを,彼らの責めに帰すことはできない。ともあれ,交通問題の範疇に押し込めて“対策”の対象にすることに無理があることはもちろん,かかる無理を承知の上であろうとなかろうと,これを通じて貫徹されようとしている権力者的意図を,見抜くものでなくてはならない。

自転車利用情況観の錯誤

今日の日本の自転車利用情況を,自らの既成概念にとどまらないものであることから「自由気まま」などと罵倒しているが,これは「提言」をまとめた懇談会委員が,その多様性それ自体を「管理上難しい」などと認識しつつその内実と意義を理解できていないことを示すものである。彼らの無理解ぶりたるやそれをお膳立てした警察官僚を凌駕している。

定義曖昧な「ママチャリ」から導き出される錯誤に満ちた“対策”

そもそも「ママチャリ」とは何をさすのであろうか。

「ママチャリ」の「ママ」は母親のことであり,「チャリ」は「チャリンコ」を縮めたもので,以前から関西地方の方言として使われていたが,その語源は朝鮮語で自転車を意味する「チャヂョンゴ」に由来すると考えられている。今日では自転車の俗称として広く使われる「チャリンコ」だが,美称・尊称として使われることは稀である一方,蔑称として使われることは少なくない。

語源からすれば,直接的には母親が乳幼児を乗せるための自転車をさすことになるが,今日的には,ロードレーサーやマウンテンバイクといったスポーツ的用途の自転車や運搬・配送に使われることの多い実用車を除いた,一般的用途の自転車を広くさすことが多い。かかる自転車のほとんどは安価で,中には利用者の安全をないがしろにしたような粗悪なものもみられる。「提言」では「ママチャリ」の定義を,対象を広く,もっとも曖昧なまま用いている。スポーツ用途のそれは一応除外しているようだが,いわゆる従来の実用車については不明だ。この「提言」において,自転車が運搬・輸送などに果たす役割自体を認識しているかどうかすら疑わしいところだ。

そこから導き出される“対策”が錯誤に満ちたものであることは,もはや検討を要さない。定義曖昧にもかかわらず「提言」全体を通じて一貫しているのは,単に“対策”の対象と位置づける程度を越えた,自転車及び利用者にたいする蔑視だけだ。

「ママチャリ」や一部の折りたたみ自転車などの安価で粗悪な自転車による車道通行の困難さが,自転車車道通行原則の崩壊を促したとする指摘をする者もある。たしかに耐久性に乏しく,フレーム熔接部分が破断し,走行中「空中分解」する事例すらあるという。また,機能維持の困難さのうえに,コスト面での折り合いがつかないことから,メンテナンスや修理が充分なされず,短期で使い捨てられることが多くなっている。走行においてCO2を排出しなくても,製造工程・流通過程では環境負荷がなされているのだから,これでは「地球に優しい」特性は活かされない。とはいえ,そのほとんどは一応,公道走行に見合ったギア比や必要な制動力などが備わっている以上,車道走行を妨げる要因となるものではない。

問題は「ママチャリ」の名のごとく,子どもを乗せての走行においてだ。この場合,いかに幼児といえども通常の荷物の運搬以上の重量がある上に重心が高くなるため,非常に不安定となる。これにヘルメット着用などといった付け焼き刃的対処をしても,根本的解決にはならない。

自転車の品質に関する問題を,一方的に利用者の責に帰し,警察権力によって交通政策において解決を図ろうとすることは筋違いも甚だしい。またそのマナーを云々することも無意味だ。

自転車事故にたいする認識の錯誤;死にさえしなければいいのか?

死亡事故では圧倒的に頭部損傷としているが,死亡事故以外を含めた事故全体ではどうか。

死亡事故及びそれ以外のものも広く含めないと一面的な対策しか導き出せない。死にはしないが依然危険なままの,もしくはかえって危険遭遇可能性が高まる道路や交通ルールになる。

死亡事故については,救急医療技術の進歩による救命率の向上,自動車設計技術とりわけIT化の進展による自動車利用者へのダメージ軽減,運転者のヒューマンエラー対策などが,減少させるファクターとなっている。またこれとは別に,経済不況などにより自動車利用そのものが減少した場合も,減少要因となる。しかしながら,統計上の「死亡事故」は事故発生時から一定時間内に死亡したものをさすものであり,その定義にある時間の後に死亡した場合や,脳死・植物状態となったものは含まれない。

救急医療技術の進歩による救命率の向上は統計上の事故死者を減少させたが,事故死者たることを免れた人がみな順調に回復を遂げるとは限らず,植物状態はもとより重度障害などの後遺症に苦しみ続ける悲劇を,かえって増やしていると言っていい。

また,圧倒的多数である,もとより死亡に至らないケースに至っては,いかなる予防・対策を講じるというのであろうか?

さらに自転車に関しては,自動車の場合のように,技術の進歩やIT化による事故防止策は採りにくい。ヒューマンエラーに関しては,交通ルールやインフラにおいて,合理的で,誰にでも理解・実行可能な単純・明快な利用環境整備を行うことに尽きる。

ひとつの重大な事故の背後には無数の軽微な事故が発生しているのであり,その防止・対策は別個のものではない。軽微なものへの対処が重大なそれの防止につながってゆくものだ。かかる観点は,この「提言」が,既存の「交通安全対策推進プログラム」(詳細後述)から大きく後退したもののひとつである。

自転車車道通行原則の崩壊

この「自転車の安全利用の促進に関する提言」において,自転車及び利用者の権利をないがしろにするのみならず,歩行者・自動車利用者など他の交通移動主体にたいしても有害無益なものの最たるものが,自転車車道通行原則のなし崩し的崩壊であるといわねばならない。

この「提言」で問題としているところの自転車事故なるものの大多数は,自転車車道通行の原則が遵守され,またそのことが歩行者・自動車利用者など他の交通移動主体にも周知されていれば,そもそも発生し得ないものだ。これについて枝葉末節的な議論をする向きもあるが,なかには「木を見て森を見ず」的な陥穽を脱しないものもみられる。いかなる詳細な検討よりも原則の再確認に優る解決策がないことを示すことが,必要にして充分な対処法であろう。

原則崩壊の背景と意図

自転車車道通行原則の崩壊をはかる「提言」にはいかなる背景があるのだろうか。もちろんそれを細かく分析しても,結局のところ移動・交通手段としての自転車にたいする敵視・蔑視・無理解に行き着くのであるが。

移動・交通手段としての自転車にいかなる特性があるかについて,わずかなりとも冷静な理解をもってすれば,車道通行原則の必然性と歩道通行それ自体の問題性は自明のものだろう。しかも自転車対歩行者の事故について論いながら,その増加を導くような策を主張するなどばかげている。

また,車道からの自転車締め出し策動は一般道制限速度緩和を目論む布石との推察もあるが,これはいかがなものだろうか。ヨリ高速化された自動車を円滑に走行させるため,その障碍となるであろう自転車を車道から排除するのがねらいだとする推察だ。もっとも現状においても制限速度以上でのクルマの流れが普通であるところは多い。また都心部などの交通量の多いところでは制限速度以下でのクルマの流れが普通だ。いずれの場合も,道路などのインフラや交通量・交通様態が同じであれば,制限速度を上げても実際の変化はほとんどないだろう。もちろん自転車を排除してもだ。

しかしながら,道路などのインフラに手を加えるとなると別だ。自動車走行にのみメリットのあるものへと造り替えればスピードアップの効果があるかも知れないとの推察もできるが,それよりも見落としてはならないのは土木利権が生じるということだ。自動車走行速度アップや交通事故減少などの効果があろうとなかろうと,土木利権発生という効果は確実だ。そうした土木利権の新たな発生を謀ることも,法改正を通じた本来の意図のひとつであるといわねばならない。

原則崩壊にいたる過程

そもそも自転車は道路交通法で「軽車両」に分類されており,他の「軽車両」と同様に車道の左側を通行することが義務づけられている。歩道は「通行可」に指定されている場合しか走れない。しかしながら法文を一読すれば誰でも判る基本原則がないがしろにされる歴史は約30年に及んでいる。しかもその原則崩壊をもたらしたのは,自転車利用者ではないのだ。したがってその原則崩壊にともなう責めを自転車利用者自身に帰せしめることは,きわめて不条理なものにほかならないことが解るだろう。

ここで「提言」以前にさかのぼり,道路交通法の関連項目と,それに関する動きを簡単にたどっておこう。当然のことながら,もともと道路交通法には,自転車を他の[軽]車両と区別して,歩道通行を認める規定はなかった。

(通行区分)第17条1項 車両は,歩道と車道の区別のある道路においては,車道を通行しなければならない。ただし,道路外の施設又は場所に出入りするためやむを得ないときは,歩道を通行することができる。

もちろん今日でも法制度上はこれが原則といえるものであるが,自転車に関してこの原則が崩壊させられる第一歩は,以下の文言が付け加えられた,1970(昭和45)年の改正であった。

(自転車の歩道通行)第17条3 二輪の自転車は,第17条1項の規定にかかわらず,公安委員会が歩道又は交通の状況により支障がないと認めて指定した区間の歩道を通行することができる。
2 前項の場合において,二輪の自転車は,歩行者の通行を妨げないような速度と方法で進行しなければならない。
3 公安委員会は,第1項の規定により指定しようとするときは,当該歩道の管理者の意見を聞かなければならない。

この原則崩壊が現実化するのは,「普通自転車の歩道通行」を具体化させた第63条の4を盛り込んだ1978(昭和53)年の改正であった。

(通行区分)第17条1項 車両は,歩道又は路側帯(以下この条において「歩道等」という)と車道の区別のある道路においては,車道を通行しなければならない。ただし,道路外の施設又は場所に出入りするためやむを得ない場合において歩道等を横断するとき,又は第47条第3項若しくは第48条の規定により歩道等において停車し,若しくは駐車するため必要な限度において歩道等を通行するときはこの限りではない。

(普通自転車の歩道通行)第63条の4 普通自転車は,第17条1項の規定にかかわらず,道路標識等により通行することができるとされている歩道を通行することができる。
2 前項の場合において,普通自転車は,当該道路の中央から車道よりの部分(道路標識等により通行すべき部分が指定されているときは,その指定された部分)を徐行しなければならず,また,普通自転車の進行が歩行者の通行を妨げることとなるときは,一時停止しなければならない

これについては,国会の場において,結果として議員がまともな理解をしないまま,法案を通過・成立させてしまったわけだが,一応の論議がが行われていた。自転車車道通行については,一応これを原則とするがごとき姿勢を示していたものの,自転車歩道走行による問題に有効な具体的対処を行わず,なし崩し的現状追認に堕していったといえる。

こうした答弁には,実務者レヴェルのものが立つときもあるが,警察官僚の中でも,交通問題の専門家ではなく,エリートとされる警備公安畑出身の者があたることも多い。そのため,交通問題に通じているわけではないのみならず,道路交通法本来の趣旨とは別に,治安体制維持の観点からその有用性を判断することになる。かかる観点から重要と思われなかったがゆえに,自転車利用に関する問題はなおのこと軽視されたといえる。

その一方で,自転車道整備を求める動きも早くからあった。欧米に範をとり自転車事故の減少をはかる大義名分こそ掲げられていたが,その本質は,一部地方選出議員による土木利権的利益誘導策として追求されたもので,その政治的意図の貫徹はもとより,移動交通手段としての自転車走行環境の向上にはほとんど結びついてこなかったことは,もはや歴史の証明するところである。

実際には,「自転車歩道通行可」をなし崩しにしてゆく情況が生み出されていた。1978年以前から,一部に自転車の歩道通行が見られ,それにたいする歯止めを失う懸念がなされていながら,有効な対処を一切怠ってきたことも見落とせない。また,車道上において以上に歩道上において,自転車の走行空間が元々充分に考慮されておらず,歩行者との分離は事実上ほとんどなされないままであり,その走行方法においても,歩行者と同じような速度で「徐行」して走ることや「押して歩く」ことを求めるなど,自転車の通常の走行方法では無理というべきものを,何らのためらいもなく求めてきたのであった。かかる無理と不条理を棚に上げ,自転車及び利用者のせいにするのが,「提言」でも繰り返されている自転車及び利用者にたいする罵詈雑言であり,そこから「懇談会」委員や警察官僚の意識と資質の低さをうかがい知ることができる。

まったく無知愚策の所産というほかないものだが,こうしたものが約30年,いやそれ以上の長きにわたってまかり通ってきたということは,人間のライフスパンでは優に1世代以上ということになり,乳幼児はおろか青少年に至っては生まれる前から,その親の世代においても物心つく前から,こうした原則崩壊がなされており,こうした長期間を経て少なからざる市民が,かかるものに馴致させられるという,まさに愚民政策がまかり通ってきたといわねばならない。

1970年といえば,大阪で万国博覧会が開かれた年であり,日本が高度経済成長を謳歌する最後の時期で,モータリゼーションの進行とともに,交通秩序もまたクルマ中心へとシフトしていった時代である。この頃全国各地で相次いで縮小・廃止されていった路面電車のごときとともに,自転車もまた交通手段としての役割を軽視されていたといえる。

また,現在では,環境問題への問題意識と危機感の高まりから,クルマ中心の交通秩序を見直し,自転車利用を推進する交通政策へと転換しているヨーロッパ先進国においても,1970年はもちろん1978年でもまだクルマ中心の交通体系をもってしており,その点では日本の交通政策が特段遅れていたわけではない。

だが自転車の歩道通行容認は,今日はおろか当時においてすら,日本をおいて他に例のない愚策であった。諸外国においては,その交通政策が自動車中心であれ,自転車利用積極推進であれ,自動車・自転車・歩行者各々の道路上での通行帯の区別は,その原則を当然のこととして貫くことで,時間をかけて定着させてきたといえるのである。決して一朝一夕になされたものでも,厳罰による徹底化を図ってはじめてなされたものでもない。

政策上の不作為=自転車の無視・抹殺の正当化

今日では「自転車歩道通行可」という“例外”が,歩道の4割以上,地球を1周半以上の総延長にまで,なし崩し的にはびこらされるに至っているという。これでは,一般的な国民の常識的理解の水準では,「自転車歩道通行可」があくまで限定的な条件下での例外措置であると認識させることは難しく,あまっさえ警察当局及び警察官自身が,法の枠組みを無視して,その原則崩壊に棹さしてきたことを忘れてはならない。当然「提言」がかかる反省を表明するわけはなく,これによって生じた問題をもっぱら自転車及び利用者に転嫁させることになる。

交通政策上の無知と不作為により,その矛盾を自転車に転嫁してきたことについて「提言」では以下のように述べている。

我が国の道路状況において、特に自転車道の整備が容易ではないことも事実である。自動車の通行量が多く、およそ自転車の通行が困難な道路も少なくなく、また、自転車走行の迅速性・快適性よりも、何より安全性を重視する自転車利用者も多いことから、勢い自転車の歩道通行が広く見られるようになっている。 (p.10)

ここで自転車走行の「迅速性・快適性」と「安全性」とが,あたかも背反するものであるかのごとく対置せられ,しかもそれが自転車利用者におのずから生じた意識情況であるかのごとく描き出しているが,これこそ警察−道路行政当局の交通政策上の無知と不作為を隠蔽し,自転車及び利用者自身の問題へとすり替える詭弁にほかならない。

「迅速性」・「快適性」・「安全性」等々,自転車利用情況におけるファクターはさまざまで,すべてのファクターが十全に満たされるのが理想であるが,ヨリ多くのファクターが,ヨリ大きい度合いにおいて実現されることが求められる関係にあり,背反律的・二者択一的関係にあるというのは,かかる性格を歪曲するものである。

そもそも交通政策において「自転車道の整備」=自転車走行空間確保でないことを見落としてはならない。基本は既存の道路インフラにおける自動車・自転車・歩行者各々の利用空間の案配であり,続いて道路新増設時におけるそれである。自転車利用推進に積極的なヨーロッパ先進国においても,自動車専用道路の建設や,自動車が通行できない道路の整備と同様かそれ以上に「自転車道の整備」が,道路建設・整備一般から見ればむしろ少数であるからだ。

もし高速道路やバイパスといった自動車専用道路以上に「自転車道の整備」を要求するとすれば,それは,自転車利用ニーズに即したものとは言い難く,自転車を土木利権創出・増大化の手段として利用しようという立場からのものであるといわねばならず,また国民的理解を得るべく過大なものだとの誹りを免れないだろう。

現実には、自転車歩道通行可の規制の有無にかかわらず、自転車の利用者が自らの判断で歩道通行しているという実態も一般的に見られ、こうした中で、一部の自転車の歩道上での無謀な通行やルール違反、マナーの悪さが歩行者の立場から厳しく指摘されるという事態が生じている(p.10)

これは「自転車歩道通行可」とすること自体および自転車車道通行原則崩壊に至る過程における誤り・問題を一切棚上げして,自転車及び利用者にその責めを転嫁する姿勢が,もっとも端的に示された部分といえる。

自転車の通行方法については……自転車の通行区分について検討するとともに、特に歩道における自転車と歩行者の共存を図るための実効性のある具体的なルールを定めることが適当である。
具体的には、例えば、
○ 歩道上での自転車の通行方法をより明確にすることとし、自転車が歩道通行する場合における速度と方法や一時停止すべき場合を具体的に明示すること
○ 自転車の歩道通行が認められている場合であっても、歩行者の通行量が多い場合など、歩行者の通行の安全を確保できないおそれのある場合は、自転車を降りて押して歩くか、又は車道を通行すること
○ 迅速な走行を行おうとする自転車利用者は、車道を(適正な方法で)通行するようにすべきこと(p.21)

そもそも自転車の車道通行という大原則をなし崩し的に崩壊させておいて,その責を自転車利用者に転嫁しすることが,前提として大きな誤りなのである。その誤りを誤りとして顧みることなく,その上に立って「歩道における自転車と歩行者の共存」などということ自体が無理なのである。まして「歩道上での自転車の通行方法をより明確にする」などというのは,砂上の楼閣に過ぎないものだ。しかもその実効性が乏しいことをもっともよく知っているのは,他でもない警察当局自身ではないのか?

しかもここでは原則であるはずの自転車車道通行を「…又は車道を通行すること」,「迅速な走行を行おうとする自転車利用者は…」などと,あたかも条件付の例外であるかのごとくに貶める始末だ。条件付の例外は「自転車歩道通行可」の方ではなかったのか?

車道における自転車と自動車との共存、歩道における自転車と歩行者との共存を図るため、自転車利用者に対してだけでなく、自動車運転者や歩行者に対しても、自転車の通行ルールや事故実態等について教育・広報していくべきである。

「車道における自転車と自動車との共存」は当然のことである。これを当然のこととして「教育・広報していくべきである」ことは言うまでもないが,これについては,ほかならぬ警察当局者自身が教育されねばならない存在だと言わねばならない。「歩道における自転車と歩行者との共存」なるものが直後に続いて並立せられているところから,彼ら自身の見識の低さが示されている。もちろん,デタラメな「自転車の通行ルール」や,原則崩壊の所産である「事故実態等」を,自転車利用者はもとより,自動車運転者・歩行者にたいしても「教育・広報」するなど,ばかげている。いったいどのように「教育・広報」するというのだろうか?

個々の交通現場で自転車利用者が通行ルールを理解できるよう……自転車利用者に対する具体的な広報啓発を推進することを検討すべきである。この場合、法律上自転車の歩道通行が禁じられており、そこを通行してはならないときや、法律上自転車の通行が可能な歩道であっても、歩道上の歩行者の通行が多く、自転車の走行が歩行者に危険や迷惑を及ぼすときは、自転車を降りて押して歩くようにしなければならないことなど、具体的にどのような行動をとればよいか分かるように広報啓発の内容を工夫する必要がある。(p.28)

自転車車道通行原則をないがしろにするのみならず,「自転車歩道通行可」のなし崩し的正当化をはかり,さらにはこれを「通行ルール」なるものをもって問題を隠蔽し,緻密化を謀ろうとするものだ。またあわせて自転車と歩行者の対立・相克を煽り,自転車及び利用者にたいする敵視感情を醸成させることをねらっている。言うまでもなく,「自転車を降りて押して歩く」ことの強要は,自転車の移動交通手段としての存在を無視・抹殺するものである。蛇足ながら付け加えると,自転車を押して歩いた場合は軽車両ではなく歩行者として扱われるが,原動機付き自転車・自動二輪車を押して歩いた場合,実際には運転しているのと同様に扱われるという点でも,矛盾がある。もちろん「自転車を降りて押して歩く」ことによって「歩行者に危険や迷惑を及ぼす」ことがなくなるなどとするのは思いこみや幻想でしかないことを,警察当局者自身がハッキリと理解するべきであると言わねばならない。

「危険」の対象と判断の根拠は?

これまで見てきただけでも「提言」において,たびたび「安全」・「危険」・「迷惑」などといった文言が出てくるが,それらは何にとっての,何にたいしてのものであろうか。その判断の主体は何であろうか。またその根拠は何であり,またいかにして示されるのであろうか?

自転車の走行環境の整備(?)に関して述べた部分を見てみよう。

○ 自転車道や車道における自転車の走行環境の整備状況に応じ、自転車歩道通行可の規制を解除すること
○ 自転車が車道を通行することが特に危険な場合は、当該道路の自転車通行を禁止するなどの措置を講ずること
など、個々の道路について交通環境の変化に応じた交通規制を実施するよう配慮する必要がある。(p.21)

前項は一見,自転車車道通行原則への復帰を目指しているように錯覚する向きもあろうが,「自転車の走行環境の整備状況に応じ」という条件設定がなされていることから解るように,そのホンネは,「自転車の走行環境」が整備されないままで現状のようなものであれば,さらには現状より悪化させられれば,「自転車歩道通行可」を容認し,あまっさえ拡大することもできるとするものだ。自転車利用環境整備の不作為と後退を正当化し,そのツケを自転車及び利用者に回そうというものにほかならない。

次項は,自転車車道通行の原則を根底から崩壊させ,移動交通手段としての自転車の存在意義をも無視・抹殺するものであることが,一見して解る代物だ。だが問題はこれにとどまらない。ここに言う「危険」の内実はもちろん,それを判断する基準や主体について,何らの説明がなされていないことから,いかようにも解釈・運用することが可能となるものからだ。

ここでいわれている「危険」とはどのようなものであろうか? これについて「提言」では何ら説明がなされていない。説明しないこと自体,説明することで生じるであろう不都合を予防するという,不誠実さと官僚的保身の所産といえる。また,長年にわたって自転車車道通行の原則をないがしろにし,崩壊に棹さし,あまっさえその愚策のツケを自転車及び利用者に転嫁してはばからない「自転車対策検討懇談会」と警察官僚どもの考えることであるから,一般的社会通念や市民的良識からすれば荒唐無稽なものであっても,その強行が策されている可能性は大いにあると言わねばならない。

まず「危険」は誰[何]にとってのものかから問題にされなければならない。文脈上自転車についてのものと理解することは誤りではないだろう。ここから「懇談会」と警察官僚の自転車観を見てみよう。

自転車はもとより歩行者についても,危険とする理由のひとつはその速度差・運動エネルギーの差により,ヨリ大きなものからダメージを受けうることをもってするものだ。これはどれほどの妥当性を持つのだろうか? これは実に一面的なもので,衝突時のエネルギー量がもたらすであろうダメージだけを取り出して「危険」とするに過ぎないものだ。

速度・運動エネルギーの差は大きくても,自動車・自転車・歩行者各々の通行帯・利用部分の分離が明確・厳格であれば問題ない。時速数十km,場合によっては100km以上のスピードで電車が通過するホームで,風圧による巻き込みを防ぐべく設定された1m足らずの間隔しかないものについて,直ちに危険とする向きはないだろう。このようなものでも遵守していれば,脱線・転覆か故意の飛び込みでもしない限り,接触はあり得ないからだ。ヨーロッパの中にも,時速数十kmで走る車のすぐ横を自転車が走るところはいくらでもある。その場合でも,通行区分が厳格に定められ守られており,日本のように車道端の二輪車の通行を妨げるべく幅寄せするような運転が横行していないから,自転車が安全に走行できるのである。 

かかる「危険」をもってすることの延長には,物理的可能性いがいに,他の交通移動主体が排他的独占性を保持・増強する上で不都合と認識されるものの存在自体へと,その「危険」観の対象認識はエスカレートしてゆくのである。高速道路やバイパスのごとき自動車専用道路を必要とするような情況であれば,かかる発想もまだしもというところだろうが,一般道における自動車と自転車の利用空間分離という次元では,不要なものである。

また,合理的根拠の如何にかかわらず,目障りと感覚されるなど,単に敵対的・排他的感情によるものも要因として挙げられる。これは,自らと異なる他者にたいする違和感から出発して,敵対的・排他的感情へとエスカレートさせるもので,かかるものへの理解を心がけるとか,共感しようといった方向性からそっぽを向いたものである。そもそも市民社会は多様性を内包したものであり,その否定は偏狭で排他的な社会を生み出すものであり,その上からの組織化は,まさにファシズムである。また,かかる“対策”は,排他性・敵視感情が高まればそれだけエスカレートするものであり,それにともなって利権の増大化をもたらすのである。かかる問題は,わが都市生活改善ボランティアがこれまでも繰り返し告発してきたものにほかならない。

さらに大きな問題点は,警察当局及び警察官の恣意的判断・裁量の余地が無制限的に増大することである。しかもその場合に根拠・基準・証拠の明示も必要とされず,勝手な判断に基づいた職権濫用がまかり通ることになる。

こうしたところからは,その適用方法をめぐって,自動車の交通量が多い幹線道路でのい自転車車道通行が原則どころか全面禁止になりかねないといった可能性すら出てくるのであり,それは決して荒唐無稽なものではない。いっぽう,歩道上での自転車通行の現状や対歩行者事故の危険について,ここでだけは問われていないでのある。自転車に歩道通行を強要することの問題については,自らのまいた種になるものであるが故に,「懇談会」と警察官僚は,ここではあえて踏み込めないのである。ばかげた矛盾だ。

もちろんこれ以外にも,通常の社会通念や,欧米先進国はおろかその他一切の外国での事例などからはおよそ想像もつかないような,一片の合理性や必然性もない,ばかげた自転車の歩道通行を強要する基準が生み出される可能性は高いと言わねばならない。

自転車車道通行原則を徹底しているところでも幼児・児童が利用する自転車は歩道通行を認めており,この程度の例外は合理性があるといえよう。もちろん駐停車,路外との移動および緊急避難の類も同様である。

そして何より問題にしなければならないのは,こうした拡大解釈・運用がいくらでも可能となるような,根拠・範囲が明確に示されない,恣意的運用の余地が大きい,裁量を容認する,曖昧な規定を盛り込むこと自体が,権力の濫用と無制限的拡大が生み出され,基本的人権の侵害を惹起しかねないという,民主主義社会においてもっとも重大な問題を孕んだものとなることである。これは自転車にとってだけではなく,人権と民主主義にとってこそ「危険」なものだ。

かかるものは,厳罰化はもとより,法改正の“効果”によって解決・軽減されることが見込めない「危険」を口実にして,さまざまな市民活動への介入・弾圧に利用される危険が増大し,日本国憲法に定められた集会・結社の自由,思想の自由などの基本的人権の侵害・蹂躙が,これまで以上に進められるであろう。

「自転車に係る安全教育等の現状」

まず,自転車が交通移動手段であること,自転車利用者が主権者の一翼を担う存在であり,その権利と尊厳は他の交通移動手段利用者と何ら変わらないこと,これを前提として社会的共通認識とすることなしには,いかなる「安全教育」も無駄かつ無意味だ。

最大の反面教師としての警察官及び警察当局

「提言」では「警察では、自治体や関係機関・団体と連携し、自転車の事故防止やマナーの向上等を訴えかける広報啓発活動を実施」(p.12)などとしているが,実際のところ,ほかならぬ警察自身がかかる「安全教育」における最大の反面教師であることに,もはや異論の余地はないだろう。警察自体はもとより「連携」する「自治体や関係機関・団体」においても,主権者にして主体的市民の一翼を担う自転車利用者にたいして,無知蒙昧な存在と位置づけることを前提とした働きかけである「啓発」を行う資格などない。それは単なる独善と大衆蔑視でしかない。

道路交通法上の諸原則を主観的解釈と恣意的判断で蹂躙し,それを自転車及び利用者に場当たり的に押しつけてきたのが警察官及び警察当局にほかならない。左右折や停止に決して手信号などの合図をすることなく,歩道上を並進して尊大な態度で走る警察官の自転車は,自転車利用における模範どころか,もっとも典型的な反面教師であり,道路交通法違反の百貨店というべきものではないか。

そして何よりも,現下の道路交通法にある自転車の車道走行原則をなし崩しにしてきたのは彼らの最大の罪業であり,自転車及び利用者,とりわけティーンエイジャーをあたかも無法者のごとく罵倒するにいたっては,自らの罪業を転嫁するものにほかならない。

「自転車に係る安全教育等の現状」の最大の問題点は,警察官及び警察当局にあることは明らかだ。警察官及び警察当局が安全教育の主体なり担い手たらんとするならば,まず自転車及び利用者にたいする認識を,根本的に自己変革するものでなければならない。

自動車運転者に求められるべき意識変革

自動車運転に際しては当然のことながら運転免許証の取得が義務づけられ,免許対象の車種についての運転技量及び交通法規の習得は一応なされているとの前提に立った上での議論は可能であろう。しかし免許対象以外の種類の車両はもとより,歩行者・自転車にたいしての認識となると,はなはだ不十分などころか,前述のような警察官及び警察当局の錯誤に加えて,少なからざる部分がそれに規定されているところの,運転者の主観的・独善的解釈が,不便と危険を強いている場合が少なくない。

自動車・自転車・歩行者各々の通行帯を物理的に分離することは確かに有効性を期待できる部分が少なくないが,それだけで解決するものではない。道路自体や各々の通行帯に十分な幅員がなかったり,適切な形状がなかったりすれば,かえって不便なだけでなく危険だ。

自動車・自転車・歩行者といった速度差・運動エネルギー差が大きく,その利用形態も異なるものがほとんど隣り合わせで移動すること自体をなくすことはできない。そのことを認識した上で,それにふさわしい運転・走行のあり方を要求されるべきだ。一例を挙げるならば,車道上のバイクや自転車の通行を阻む形での幅寄せのごときは,ほとんど日本の道路上特有の珍現象というべきものだ。欧米先進国のなかには,都心部の自動車の制限速度を厳しくしているところもあるが,件の幅寄せのごとき他の通行を阻んだり危険を及ぼしたりするような運転にたいしてはそれ以上に厳しい姿勢で臨んでいる。もちろん風圧や泥はねのごときは不可避であるにしても,人為的要因は可能な限り排除されている。また,「提言」においても自転車と自動車の事故でとりわけ多いとされる,出会い頭の事故防止のための安全確認のあり方も,かかる観点から改められるべきだ。

特定のものにたいして罰則を設けても,それ以外のものを容認するがごときものとなってしまい,総体としての効果は望めない。自動車・自転車・歩行者のそれぞれが,交通移動主体として共生すべきものであことの意識改革が不可欠だ。免許証取得時及び更新時の講習に盛り込めば,3〜5年ですべての自動車運転者に普及させることが可能だろう。

「自転車運転免許証」の問題:ボクラ少国民!?

近年「自転車運転免許証」なるものがいくつかの地域でみられるようになった。おおくは小学生向けの交通安全講習の受講修了証のように使われているが,それが始められた際の政治的背景を没却してはならない。

これをはじめに導入したのは東京都荒川区だ。当時の荒川区長・藤澤志光は,2004年夏,汚職事件のため,公選された特別区長として初めて現職のまま逮捕されたことで,全国にその悪名を轟かせた人物だが,そのもとでは,「つくる会」教科書の採択や,ジェンダーフリーを否定し男女共同参画に敵対する条例の制定が策されるなど,時代錯誤的・反動的・ファッショ的政策が陸続と追求されており,この「自転車運転免許証」もその一環にほかならないのだ。

直接的には,少子化にともなう学校統廃合のため通学距離が伸び,23区で初めて区立中学生徒に自転車通学を認めるに至ったのにともなうものだった。そのため自転車通学にあたっては「自転車運転免許証」の“取得”が要求されている。しかしその対象は小学生(高学年)から成人にまで及び,免許証取得のための講習会なるものをはじめ,荒川区内の警察署や町会連合会・PTA連合会・交通安全協会など区内のさまざまな,上から組織された団体などの機能を発揮させ,あたかも戦時中の国家総動員体制を彷彿させる相互監視体制と情報収集体制の構築にあることが判る。まさに「交通問題」を口実としたあらたなファシズム体制づくりにほかならない。

「安全教育」を口実とした学校教育への介入:少年犯罪・非行だけが口実ではない

現代はまさに,警察権力の学園への介入について,危機感をあらたにしなければならない時代だ。

教育の場であるとともに研究の場であることから,とりわけ大学などの高等教育機関においては,学問の自由,思想の自由の侵害につながる警察権力の介入については,従来厳しく弾劾されるのが常であった。学園闘争の後退とともに緊張感は稀薄化しつつあるものの,大学人の間ではなお一定の問題意識は共有されているだろう。

また,小学校・中学校・高等学校といった,初等・中等教育機関にあっても,学校における教育目的の達成の観点はもちろん,教育を担う教育労働者及び教育の客体たる児童・生徒らのいずれにも,学問の自由,思想の自由はあり,人格権の尊重という観点からも,警察権力の学校現場への介入に厳しい制約が要求されるのが常であった。

かかる中にあって,非行や少年犯罪の抑止・対策と称して,警察権力の学校への介入がなされ,児童・生徒に関する個人情報が,学校・教師から警察に収集され,事実上監視対象にされつつある。だが警察の学校への介入と両者の結合のもっとも大きな口実は「安全教育」であることを忘れてはならない。

警察が行っている「安全教育」の内実はいかなるものであろうか? 「提言」では,

 児童・生徒を対象とした自転車安全教育については、もとより、学校と警察の緊密な連携が重要となる。現在の学習指導要領等のもとで、自転車安全教育を含めた交通安全教育は、安全学習としては、体育又は保健体育の保健領域や「総合的な学習の時間」等の中で行われ、安全指導としては、学級活動やホームルーム活動、学校行事、生徒会活動、クラブ活動等の中で行われている。
 自転車教室の内容も様々な工夫がなされ、最近では、「自転車運転免許証」の交付を通じた自転車教室や、中・高校生に身体障害者の疑似体験をさせて相手側の立場に立った安全走行の重要性を自覚させたり、加害者の視点から事故の衝撃や違反行為の危険性を体験させるなどの教育手法を採り入れている例もある。また、児童・生徒のみならず、成人を対象に、高齢者向けの自転車教室や、高齢者、子供及びその親の三世代交流による安全教育等を実施するものも増えている。(p.12)

などと紹介しているが,これは警察による学校教育への介入の一端を示すのみならず,「様々な工夫」と称するものは,これまたファッショ的なものおよび「安全教育」・「自転車教室」の中では例外的なものを都合よく集めて列挙したものであるのみならず,警察が行う必然性という点で何ら説得力を持たないものだ。

学校教育における立場の如何を問わず,基本的人権を付与された主権者・国民として学問の自由,思想の自由が尊重されねばならないという,もっとも基本的なことがないがしろにされているという現状があり,その原因が教育行政と警察権力にあることを看破し,その不当な介入を許してはならないことを,今一度ハッキリさせておこう。

学校では自転車を科学教育に活用せよ

学校において交通安全教育を行うにあたっては,既存の教育内容といかに関連させ位置づけていくべきかが,その内容とともに問われる。スポーツや道徳教育との連関ごときについては既に多くの指摘があるのでここでは繰り返さないが,とりわけ自転車に関しては,科学教育との連関の欠如を指摘しておかねばならない。これこそ学校で自転車を通じて行う教育としてもっとも必要にして効果的なものではないのだろうか。

自転車が走る原理については,小中学校の理科の単元にそのほとんどを対応させることができる。その点で自転車は優れた理科教材だ。自転車利用(走行はもちろん整備・修理等も含めて,また移動交通手段として以外にもスポーツ等の用途においても)を行う上で,原理を理解することを前提とするのとしないのとでは大きな違いができる。もっとも自転車製造の技術に関することは小中学校のレヴェルを超えるし,製造・流通のごときは社会科の範疇だが,それとの連関が成立するところから転移するものであり,また,それらを通じて,ものを大切にする心,ものつくりや勤労を尊ぶ精神もおのずから涵養される。

「交通安全教育」は移動・交通ニーズに即して地域で

児童・生徒の移動・交通ニーズ,そのために必要な交通安全認識が何であるか,そのために必要なものは何か,もっともよく心得ているのは警察ではなく教師や保護者である。また,児童登校時に横断歩道に立つ「みどりのおばさん」のように地方自治体もそれを担ってきており,今後もその存続が求められていることを忘れてはならない。

また,移動・交通手段の安全性と利便性は,個々人の「交通権」のみならず,地域コミュニティーのクオリティーの重要なファクターである。自動車偏重とも言うべき今日の日本の交通情況を鑑みるならば,その他の移動・交通手段の選択肢を広げること,公共交通機関の確保が重要課題となっている。それらの活用と安全性の確保を図る中で,「交通安全教育」の内実と方向性が規定されるものでなければならない。それを決めるのは警察ではなく,地域コミュニティーの構成員としての主体的市民にほかならない。

「歩行者vs.自転車vs.自動車」の対立図式にはめられるな!

道路交通問題を論じるにあたって,もっとも大きな陥穽のひとつは「歩行者vs.自転車vs.自動車」の対立図式にはめられることだ。これは市民間の対立感情を煽り,分断を謀るとともに,問題の本質から目をそらすという,権力者の常套手段であることを忘れてはならない。

自転車利用者の地位向上のみならず,「すべての都市住民と環境に優しい街を」実現させるためには,既存のクルマ社会−−自動車偏重・自動車中心の交通体系−−は変革されねばならないが,一面的・一方的・感情的な自動車利用抑制を求めてはならない。

たとえば,道路の「再配分」についての議論から見てみよう。こうした議論は多くの場合,既存の走行区間における通行区分にのみ着目・収斂させるものが多い。これこそ陥穽の最たるものだ。もう少し考えれば誰にでも解ることだが,走行空間とともに,乗降・搬出入・緊急避難などのための駐停車および,その他移動・交通以外の機能も万全にした上での道路の「再配分」のあり方を追求しなければならない。

パーキングメーター設置箇所や路上駐車されている部分(駐車違反摘発の民間委託により“減少”したとされる)を自転車走行帯にせよといった,とってつけたような浅薄な機会利用論のごとき主張は,まことに慎むべきものである。あわせて,市民生活において道路が果たすべき役割をヨリ広範な観点から見直すことが求められる。

それにあたっては,既存の道路・施設といったインフラを最大限有効活用することを第一とし,新設・拡幅は極力避け,どうしても必要と思われるものを吟味して最小限にとどめる必要がある。土木工事が環境破壊と利権の創出をもたらすからである。自転車利用環境の整備を土木利権拡大の機会にしてはならない。

また,他の交通機関・手段との連携・併用の利便性高めることは,単にかかる陥穽を脱するのみならず,市民の多様な交通移動ニーズにこたえる道である。

道路路用のあり方についての建設的議論は,公共空間としての道路本来の機能発揮を通じた,広範で多様な市民生活向上の一環でなければならない。

「自転車の安全利用に関する対策の方向性」

この「提言」中,そのデタラメ性をもっとも端的に示している「自転車の安全利用に関する対策の方向性」なる部分を紹介して,小括としておこう。

自転車は、今や国民の身近な交通手段として定着し、多様な利用者層に多様な用途・目的で利用されており、環境負荷の少ない交通手段等として今後一層の利用の促進が求められている。一方で、自転車の保有台数の増加と利用の進展に比して、自転車道等の自転車専用の通行空間の整備が十分に進まない中、自転車が当事者となる事故が年々増加傾向にあるとともに、自転車の歩道通行が一般化し、自転車利用者のルール・マナーの悪さが厳しく指摘されるという事態も生じている。
現在の普通自転車の通行方法等に関する規定を定めた昭和53年の道路交通法改正から既に約30年が経過しており、また、今後一層の自転車利用の進展が予想される一方で、これに見合う自転車専用の通行空間の整備が飛躍的に進むとは考えられない状況からすれば、現状のままでは、自転車が当事者となる事故の増加や自転車に係る交通秩序の維持が確保されないという問題状況が更に拡大することも十分予想される。
その意味で、我が国の交通実態を踏まえつつ、自転車を主要な交通主体の一つとして明確に位置付け、自転車と歩行者・自動車との共存を図りながら、自転車の安全かつ適正な利用を促進するため必要な対策を講ずるべき時期に来ているのではないかと考えられる。
一般に、交通の安全と円滑を確保するための対策は、それぞれの交通主体に応じた道路環境の整備と、通行区分や通行方法等に関するルールの設定、ルールを遵守させるための安全教育・広報啓発と違反に対する取締りが一体となって行われるものであり、自転車に関する問題も、このうちのいずれかのみで解決するというものではない。また、交通管理の観点からは、当該交通主体の性格が単純で画一的であるほど、ルールを設定する上でも遵守を求める上でも管理が容易であるが、自転車については、走行性能や利用・通行の実態が極めて多様であり、また、それを許容せざるを得ない。そして、交通管理の観点からは、自転車自体の安全と歩行者等他の交通主体の安全を第一に考えなければならないが、そのために自転車の利用を抑制する方向に進むことのないよう配慮しなければならない。

自らの浅薄な現状認識を,一見もっともらしい(?)文言で粉飾しつつも,その虚飾ぶりと無内容さは覆うべくもない。その対応との関連では,いっそう矛盾と自らの無能ぶりをさらけ出すことになる。自転車及び利用者を対策の対象へと位置づけるのみで,自転車を交通交通手段として認識し位置づけできないことを自己暴露し,そのツケを自転車利用者の責に帰す一方で,それを上からの大衆操作と組織化を通じた体制強化と利権増大の機会に利用するというホンネを垣間見させてくれることに,注意をもってすれば,容易に解読できるものだ。

このことは,この「提言」を通したコンテクストの中で読み取れるが,とりわけこのあとに続く部分との対比においても鮮明になる。

そこで、対策の方向性としては、
○ 第一に、我が国における自転車の利用実態及び事故実態を踏まえ、利用目的も利用主体も多様な自転車について、それぞれに応じた通行空間の確保を図る
○ 第二に、歩行者の安全を確保しつつ、自転車の安全かつ適正な利用を促進するため、歩道において歩行者と、車道において自動車との適切な共存が図られるような通行環境と実効性のあるルールを整備する
○ 第三に、自由気ままな走行が常態化し、交通の場における自らの位置付けを曖昧なものとさせている自転車利用者に対し、交通ルール・マナーの遵守を徹底させるという視点に立って、必要な制度の整備と、自転車に係る交通安全教育、自転車の交通違反に対する指導取締り、自転車の走行環境の整備等の諸対策を総合的に推進していくべきであると考えられる。
また、これらの対策を推進するに当たっては、警察と自治体や学校、道路管理者等が緊密に連携するとともに、地域住民や自転車利用者の意見を反映することに十分配意すべきである。(p.16-17)

自転車及び利用者にたいする罵詈雑言のトーンがあがるだけでなく,対策の対象としての自転車及び利用者にたいするフレームアップや包囲網の構成についてのホンネが,よりいっそうハッキリしてくる。一方で虚飾に込められたホンネについてもハッキリしてくる。たとえば「自転車利用者の意見を反映すること」といった部分だけ読めばなにやらもっともらしくも見えるが,そのあとの「配意」という文言は,「反映すること」についての義務的拘束力を意味するものでも,努力規定を意味するものでもないからである。

そもそも「推進」しようとする「対策」の対象の「意見を反映する」こと自体が自己矛盾なのである。対策の対象と位置づけることを止めることが「地域住民や自転車利用者の意見を反映する」前提である。

道路交通法改悪策動を許すな

この間の道路交通法改正[試]案に関する動きを整理しておこう。

2006年11月30日,警察庁の「自転車対策検討懇談会」が「自転車の安全利用の促進に関する提言」をまとめた。これをもひとつのもとにした「道路交通法改正試案」について警察庁は,2006年12月29日〜2007年1月28日の1ヶ月間「パブリックコメント」をつのった。

これを受けて2月15日,世論の理解を得ることが困難と判断したのか,「試案」で前面に押し出されていた,酒類・車両提供者にたいする厳罰化と同乗者への罰則の新設について,引き上げる最高刑はそのままにしたうえで,恣意的裁量・判断の余地が大きい「同乗罪」などを一部ゴマカシ的に限定させるなどの変更を行ったことが報じられたが,自転車の歩道通行に関しては「誤解によるもの」などとして,まともに取り上げることなくしりぞけるという欺瞞的・詐術的対応をとった。

3月2日,閣議決定され,「試案」は,警察庁の思惑をほぼ貫徹させた形で「道路交通法改正案」となり,2007年の通常国会に提出された。

この「道路交通法改正案」は,同じ通常国会において,国家への無批判的忠誠心を植え付けるべく改悪が策された教育基本法はもとより,軍事大国化=戦争ができる国(これが安倍晋三の言う「美しい国」だ!)造りのために改憲を目指しての国民投票法が,だまし討ち的に制定されようとしていることから,その陰に隠れてしまった感があるが,権力者的意図としては,これらが一体のものであることを,私たちはハッキリと確認しておく必要があるといわねばならない。

他にもある「道路交通法改正試案」の問題・欠陥

以上のように,「自転車対策検討懇談会」の「提言」のデタラメ性および,それをもとにした「道路交通法改正試案」の「自転車利用者対策の推進」の問題・欠陥は明らかだ。だが「道路交通法改正試案」自体の問題・欠陥がかかる部分だけにあるのではない。またあわせて,警察庁による道路交通法改悪策動そのものの持つ意味を見落としてはならない。

この間の政府による交通政策の概要としては,2006年3月14日,内閣府中央交通安全対策会議により決定された第8次交通安全基本計画)および,これを具体化するために警察庁が策定した「交通安全対策推進プログラム」がある。この策定にあたっては,ヒューマンエラーとしての事故予防・被害軽減(JR西日本福知山線脱線事故など大きな鉄道事故が相次いだことによる),被害者救済などについての議論がなされてきたが,こうしたものは「道路交通法改正試案」には反映されていない。また一部「自転車対策検討懇談会」と重複する委員のもと,対歩行者事故の増加という認識から,一方的・感情的に悪者・邪魔者扱いした自転車[利用者]対策も含まれており,「道路交通法改正試案」にも反映されているが,車道からの自転車締め出しを策すごときばかげた内容までは盛り込まれていない。

この「道路交通法改正試案」における数々の問題・欠陥のうち最大級のものが「自転車利用者対策の推進」にあることは,自転車及び利用者の立場に立つか否かにかかわらず,もはや明らかであろう。だが他の箇所についても,さまざまな問題・欠陥がみられる。また施策が必要な課題であっても,厳罰化や禁止・抑制によって行うのではなく,他の方法によって行うべきものも少なくない。その中のいくつかについて簡単に言及しておこう。

キャンペーンの背後にある政治性を見抜いて,冷静な議論を

まず「飲酒運転に対する罰則の強化」については,本題に入る前に,この数ヶ月あまりの間,冷静な議論がなされる情況にあったかどうかを確認したい。2006年夏の福岡県・海の中道における事故を最大限利用する形で,キャンペーンが繰り広げられた。加害者が地方公務員であったことから,公務員一般への反感を煽り立て,公務員削減を含めた行財政改革強行の正当化だけでなく,何よりも,秋に成立した,A級戦犯・岸信介直系の孫である安倍晋三極右反動政権のきな臭さから国民の耳目を逸らし隠蔽すべく,政治的にも利用されたことを,想起しなければならない。

小泉内閣のもとで強行された「国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)」をはじめとする有事法制に続いて,教育基本法改悪,防衛省設置など,この間なされたところから,さらにはだまし討ち的強行が策されている「共謀罪」制定策動などからも,その一端が示されているところの安倍反動路線においては,強権化・軍事大国化とあわせて,それを支えるべく,上からの組織化とそれに盲目的に従順となる国民づくりが策される。この道路交通法改悪策動も,こうした政治路線の一環であるといわねばならない。

厳罰化ではなく被害者救済を

交通違反に限らず,およそ犯罪一般において,厳罰化が一定の抑止力になる場合もあろうが,それには限界がある。逆に潜在化・陰湿化を促すこともある上,なくすことはできない。求められるのは予防と,何より忘れてはならないのが,発生してしまった後の被害者救済である。かかる視点を欠いた議論が,一方的で浅薄なものであることを自覚しよう。

刑罰の重さや種類についても,他の犯罪とのかねあいでバランスを取ることも必要だ。刑罰が社会秩序維持の方法の1つである以上,当然のことだ。特定のものを突出して重くしたり軽くしたりすることは,取るべきバランスを欠くことになる。飲酒運転については,現行の道交法においても,刑法犯と比較して重すぎるほどである。これ以上の厳罰化はさらなる突出でしかなく,不要であり理由がない。同じく,被害者・物損が発生しなかった事案や未遂事案について,被害者が発生した事案や既遂事案と同等の刑罰を科すことも同じく不要であり,理由がない。しかもこうした厳罰化は,事故予防・被害軽減などの施策をなおざりにし,そのツケを当事者に転嫁するものであるといわねばならない。さらに警察官の主観的・恣意的判断が入る余地が大きくなることについても,問題視しなければならない。

また交通事故・交通違反で重視されなければならないのは,被害者救済である。保険金の給付でまかなわれる部分には限りがある。また,加害者の資力の差が被害者救済の差を生み出すことは免れない。加害者に科す刑罰が重くなるとその分被害者救済の資力を減少させる。懲役刑になれば収入は失われるし,執行猶予になっても職業上の制約が生じるため,やはり資力が減少する。罰金刑(科料等も含む)においてはもっとその関係がハッキリする。しかも加害者が納めた罰金が被害者救済のために使われることは一切ないのだ。

この問題の根本的解決には,被害者にたいする公的救済制度を整備することが必要だ。もっともそうなれば広く犯罪被害者にたいする救済制度を拡充させ,交通事故被害者を犯罪被害者とあわせて救済してゆくことが求められよう。

抑制ではなく代替手段の拡充を

「高齢運転者対策等の推進」については「運転に必要な記憶力、判断力等の認知機能に関する検査を行うこととし、その結果に基づいた高齢者講習を行うことによって、高齢運転者の安全運転継続を支援」するとしている。同じ「対策」をうたっていてもこちらは,一応文言の上で「支援」をうたっている点で,無視・抹殺的姿勢を取る「自転車」と違いがある。しかしながらその本質が抑制にあることは明らかだ。

高齢運転者の「認知機能」の低下といずれ自動車の運転が不可能になることは,個人差が大きいものの,不可避であるといわねばならない。しかしながら,自立して生活を営み,自由意志に基づいて移動する権利主体である以上,資格剥奪には慎重でなければならない。そこでまず望まれるのは,公共交通機関などの代替手段の整備・拡充と利用促進によって,移動手段の転移を促すことだ。

もちろんその中には,自転車も代替交通手段の1つとして位置づけられるべきだ。「認知機能」の低下防止・抑制にはもちろん,その向上・回復を,体力や平衡感覚などの運動能力などとともに期待できる。

基本的人権の一環として理解されるべき「交通権」の確保という観点からは,代替交通手段の整備・拡充を先立って行うことが必要だ。これは,国土交通省・経済産業省・厚生労働省などの他省庁・地方自治体・民間が行うべきものであって,警察庁が行うことではない。

市民主体の政策実現へ

かかる省庁間,中央と地方,官民の役割分担や協働については,そのあり方を主体的市民のイニシアティヴのもとで構築し推進してゆくものでなければならない。これは市民が主体性を発揮することはもちろん,特定の省庁・自治体などの機関に権限が集中して利権が増大化することやその暴走を防止し,さらには権力機構の動向を監視し,check and balanceを健全に機能させる上で,不可欠である。

「パブリックコメント」に民意は反映されるか?

警察庁は,年末年始を含めた約1ヶ月,今回の「道路交通法改正試案」について「パブリックコメント」を募った。警察庁ではこれまでも何度か,いくつかの施策について「パブリックコメント」を募ったことがあるが,それらはいずれも,対象となる法改正や新たな施策に関して,それ自体を容認・支持しつつ,その上で,もしくはその枠内で,若干の修正や追加を期待するというものであった。

そのため,法改正や新たな施策自体に反対したり,総体として批判的であったり疑問視するような意見については,いわば想定外ということだ。

また,寄せられた「パブリックコメント」の内容を法案や施策に反映する上での義務や拘束力はない。内容を恣意的に解釈する余地もある。いかなるコメントがどれだけ寄せられたかについても,公正に公開される保証もない。昨秋暴露された「タウンミーティング」におけるヤラセ問題のごときがなされている可能性や余地もある。

この間,自転車車道締め出しに反対するなかで「パブリックコメント」提出を呼びかける動きもあったが,個人として,今回の道路交通法改正自体を認めつつ,特定の部分の修正を求める限りにおいては,ひとつの方法であろう。だが大幅な変更や削除をともなうもの,また法改正自体に批判的もしくは反対であるものについては,かかる手段選択がマイナスに作用する。

ともあれ「パブリックコメント」が,それを募る側の土俵であることを忘れてはならない。原則論からいえば,そうした相手の土俵に乗ってしまうことは,主権者としての国民,主体的存在としての市民としての立場を貫くことにおいては,本質的にプラスになるものではない。またかかるものを,その内実の如何に関わらず,組織・機関名で出すことについては疑問だ。「パブリックコメント」とは別に意見書なり声明などを出すべきではないだろうか。

主権者としての国民,主体的存在としての市民であるとの自覚を,常に想起しうち鍛えようではないか。

「交通」・「治安」を口実とした警察国家・監視社会にNo!を

今回の警察庁による道路交通法改悪策動において,とりわけ「自転車利用者対策の推進」に重大な問題・欠陥がみられること,その強行を阻止しなければならないことは繰り返すまでもないだろう。だがそれを他と切り離して単独でとらえ扱うことは適切ではない。「道路交通法改正試案」の他の箇所におけ問題・欠陥もさることながら,今般の社会・政治情勢の中でこれをとらえ返すことが必要だ。

「共謀罪」を凌駕する兇暴性

かかる厳罰化と適用範囲の拡大については,「共謀罪」との関係においても無視できないものがある。

厳罰化を進めれば,道交法においても「共謀罪」適用対象が増大する。かかるものは「共謀罪」のタテマエ的な趣旨からすれば必要とされないもののはずだ。「共謀罪」に批判的な声に押されて,その適用範囲を限定(当初の政府案では「4年以上の懲役・禁錮」に当たる619の犯罪を一律に対象としていたものを,「テロ」「薬物」など5類型の約120〜150に絞り込むとしたが,「児童買春」や「有価証券偽造」なども含むなど,依然「テロ等謀議罪」の範疇を超えるものが数多く含まれている)するようになったが,警察権力濫用の危険性がなくなったわけではない。一例を挙げると,飲酒・酒気帯び運転にかかる「同乗罪」・「幇助罪」のごときからだけでも,警察官及び警察当局による恣意的判断の余地と適用対象が大きくなっていることが判るだろう。しかもそれらは「共謀罪」を適用しなくても,それと同様の,あるいはそれをもしのぐ危険性をもたらしうるものだ。

もちろんこうしたものは歩行者・自転車利用者などにもふりかかる。道路交通法は,公道上の交通の安全と円滑化のためだけに機能させられるものではないことを忘れてはならない。文字通りの目的・趣旨だけのために適用・運用されるものでないことは,他の法令でも同様だが,かかる恣意的拡大適用は,警察官及び警察当局の利権増大化のためになされるのみならず,市民の自由意志に基づく自発的なさまざまな活動を弾圧する口実・手段として用いられる常套手段だ。そしてその手段として使われる法律は,治安維持法の再来=破防法だけではない。一切の法律,とりわけ規定内容が曖昧漠然としていて恣意的解釈の余地が大きいものがそれに使われるものであることを忘れてはならない。

条文上に明記された適用拡大のみならず,恣意的裁量の余地を拡大し,もしくはあらたに作り出すことで,権力者にヨリ強大な兇器を与えることになる。かかる厳罰化と適用範囲拡大は,まさに形を変えた「共謀罪」として,良心的主体的市民に振り下ろされる匕首となる危険性を孕んだものであることを,ハッキリと読み取り,これを弾劾するものでなければならない。

道路交通法の厳罰化や罰則適用範囲の拡大は,交通の安全円滑に寄与しないだけでなく,かかる権力者的濫用の手段たらしめるものであることをハッキリと見抜き,それにたいする阻止と弾劾のうねりを作り出すことが,主体的市民の緊急かつ重大な責務である。

今こそ主体的市民の責務を全うしよう

監視社会化・警察国家化の動きが陸続と強行・強化されている現下の情勢にあって,それらの中には,軽微な犯罪から「テロ攻撃」に至るまで,「治安」を口実としたものが目立つ。だが「交通」も口実として,ふるくから利用されてきたものであることを忘れてはならない。今回の警察庁の動きは,「交通」を口実とした人民大衆の上からの組織化と相互監視の強化を,自らのセクショナリズムの貫徹を通して,画策するものである。まさに警察国家・監視社会の強化をもたらすものにほかならない。

かくのごとくとらえ返すことによって,自転車を対策の対象へと落とし込めることに,その矛盾がもっとも集約されていることが解る。これは自転車及び利用者にとって不幸なことであるが,同時に,もっとも矛盾が集約されたところから情況を変革することの意義は極めて大きく,主体的市民としての責務もまた重かつ大である。

自転車及び利用者がおかれている否定的情況は,他の交通移動主体及び手段選択との間において矛盾・対立させられているという構図の中に落とし込められていることにも,一局面となって現れている。このことを自覚しなければ,それはすなわち自他を陥穽へと導くものであるといわねばならない。

またこの自覚は,単に交通移動主体・手段選択間におけるものにとどまらず,多様性を内包した主体的市民の一翼を担う存在としての自覚とならねばならない。情況の変革は,変革すべき対象への働きかけとともに,変革の主体の成長をも同時に勝ち取ってゆくものである。

警察庁による自転車“対策”を弾劾し,道路交通法改悪を阻止するとともに,これを「交通」・「治安」を口実とした一切の警察国家・監視社会の動きに,「No!」を突きつけてゆく過程として取り組んでゆくものでなければならない。

これが主体的市民としての責務である。

(2007.5.15)

参考

警察庁による自転車“対策”・道路交通法改悪策動関連資料
警察庁発表資料,自転車関係団体・個人の動き,マスコミ報道棟に関してはこちらをご覧ください。

TV番組「ご近所の底力」批判
自転車敵視・蔑視番組の例。「自転車対策検討懇談会」座長・岸田孝弥は,ここでも妄言を繰り返していた。
フジテレビ番組における自転車蔑視発言を弾劾する
自転車敵視・蔑視番組の例。「“暴走”自転車」バッシングでの煽情ぶりは,上記「ご近所の底力」に勝るとも劣らないものがある。
書評『自転車市民権宣言』
この間いち早く「自転車歩道通行義務化に反対」を表明した自転車活用推進研究会が協力,同会事務局長が共著者となっている。その認識・視点・立場を読み取る必要がある。
書評『自転車利用促進のためのソフト施策』
著者・古倉宗治は「自転車対策検討懇談会」の委員に名を連ねている一方,NPO法人自転車活用推進研究会(略称:自活研)理事でもあることから,自活研関係者は古倉を他の「自転車対策検討懇談会」の委員と切り離して擁護しようとしている。

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