TV番組「ご近所の底力」批判・2

TV番組「ご近所の底力」批判・2
(NHK総合テレビ 2008年度金曜20:00〜)

敵対と欺瞞だらけのお困り番組にレッドカードを!

難問解決! ご近所の底力」は,一時期レギュラー番組から外れるなどしていたが,受信料支払い拒否が相次ぐ契機になったNHKをめぐる不祥事の連続による広範な社会的非難の嵐が過ぎ去ったと思ったのであろうか,レギュラー番組として復活するとともに,その低俗性をいっそう顕わにした。そうしてほとぼりがさめたとでも思ったのであろうか,4年ぶりに自転車敵視番組に手を染めた。

出演者の顔ぶれが変わり,粗野な煽情ぶりを申し訳程度に抑えたつもりかも知れないが,番組の構成や姿勢において,基本的には何ら変わるところはなく,バラエティー番組において,かかる題材を採り上げること自体のもつ不適切さと犯罪性を,いやがおうにもいっそう明らかにした。

例のごとく「お困りご近所」なる集団をスタジオに集め,彼らが敵視する対象を罵倒させ,司会者らレポーターの芸人がそれを煽り,それに「専門家ゲスト」なる者の言辞をもって一見もっともらしい粉飾を施すというスタイルは相変わらずだ。

また少なからざる部分において,以前採り上げたものや類似したもの,近接する地域に関するものなどが散見される。まさにこれらは,かつてナチスの宣伝相ゲッペルスがいった「ウソも百回言えば本当になる」式のファッショ的犯罪性をもったものといわねばならない。いやそれ以前に,バラエティ番組,お笑い番組としてもマンネリの,賞味期限・消費期限切れの番組だ。

歩道を走る自転車は危ない車道へ!?
「危ない!歩道を走る自転車」(NHK総合テレビ2007年10月7日放送)

約4年ぶりに本格的に自転車敵視番組手を染める中で,かつてそのターゲットを“放置”自転車から“暴走”自転車にシフトさせたのを引き継いでか,自転車走行をやり玉に挙げた。また“暴走”自転車だけでなく,広範にターゲットを広げ,自転車の走行環境についての理性的・建設的議論を妨げるものとしている点で,新たな悪質さを帯びている。

本当のねらいはどこに?

この番組のねらいはどこにあるのか。その本音と建て前をまず探っていこう。

 自転車で歩道を走ると、道路交通法違反になるって知ってました?自転車は「軽車両」なので、本来車道の左端を走らなくてはいけません。「自転車通行可」の標識が出ている一部の道を除いて、歩道を走ってはいけないのです。しかし現実は、ありとあらゆる歩道を自転車が占拠。さらに二人乗りや、メールしながらの片手運転など、運転マナーも最悪です。歩道での自転車と歩行者の事故は、ここ10年で7.5倍に急増、去年は3人の死者まで出ています。
 歩道を走る自転車を減らして、歩道の安全を取り戻すことなんてできるの?それが「ご近所の底力」でできることを、今回は証明いたします!

建前的には自転車車道通行の原則を説こうとするつもりなのかも知れないが,かかるものと理解していいのか疑問な代物だ。バラエティー番組にかかるものを説く資格がないといってしまえばそれまでだが,実際のところでは,自転車にたいする歩行者の敵対感情を煽るもので,この番組の出演者・制作者の最大公約数的ホンネがそこにあると理解するのが妥当だ。

また「運転マナーも最悪」としているが,これまた的外れだ。その内実は「マナー」の問題ではなく,道路交通法ほかの「ルール」の問題であり,その走行場所がどこであるかにかかわらず,その内容次第では違反なり危険行為になるもので,ほかの場所であればいいというものではない。事実,特定の場所に集中してみられるのではなく,広範にみられるもので,そのことが問題ではないのか。

そしてその解決には,一方的に,己れの主観や感覚を「マナー」と称して押しつけたり,「ルール」を振りかざしたりするのではなく,自らと対等の人格と尊厳をもった市民として接遇し,かかる行為の自傷他害の危険性を理解してもらうよう努めるものでなければならない。

実態はどうなのか?

番組で採り上げられた箇所についてみていこう。

東京都江戸川区(小岩);懲りない常連「お困り」

ここで登場した「お困りご近所」は,JR小岩駅のすぐ目の前にある商店街周辺住民とのことだ。東京都の東端にある江戸川区の小岩地区といえば,番組に登場した中では実質的に最古参だ。「ご近所の底力」の前身番組「妙案コロシアム」において,自転車及び利用者にたいする敵対的感情と挑戦的姿勢を顕わにしてぶつけて以来の懲りない常連「お困りご近所」だ(「TV番組「妙案コロシアム」批判」参照)。かつて「“放置”自転車」に敵意をむき出しにして罵倒した前科に加え,今回は走行する自転車へと標的を変えたが,その本質は同じだ。

商店街にありながらも,その自転車及び利用者が,買い物をするわけでなく,商店街店舗の売り上げに結びついていないので,八つ当たりしているのだ。同じ駅前にあるスーパーに客を奪われているという現状はあるが,集客に腐心している商店街が全国各地に数多くある中,既にやってきている人を顧客とできないというのは,あまりにもったいない。彼らを顧客として認識し,そのニーズにあった商品やサーヴィスを提供する。これが唯一最良の解決策だ。

東京都武蔵野市;何のための線引きと着色?

東京都武蔵野市は“放置”自転車“対策”の猖獗ぶりで知られてきたところで,この「お困り」番組でも,その前身番組以来何度も登場している(TV番組「妙案コロシアム」批判TV番組「ご近所の底力」批判武蔵野市における実例参照)。

武蔵野市は,自転車“対策”の猖獗ぶりで知られているが,これは,かつては革新自治体でもあった同市の市長に土屋正忠がなって以降になされたものだ。彼は区役所内部及び市民を煽情的に組織化して政権の基盤強化と長期化を画策し,その一手段として“放置”自転車“対策”を利用し,同じく“放置”自転車“対策”を通じた利権強化を目指す地方自治体−行政当局や首長が組織した「全国自転車問題自治体連絡協議会」の副会長を長く務めるなど,市内外を問わず自転車敵視政策に手を染めてきた。彼が市長を辞しゲリマンダー選挙で何とか衆議院議員に当選するのをその余波を利用してのものと考えたのか,その在任中に採用され長く自転車“対策”に手を染めてきた市当局者−職員の利害追求によるものでもあろうが,現在の市長が自転車“対策”の利用を策するようになり,今日再び自転車敵視の強化が進められようとしている。こうした,土屋正忠市政積年の膿,負の遺産のひとつである自転車“対策”−敵視路線という政治的背景をふまえて警戒したい。

これまで武蔵野市の自転車“対策”といえば,市内随一の商業地である吉祥寺近辺の“放置”自転車“対策”を主にすることが多かった。しかし今回は,同じ武蔵野市内でもJR中央線で一駅西にある三鷹駅北口に通じる道路のひとつを採り上げている。


車道の端に線引きと着色がなされた「文化会館通り」 (2009.9.24)

車道の左端をカラー舗装して「自転車レーン」にしたというもの。もっともこうしたものは最寄り駅から文化会館にいたる道路の一部で,しかもその間の歩道の幅は一定でなく,中にはないところもある。歩道も滑りやすい材料でつくられている。またカラー舗装部分も滑りやすく,安っぽい景観を利用者の安全を犠牲にして形成している。方向別で幅や表示が異なる「自転車レーン」は,その通り認識され利用されているとはいえず,路上駐車場所になったり,歩道の段差や傾斜,滑りやすさを厭う車いすや歩行者が利用している。

武蔵野市内は,吉祥寺駅前こそ広い道路があるが,その他では都道レヴェルでも2車線で,歩道も狭かったり路面状態がよくなかったりするところが多い。また駅から徒歩数分のところは既に住宅地であり,その中に公共施設や学校などが点在する。こういったところの道路はセンターラインのない,路側に歩行者通行帯が線引きされている程度の,典型的な住宅地の生活道路であるところが多い。ここで採り上げられている「文化会館通り」も,基本的にはそうしたひとつだ。名前がついているからといって特別広かったりするわけではない。

「車道の左端をカラー舗装して」「自転車レーン」を示したところ「歩道を走る自転車が、ほとんどなくなりました」として,自転車車道走行の原則に則ることで「自転車が歩道を走らない通り」を実現した成功例といいたいようだが,その実態と成果はどうであろうか?

この「文化会館通り」のほとんどの部分は路側をカラー舗装して自転車通行帯として示しているという点では,事実だ。だがこれから段差と植生をもって隔てられた歩道があるのはその一部で,しかもそれは一部の公共施設に接する部分で,その敷地をセットバックさせてひねり出したもので,当然断続的でしかない。ある程度以上の距離を走行しようと思えば,もともと自転車はわざわざ通らないところだ。元々の傾斜に加え,そういった路面を滑りやすいものにしたために,いっそう自転車も危険で通りにくくなり,その結果自転車の通行量が減ったことは考えられる。

それは同時に,歩行者にも歩きにくく危険をもたらしかねないものだ。また車いすの通行にはなおのこと不便で,バリアフリーに逆行するものだ。自転車“対策”がバリアフリー化を妨げ,これにに逆行することが多いのは,武蔵野市の特徴である。この通り沿いに福祉施設があるが,その前には反対側に歩道があるが,車いすではその歩道に行くことが難しく,自転車通行帯を車いすが利用している。

自転車通行帯とされいる部分は,道路の両端に一応あるが,その幅や表示のしかたは異なる。広い問い頃では自動車の1車線分近くあり,李常駐者の格好の場所となっている。その一方で歩道よりも狭く,実質的に1m未満のところもある。ここからはみ出さずに通行することは至難の業だ。この通りでは,自動車は北向きの一方通行であることから,車道の左端を自転車通行帯としたというだけならこれも一方だけでもいいという理屈なのだろうか。実際,ほとんどの自転車は車道を走っているが,自転車通行帯を走っている自転車は極めて少ない。車道を左側通行の対面通行していると言っていい。

もちろん自動車が来れば自転車は各々の方向の走行帯に入ることになろう。しかしながら場所や方向によっては難しい。一定以上の幅と一貫性をもった設定が必要だ。

また,この通りでは,附近に短い間隔で並行路が何本も通っている。道幅もさほど変わらない。うち1本は自動車を南側一方通行にして,この通りとペアにしているのだろうが,それにとどまらず,何本かの並行路をひとつのまとまりとして,自動車を優先する道路,自転車を優先する道路,歩行者を優先する道路というようなかたちで性格分けするのもひとつの方法であろう。ひとつの道路空間を自動車・自転車・歩行者で配分するには限界があり,そのための議論や政策が各々の間での相克・対立を煽るだけになる場合も少なくない。こういった陥穽は避けねばならない。その場合には,大局的見地からの解決が求められよう。

東京都三鷹市;思想統制+カツあげ

JR中央線三鷹駅南口とその周辺が問題の場所だ。同駅附近では玉川上水が北西から南東にかけて線路とほぼ並行しつつクロスしており,これをはさんで北が武蔵野市,南が三鷹市となる。

玉川上水と中央線によって隔てられ,2市に分かれているが,これを一体の地域とする可能性がなかったわけではない。両市の合併協議がなされたこともあったほどだ。地元選出の衆議院議員の選挙区も,中選挙区時代はもちろん小選挙区制になってからも同じくし,両市にわたる地盤を持つ候補が有利になっていた。それにたいして武蔵野市のみに基盤を持つ候補を対抗馬として擁立したのにくわえ,前者の基盤を奪おうと,両市を別の選挙区にしたが,いずれの選挙でも前者が勝利をおさめている(後者は比例復活当選)。この両名の候補とは,前者が,民主党代表代行・菅直人(中選挙区時代から市境近くながら武蔵野市に属する三鷹駅北口に事務所を構えている)で,後者が,“放置”自転車“対策”への狂奔ぶりでは全国の自治体首長でも五指に入ると言っていい,前武蔵野市長・土屋正忠である。こうした政権党が自らの有利になるよう選挙区を変更することをゲリマンダーというが,その結果,武蔵野市と三鷹市は政治的にも分断され,つながりを希薄化した。

もっともこれは,武蔵野市の自転車“対策”の影響が及ばなかった,三鷹市側の自転車利用者にとっては幸いなことであった。

自転車利用をめぐる環境も大幅に異なる。線路の南北は橋上駅の通路や駅西側のやや離れたところにある,三鷹電車区をまたぐ鉄橋(同地で晩年を過ごした太宰治ゆかりの鉄橋として知られている)などで歩行者は往来可能だが,自転車は地下通路,その他の車輛はさらに離れたアンダーパスを通らねばならず,南北の行き来は限られる。また三鷹市は,おおむね平坦な地形であるが,市域の周辺を鉄道に囲まれ市境附近に利用可能な鉄道駅があるという特殊性に,自転車政策及び対策も規定されている。


無料から登録制に変えられた駐輪場(左),駅から遠く依然無料の駐輪場(右) (2009.9.24)

もともと三鷹市では,駅附近での駐輪排除を強める一方で,駅から離れた駐輪場を無料にしていた。登録制にしたのはそういったところであり,有料化に加え,利用者を思想統制ばりに選別したことになる。

三鷹市の商業中心地はJR三鷹駅南口を中心とした地域で,駅前附近こそ駐輪阻止が強化されている(そのための市当局の口実のひとつに「市が策定したバリアフリー基本構想を実現する上での妨げ」というのがあるが,自転車を排除してなされる「バリアフリー」がその名に値するだろうか?)ものの,ほど近い商業地域の空き地を利用した,短時間利用をもっぱらとさせる買い物客向けの市営駐輪場が無料で利用可能であったり,駅から徒歩10分以上はかかるであろう遠さのところでは,無料で誰でも利用できる駐輪場もある。こういった自転車利用環境は,同じ三鷹駅附近でも,武蔵野市に含まれる北口附近で,有料駐輪場が林立し,自転車及び利用者からの収奪を強化しているような情況とでは対照的だ。

また,利用登録にあたって,利用者側の情況を顧みることなく,利用距離が短い利用者を排除しているが,その口実のつもりであろうか「駅から比較的近い距離にお住まいの方は、健康のためにも歩くことを心がけてください」というに至っては笑うほかない。自転車利用の代わりに歩くことが「健康のため」になるという,医学的・生理学的根拠について説明してみるがいい。これだけでも三鷹市当局者のばかげた資質を示している。こういった者に自転車利用のあり方を規定したり,説いたりする資格はない。

もっとも,市営駐輪場の料金(一般1月2000円はまだしも1日利用の料金が150円からというのは高い)や“放置”自転車の返還費用(2500円)などからして,大衆収奪や強制力の行使などだけなら北隣の武蔵野市や東隣の杉並区より幾分マシだが,自転車の利用のあり方への介入という点で,看過できないものがある。

この「登録駐輪場」の料金は,上述の市営駐輪場とは異なり,三鷹市民では「一般3000円 学生2000円」,それ以外では「一般4000円 学生3000円」を「登録手数料」年度単位で取るとするものだ。しかも「登録駐輪場」の多くはもともと無料利用できたものであり,市の広報物ではまだ無料駐輪場とされているものも既に「登録駐輪場」変わっているものもある。まさに駐輪場の有料化拡大にほかならない。

現在のところ三鷹市では,JR三鷹駅周辺以外の駐輪場は無料だが,いずれも隣接市区近くにあることから,市外からの自転車及び利用者の流入を抑制したいというのがホンネだろう。そのため,武蔵野市などと自転車対策において共謀しているところもみられる点で,大衆収奪強化・拡大とともに,警戒しなければならない。

三鷹市当局は,大衆収奪以外にも,さらなる権力を自転車及び利用者の上に振りかざすようになった。そのひとつが「三鷹市自転車安全講習会」なるものを行い「三鷹駅周辺登録駐輪場の優先権」を与えるというものだ。

「講習会」は「概ね1時間」で,「自転車安全講話/自転車安全ビデオ上映/自転車マルバツ式テスト(全10問)/自転車事故の代償等について/自転車点検整備要領」などといった内容だとしているが,その内容が現下の同地における自転車利用の実態に即して,自転車及び利用者の益に寄与するものであるかは疑問だ。むしろ,行政当局としての権力をもって,個々の市民の内面に介入する,思想統制的性格を含んだものである点でも,厳しく批判されねばならない。

見落としてならないところのひとつに,三鷹市での交通事故のうち自転車の事故が20%を占めるとするものだが,ここに同市での自転車利用環境が端的に示されている。鉄道同様交通量が多い幹線道路は市中心部にはなく周辺か近隣市外にあるため,自動車の通行量自体が少なく,自動車の事故の比率及び絶対数が少ないことが理由のひとつだ。

また三鷹市及び近隣において幹線に準じる都道クラスの道路では,側道や歩道が狭く,路面状態もよくないところが多く,自転車通行がしづらいことを忘れてはならない。自転車事故の最大の原因は,利用者や他の交通主体ではなく,道路などのインフラによって惹起せらているものだ。三鷹市当局は,申し訳程度の自転車道整備を行いつつ,その不足を利用者の責に転嫁しようとしている。これが三鷹市における自転車対策の基本姿勢であり,「三鷹市自転車安全講習会」なるものの存在理由だ。

三鷹市民及び三鷹市での自転車利用者の名誉のためにいっておこう。この「講習会」いかんにかかわらず,三鷹市の自転車利用者が交通ルールを無視したり危険運転をしたりすることが多いなどとする客観的資料も証拠もない。問題のすりかえと責任転嫁だ。

自転車敵視番組に大迷惑!
「放置自転車に大迷惑!」(NHK総合テレビ2008年2月10日放送)

さらに約半年を経て,いよいよ“放置”自転車に刃を振り下ろした。その言辞が,これまでのデマの上塗り的マンネリもあれば,新たな危険性をったものも含まれている。

錯誤とスリかえに満ちた「お困り」

かかる中で持ち出された今回の「お困り」はかようなものだ。

 赤羽駅周辺は、一昨年の東京都の調査で、都内で一番放置自転車が多い地区となりました。午後4時頃の放置自転車の台数は、およそ5千台。駅前の広場や商店街を、所狭しと自転車が埋め尽くすほどです。
 その放置自転車が、今、赤羽に深刻な被害をもたらそうとしています。例えば、救急車が放置自転車のために通行できず、遠回りする事態が発生。さらに、視覚障がい者の方々が、点字ブロックの上に放置された自転車のために、道に迷うことも頻発しています。命を守るための仕組みが、放置自転車によって妨げられ、命を奪うことにもなりかねない状況。そこで、今回、赤羽駅周辺の皆さんがスタジオに参加し、放置自転車を減らし、最悪の町を脱するための方法を探ることにしました。

この錯誤とスリかえについてみていこう。

“放置”自転車の調査はどのように?

そもそも“放置”自転車の調査はどのようなされるのだろうか。直接“対策”にあたる市区町村のそれはまちまちで,恣意的なものも少なくないが,それらの枠を越えたものでは一応比較のため一定の基準でなされる。もちろんなるべく大きい数字を出したいことはいうまでもないが,“放置”自転車の主たる“対策”の対象が,通勤・通学などのため鉄道駅周辺に,一定の長時間おかれるものであることから,それをターゲットにした方法と基準でなされる。5月の晴天の平日の11時頃というたっているものもあるが,東京都以外でもおおむねそれに近いものであろう。

それにたいしてここでいう「午後4時頃」は,通勤・通学のための自転車の一部は既にいなくなり,替わって買い物客等の自転車がやってくる。通勤・通学のための自転車は,“放置”自転車の主たる“対策”の対象として,“撤去”して返還費用を取ったり,有料駐輪場の利用強要などという形での大衆収奪などを行う上でのうま味があるわけだが,買い物客のそれにたいしては,“対策”することが,かかるうま味は少なく,むしろ商業地の営業・集客に支障・ダメージを与えることになるのだ。一定の冷静さをもってすれば解ることだが,そういった歯止めをも無視・突破しようというのが,この「お困り」の妄言・暴挙なのだ。

緊急自動車をダシにしたデマ宣伝

救急車云々ということが述べられているが,これと同様のデマゴギーは以前にもなされており,そのデタラメぶりは既に述べたとおりである(「TV番組「ご近所の底力」批判」参照)。したがってここでそれを繰り返す必要はないが,これによってスリ替えられ,隠蔽されているものについて若干触れておこう。

そもそも救急車に限らず緊急自動車一般についていえることだが,緊急自動車として運用する際は赤色灯とサイレンの使用が必須であるが,それによっていっさいの交通規則の遵守を免除されるわけではない。たとえば法定制限速度はあるし,一方通行も守らねばならず,赤信号や一旦停止標識にあっても徐行して安全に支障なきことを確認の上初めて通過できるといった具合だ。

この種のデマ宣伝では,救急車以外にも消防車をダシにすることが多かった。しかし消防車をこの種のデマ宣伝に使いにくい事情がある。そのひとつは「火災調査」の存在だ。火災現場では消防が消火活動を行うのと並行して,火災そのものはもちろん消防活動の情況,火災発生・延焼拡大・死傷者発生の原因究明など,広範な調査を行う。事件性があれば消火後の警察の現場検証とあわせて行うこともある。こうした綿密な調査において,自転車が火災発生や消火活動妨害の原因者と特定されていれば,刑事・民事双方の重い処罰や賠償請求がなされていてもおかしくないが,そのような事例もない。消防活動や火災は,デマ宣伝のネタに使う余地はほとんどないのだ。

本当の問題は医療崩壊だ!

何より忘れてはならないのは,救急及び地域医療をめぐる否定的情勢である。搬送すべき患者を乗せたままいくつもの救急指定病院から受け入れを断られ,たらい回しにされ,時には地域や県境を越えて長時間あてどもなく走り回るさまよえる救急車,現有患者の処置で手一杯であるとして救急患者受け入れを断ったことで非難を受ける救急病院といった問題は,何も大都市からいくぶん離れた周辺部や地方都市だけの問題ではない。

東西に長い東京都では中央部に近い北区においてもその例外ではない。かつては幹線道路沿いなど,交通至便な立地にある病院では,経営面で有利になるとしてこぞって救急指定となろうとしたが,近年では機能維持の困難さから,都市部であっても救急指定病院自体が減少している。さらに,医大における医局制度や医学生の研修制度が変えられたことから,医師や看護師といったスタッフの確保が困難になる病院も多い。この北区でも救急指定の返上や診察科目の縮小にとどまらず,病院自体の廃止に追い込まれた例がある。ある大学医学部が派遣した医師が一斉に引き揚げられたため,救急のみならず東京都災害拠点病院に指定されていた区内最大のベッド数を誇った東十条病院が2007年10月に閉鎖し,2004年に移転統合された国立王子病院の跡地に設立された東京北社会保険病院が運営主体である社会保険庁解体に伴って存亡の危機に立たされるなど,救急・地域医療崩壊において,大規模な事例が相次いでいるという点で,とりわけ深刻だ。

かかる救急・地域医療をめぐる一般的問題は,この北区においても,決して例外ではなく,深刻であり,それから目をそらせることは許されない。この「お困り」言辞による錯誤とスリかえの犯罪性はまさにそこにある。これらの錯誤とスリかえこそが自ら「命を奪う」ような「最悪の町」をもたらした元兇にほかならない。

いかにマインドコントロールするか

こうした俗悪番組に限らず,“放置”自転車の“対策”といえば,敵意むき出しの罵詈雑言や,「ウソも百回いえば本当になる」式のファッショ的デマ宣伝のまき散らしによって行われるのが常だ。その一形態をここでみていこう。番組では「専門家ゲスト」なる者の言として,このようなものがあげられている。

  自転車を放置する人の多くは、「放置するのは悪いこと」と知りながら、出来心で止めています。そこで、対策の鍵は、放置する人の「後ろめたい気持ち」に訴えかけられるかにあります。
  それは、「放置自転車は悪いこと」と思う気持ちが高まり、相手が自発的に駐輪場に止めたくなる、「きっかけづくり」に重点を置き、対処することです。

一瞥して,自転車及び利用者を,自由意志とニーズに基づき,合目的的行動を行う主体として認識するという姿勢はみられず,無根拠かつ盲目的に所与の前提として「“放置”自転車=悪」という図式を措定し,これをいかにマインドコントロールして押しつけるものであることは明らかな代物だ。

土木的発想からの“対策”にNO!

この言を吐いた藤井聡なる人物は,土木工学を本来の専攻としており,かかるところから自転車のみならず,歩行者・自動車のいずれにおいても,交通移動主体として認識することなく,固定物・構造物内を動く物体程度の認識・位置づけだ。たとえていえば,堤防をいかに築くかを主眼として川の水を対策の対象とみなすのと同じということになろう。この人物に限らず,土木専攻者や土木をプロパーとする者は,交通移動主体をそれと認識せず,スタティックに位置づける一方で,インフラ整備のためにコストを嵩ませ,利権を大きく生み出せるところから,“対策”にはもってこいの存在だ。地方自治体−行政当局において自転車“対策”を土木部門がになうところでは猖獗を極める傾向にあるのも同じ理由だ。

もちろん政策(policy)」と“対策(countermeajure)”は全く似て非なるものだ。求められるのは「政策」であって“対策”ではない。自転車に限らず,市民主体の交通「政策」のためには,“対策”を阻止し粉砕しなければならない。かかる土木畑の者にはイエローカードなりレッドカードを渡すことが求められよう。土木的発想を排して,交通移動主体から出発した真の「政策」を構築し,現実化しなければならない。

ムチで敵対,アメで分断

交通工学を専門とする者は多数いるが,その方法や視点は千差万別だ。また交通心理学なるものもあるが,これはヒューマン・エラーによる事故や障害をいかに予防し抑えるかといったことを課題とするものだ。だが,この人物は近年の専攻を「交通社会心理学」と称しており,その内実たるや上述の出発点を緻密化したものであって,視点・方法など基本は変わらない。むしろ土木的成果の造出それ自体よりも,その妨害要因の排除に主たる関心を移してきたといえるだろう。

そもそも自転車“対策”において,合理的根拠をもとにして行われることは皆無に等しい自らと異なる他者の存在にたいする嫌悪感から出発することが多いのは,このサイトでも既に繰り返し述べたとおりだ。社会心理学ではホームレスにたいして向けられる嫌悪感の理由として説明されることが多いものだ。自転車にも同様の感情が向けられていることを認め,それを人道的見地から解決するのが,本来のあるべき姿だろう。だがここでは,全く異なった,反人民的立場にある。

かかる合理的根拠のない,単なる嫌悪感から出発したものを,その非合理性・非人道性・排他性を没却し,その対象を無批判的に「悪」と決めつける意識をすり込もうとしているのだ。これが「“放置”自転車=悪」という図式が拠って立つところだ。これを,時には強制力という「ムチ」をもふるいつつ,マインドコントロール宜しくすり込もうというのだ。

「ムチ」をふるう一方で「アメ」をなめさせることも企んでいる。番組でも,いくつかのサーヴィスを興味本位的に紹介しているが,自転車利用者と商店側のいずれにおいても真の利益はない。ただ,選択的・選別的に,個別具体的インセンティヴを与えることで,自転車及び利用者間の分断を謀るというものだ。商店側にあっては,個々の商店,もしくは一定の地理的・空間的範囲の商業地を一体として,顧客の囲い込みを目指すものでなければ,利益に結びつけられることはない。またこれが有料の市営駐輪場の利用強要することが前提となっていることを見落としてはならない。その不条理さを問題にすることなく,それに目を向けさせることなく,砂上の楼閣ともいうべき虚構の上にあるのが,この犯罪的自転車“対策”の本質的原罪といわねばならない。公営駐輪場が有料であることは,公衆便所が有料であることと同じくらいの不条理であることを,前提として今一度想起しよう。

実態はどうなのか?

番組で採り上げられた箇所についてみていこう。

東京都北区(赤羽);自転車敵視が招いた「深刻な被害」

東京都北区における敵視姿勢マル出しの自転車“対策”の全般的情況は別項で述べたとおりだ(東京都北区における実例参照)。また今回の「お困り」の背景にあって,耳目を逸らされている問題が医療危機・医療崩壊であることは,上述の通り明らかにした。以下,ここでは赤羽地区に即して述べていこう。


赤羽駅西口(左),東口駅前から続く商店街(右) (2009.9.11)

赤羽駅はJR東北本線をはじめ京浜東北線・埼京線が集まる東京の北の玄関口というべき立地だ。北区内においてもほぼ北端に位置するが,西側には近くまで台地が迫り,平地が広がるのは東側だ。駅西口では商業施設は駅近くに集中する。

赤羽は北区のみならず東京の北の玄関口だが,商業地区であるため,駅西側近くと,東側に延びる商店街に沿って,人が集まり,自転車利用のニーズもこれに規定される。赤羽駅高架化が完成し,高架下の利用が進むと,駅の南北に鉄道関連施設だけではなく商業施設が延び,人や物の流れも変わっていった。またいくら駅の南北に商業地が延びたといっても,その端部にまで人が流れるわけではなく,さらに駅から離れたところにある,見えづらく,不便で,時には危険な有料駐輪場の利用を強要する形になっている。


赤羽駅東側にある西友の裏側(左)とダイエーの正面附近(右) (2009.9.11)

駅からほど近い西友は店舗前・周囲はもちろんはす向かいの公園にまで来客の自転車が広がるほどの集客ぶりを示すが,商店街のアーケードの東端の駅から離れた場所にあるダイエーは,近隣商店のそれを含めても集客力において厳しさを示している。こうした付近の住民・商店経営者が自転車及び利用者にたいして熾烈な八つ当たりに出るところから“放置”自転車問題が生まれるということは,広範にみられる現象だ。

赤羽駅西口附近は,周辺部でいくらか商店の閉鎖はみられるものの,大きな変化はない。駅附近でみられる自転車が減っているとすれば,商店の集客力低下,住民の高齢化や人口減の反映であろう。一方東口側においては,商店街のアーケードが延びているが,駅から離れるにしたがって,人通りは少なくなっていく。それに劣らず走行していたり駐輪していたりする自転車の数の減少ぶりは著しい。駅東口近くと商店街東端のスーパーの周辺との違いだけでも,その情況は一目瞭然だろう。


赤羽駅附近のガード下の商業施設と駐輪場,北端近く(左),南端近く(右) (2009.9.11)

赤羽附近では,線路と高架が南北に延びており,駅の高架化が竣工したのちも,高架下の利用が進み,南北いずれも駅から離れたところまで延びていった。駐輪場も駅から離れた不便なところになる。既存の駅近辺の商店街などからはいっそう離れている。

駅から離れたところでは,自転車及び利用者は,通過者であり,その場所に目的や意味を見いださない存在ということになる。こういったところでは,自らの売り上げに結びつかない商店関係者による八つ当たりの餌食にされる。だがこれこそ彼らの自殺行為だ。「深刻な被害」を受けているのは自転車及び利用者にほかならない。その八つ当たりの口実たるや,単なる言いがかりの域を超えたもので,その点でも犯罪的であり,これまた自殺行為だ。繰り返しいうように,自転車及び利用者を顧客として呼び込むべく,そのニーズに即した商品やサーヴィスを提供すること以外に解決法はない。

東京都世田谷区・目黒区(自由が丘);「○○を置くだけで」失われたのは?

東京都区内で住みたい街の上位にランクされ,おしゃれな街というイメージがある自由が丘は,東急東横線と大井町線がクロスする自由が丘駅を中心に形成されている。自由が丘という地名は目黒区の住居表示にあるものだが,東急自由が丘駅周辺一帯をさしてこのように通称されるものであることから,世田谷区奥沢となる地域も含まれる。このあたりは,駅の南側,世田谷区側を流れる九品仏川に向かう沢地形となっており,いずれの側にも高台はなく,川に流れ込む水が削った残りが「丘」にみえるものだ。また駅周辺はもと沼地であった。


自由が丘駅の南側にある「グリーン・ストリート」 (2009.9.17)

「通りにベンチを置く」ことで「放置自転車を防」いたと喧伝した場所。九品仏川の暗渠部分をプランターとベンチで囲んだもので,その周囲や周辺も含めて駐輪需要は多い。この附近の樹木は葉が小さいもので木陰が非常に少ない。監視強化のため見通しの悪い箇所をなくそうというものだ。

昭和戦前には竹藪と沼地であったものが,1970年代までに,東急資本によって開発され,今日では,服飾・雑貨を売る店やレストランが住宅街のところどころに点在する洗練された街並みを特色とする,住宅地と接近した商業地が形成されている。こうした街の性格と特徴が,住民にとって便利なものとして機能しているかが,今まさに問われているといわねばならない。


自由が丘駅の南側にある「グリーン・ストリート」(左),緑が丘よりの公園近くの九品仏川緑道(右) (2009.9.17)

自転車やバイクで,駐輪し休息に利用するニーズは高い。商店の看板等もみられるが,その敵対的姿勢が故に,集客と売り上げ増加に結びついていないことを,この景観が物語っている。これが店関係者による自転車及び利用者への八つ当たりをいっそうエスカレートさせてゆく。同じ九品仏川の暗渠でも,緑が丘よりのところでは,公園・緑道らしくなっている。

九品仏川の暗渠は,自由が丘近辺だけでなく,その周辺まで延びているが,自由が丘駅近辺の商業地に接する部分で,緑道の外側に背を向け,互いに向かい合わせる形でベンチをおいている。これが「通りにベンチを置く」ことで「放置自転車を防ぐ」とするものだ。だがここには,それ以上に大きな問題が潜んでいる。相互監視する視線の設定だ。

暗渠上の左右に向かい合わせに並べられたベンチは,利用者が相互に向かい合うのみならず,その昼間部にあってはこの両方及びその外側からの,あらゆる方面からの視線が向けられる。緑道のほとんどは桜の木だが,この近辺のそれは,特別樹齢が若いわけではないが,葉が小さくまばらとなっている。これは可視化を促し,監視する視線をいっそう強化し緻密化するものだ。葉が茂る夏場にあっても,建物の影が伸びる夕方近くまでは,緑道上で木陰になる場所は非常に少ないことに,一瞥して奇異さをおぼえるだろう。このことは,件の「グリーン・ストリート」と称する部分と九品仏川緑道の他の部分,とりわけ公園近くとの対比においていっそう明らかだ。


東急ストア自由が丘店附近 (2009.9.17)

自由が丘地区で最も大きい集客力があるのが,駅東方面にやや離れたところにあるこのスーパーだ。周囲の自転車がそれを物語っている。だがこれも純粋にこのスーパーや附近の商店の集客力を物語っているのではなく,駅南側の「グリーン・ストリート」のごとく,自転車の放逐がエスカレートした地区から流入したものである。

自由が丘近辺では,駅の全方向に商業地が広がっているが,件の九品仏川沿いはメインストリートではなく,むしろ南側の周辺部であり,その北側に並行する,駅から東へ延びる通りに比べると,こちらの方が商業地としてはメインであることが判る。むしろメインの商業地・通りへのアクセスを妨げられた自転車が,緑道沿いにやってきていたもので,かかる自転車及び利用者にたいする緑道沿いの商店関係者による八つ当たりであることは明らかだ。


自由が丘駅南側(左),西側(中),北側(右) (2009.9.17)

自転車放逐に狂奔する一方で装飾の一部に利用するショップも目立つが,これが自転車及び利用者を利するに至っていたいところが残念。自転車利用が地域の活性化と高い相関関係にある地域や,放逐の痕跡がその無益・空疎さを示しているところもある。

実際には,放逐されたとする自転車は,別の周辺に移動しただけで,自転車での利用アクセス自体までは,さほど妨げられていない点では幸いだ。また,自由が丘の他の部分では,自転車及び利用者と共生しているところ,自転車を放逐するあまり賑わいまで失ったところなど,さまざまだ。

ベンチを置くだけで失ったものは,この街に行き交い暮らす多くの人々の自由だ。

福岡市(天神);交通・集客競争のなかで

九州最大の都市である福岡市は,古代以来,朝鮮半島・中国大陸をはじめアジア各地に開かれた国際的港湾都市・商業都市としてさかえ,中世には堺と同様に有力商人を中心とした自治が行われるにいたった,商人の町である博多と,これに隣接する形で近世初頭に建設された武士の町である福岡が,近代以来一体とされ,周辺の町村を包摂して形成され,今日に至ったものだ。

しかしながら現代の福岡市は,これとは大きく異なったあり方を示している。博多エリアにあるJR博多駅は在来線のみならず山陽新幹線の終着駅でもあり,九州と本州といった長距離間の交通の要衝となり,福岡エリアにある西鉄福岡(天神)駅は,福岡県内を主とした九州北部の交通の核となっている。ここをターミナルとする西日本鉄道は,九州最大の私鉄であるとともに,九州最大のバス事業者として,福岡市内・県内を網羅するバス路線をもつとともに,高速道路網を利用し各地を結んでおり,九州内の交通の要衝であると言っていい。

こうした地域が天神と呼ばれ,九州最大の繁華街を形成しているところだ。西鉄のターミナルやもともと地元資本であった九州地域最大の百貨店岩田屋を中心にした商業地であるとともに,新たな文化の発信地ともなってきた。ちなみに,九州で初めてストリートミュージシャンが活動したのもこの地で,外山恒一その先駆者とされている。

こうした天神地区の置かれている情況は,厳しいものがある。バブル崩壊以降の全国的な長期不況は言うに及ばず,ターミナル再開発に伴う西鉄と放漫経営の岩田屋との確執は,この地区の商業地としての地位を低下せしめた。既存の鉄道・バス路線を侵蝕し競合する形で延びてきた福岡市営地下鉄の存在も無視できない。九州新幹線博多延伸を控えた博多駅ビル建て替えにおいて,先に撤退した,やはり地元資本であった井筒屋にかわって,本州資本の阪急百貨店の進出が決まるなど,天神地区は,博多駅周辺との抗争激化にさらされ,地元商業資本そのものが危機的情況にある。

そうした中で,鉄道・バスといった,地元資本からなる既存の公共交通機関に依存した集客から,自転車及び利用者を,ようやっと顧客として認識しようとするに至ったといえよう。しかしながら,その基本的枠組において,福岡市当局によって強化されてきた自転車“対策”の範囲内で,従来,百貨店などの大規模小売店舗が,自動車来店者に行ってきたサーヴィスを敷衍するような形でなされているといわねばならない。

一部の大規模小売店舗による顧客囲い込み策としては,自動車来店者向けのサーヴィスと同様・類似のものをもってしても,一定の効果を得ることになろう。しかしその一方で同地域の他店舗にとっては客を奪われることになり,新たな地域内競争の激化となる。この地域への自転車来店者は,何も一部の大規模店舗だけに行くわけではない。むしろ地域内を回遊しすることで,規模やジャンルを問わず,さまざまな店舗を訪れるのである。こういったショッピングの手段として自転車利用を選択するともいえる。自転車利用による地域内回遊の利便を高めることが,同じ地域の広範な店舗が,あまねく集客し利益を上げる道であり,自転車利用者ともども有益だ。この何年間かに猖獗ぶりを目立たせるようになった福岡市当局による“放置”自転車“対策”に盲従し,下支えするようなものであってはならない。

競争激化への危機感からとはいえ,ひとまずは,各地にありがちな,売り上げに結びつかない自転車及び利用者への八つ当たりに堕していないという点では評価できよう。しかしながら,顧客である自転車及び利用者のニーズにそった商品やサーヴィスを,地域の各種商店があまねく提供できなければ,またそれが継続的に行われ定着しなければ,成功へは至らないであろう。そのためにも自転車及び利用者からの信頼関係が取り結べることが前提だ。これとあわせて,直接商業的利益に結びつかないような文化創造と発信も大切にし尊重してゆくものでなければならない。これが今後の課題だ。

高松市;ほんとうに“もったいない”のは?

高松市は,長く四国島内の交通の要衝であるとともに,本州との連絡交通をになう交通の要衝であった。しかしながら,宇高連絡船が廃止され,本四連絡ルートが現在のように3ルートの橋で結ばれるようになると,その交通の要衝の地位から転落した。鉄道こそ瀬戸大橋線経由での岡山連絡がなされているが,最短距離ではなくなっている。また明石海峡大橋開通以降は,自動車道路によるそれも徳島に奪われた。

一方,高松近郊及び香川県内を中心とした公共交通機関は高松琴平電気鉄道(琴電)によってになわれてきた。かつて宇高連絡船の桟橋に通じていたJR高松駅から市街地中心部にやや近い高松築港駅をターミナルとし各地に路線を延ばしていた同社は,バブル崩壊に伴い関連事業が行き詰まり,ついには電鉄本体が破綻するにいたって,民事再生手続に入り,今日では一応その手続は終えた。その過程で,鉄道本体への利益重視の一方で,沿線地域の活性化や自転車を含めた他の交通手段との共生という視点は失われ,電車乗客には愛想が良くなったものの他には冷酷な姿勢ができあがっていった。

今日各地で,乗客確保のため自転車の車輛内持ち込みができるようにするなど,自転車利用者を呼び込む施策を進める地方鉄道が目立つ中(自転車をそのまま車輛内に持ち込めるようにするのは,地下鉄を含めた欧米先進国の都市交通機関で広く行われてきたもので,日本ではこれが赤字ローカル線などの地方鉄道の乗客獲得策として行われるようになっている),かかる趨勢から取り残され,さらにはそれに背を向けるかのごとき情況になった。

高松市内はもとより,その他の琴電沿線も多くは讃岐平野にある以上,平坦な地形が多く,瀬戸内海性気候と相まって雨の日が少ないため,自転車利用には恵まれた地域特性であり,それだけ自転車利用の需要が高い。四国ではこれまで,愛媛県松山市が,地方自治体−行政当局による“放置”自転車“対策”において突出した猖獗ぶりを示していたため,その陰に隠れたきらいもあろう。だが,高松市当局のそれは,猖獗ぶりではなく,その低劣さにおいて特筆すべきものがあるといわねばならない。

ここでは“放置”自転車を廃棄するかわりにレンタサイクルに利用するというのだ。この種の試みは既に行われているが,他の事例では無料であるが高松市では有料となっている。“撤去”などの“対策”にかけた費用は,利用者からの返還費用をもって充てるか,払い下げるかする以外に回収はできない。前者は行政当局が一方的に決められるが,つり上げれば回収率は低下するし,後者はその時々の相場に左右され,収入として期待することが難しくなる。そこで極力そのままの形で費用回収を目論んだというのがホンネだ。

レンタサイクルがいかに成功しているように装おうとしても,それが“放置”自転車に由来するものである以上,“対策”としては本質的に矛盾するものにほかならず,都市内交通移動手段のひとつとしてのそれとして認知され定着することは難しい。もしそうなるのであれば,そのためのリソース確保として“放置”自転車“対策”が,猖獗ぶりをきわめることになろう。ともあればかげた話しだ。

同じ自転車でも駐輪されずに利用されている限り“放置”自転車にはなり得ないわけで,個々の自転車の利用を促進することをもってその“対策”とするのは,その限りにおいて,論理的次元では整合性があるようにみえようが,本質的には,“放置”自転車“対策”を,ア=プリオリに所与の前提とする限り,いかなる解決もあり得ない。これは“放置”自転車“対策”それ自体の矛盾と虚構性によるものだ。

“放置”自転車“対策”それ自体の矛盾と虚構性に覚醒する。これが問題解決の王道だ。

(2009.10.9)

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