『自転車市民権宣言』で
こないなこと書いとったで

ホンネは自転車「利」・「権」宣言!?

「都市交通の新たなステージへ」ちうサブタイトルが附されたこの本は,自転車を「都市交通の中に明確に位置づける」(p.3)ことを意図し,「「自転車には正当な権利と義務が付与されているのか」という疑論が起こること自体が,この交通手段の置かれた現状を端的に示しているのではないか」(p.3)との問題意識から発してんとのことや。

問題提起や議論をこないなトコから出発せざるを得へんことが,やまとの自転車利用をめぐる情況が否定的であることを示すもんにほじぇったい,これを一部分なりとも明らかにするっちうことに,この本のレーゾン・デートルを見いだすべきやろう。そやかて,自転車および利用者が「市民権」を得ることについては,十分な定見を示したとはいへんし,むしろその覚醒を予防的に抑止する側面があり,ヨリ強力な権限を付与された,上からの指導の対象にしたろとおもう視点に貫かれたもんであるといわねばならへん。

京都議定書が発効し,温室効果ガス削減が求められはる中,その「第一約束期間である2008〜2012年までが,我が国の自転車にとちう,「都市交通」の舞台で脚光を浴びるケツのチャンスではなかろうか」(p.6)とし,空疎な危機感を煽り,冷静な議論の基盤づくりの機会を奪うような論調となっとる。むしろそうやったらこそ,個別具体的な議論の前に,市民権および環境問題についての深い認識を基盤にした議論が必要不可欠であるといわねばならへん。

この本の視点・立場

本題に入る前にまだ確認しておくべきことがあるんや。この本における「自転車関係者」認識と,視点・立場なんや。

「全国で何千万人という利用者が常時,自転車に乗っている。すべての人が環境や健康や経済のことを念頭において利用しているわけではない。そこには,多様な動機が複雑にからみ合っていることだろう。これに,国の関係省庁(国土交通省経済産業省環境省内閣府文部科学省総務省厚生労働省警察庁国家公安委員会など),市区町村,企業(自転車メーカー,専門店,スーパーなど量販店,駐輪場設計・建設・運営など),関連業界団体,NPO・NGO……。ものすごい数である」(p.5)

ちうように,自転車利用者----それ自体多数であるとともに多様な存在である----を意識・見識なきもんと貶め,官公庁およびその他諸団体を含めた「関係者」の中へ解消したろおもておる。ここから,主権者にして主体的存在たなあかん市民の一翼をなす存在としての自転車利用者を導き出すことはでけへん。

このことは,この本における視点が,協力団体として名を連ね,著者たち自身も参画してん自転車活用推進研究会の性格にも規定され,官僚的な,上から啓蒙するといったスタンスになっとることにもよるちうわけや。こないな視点・立場からのもんやちうことをふまえることで,この本の著者たちのホンネを,文章と行間から読みとれまひょ。

もちろん,商いとして自転車に関わり,経済的利益を追求するっちうことを否定するもんとちゃうんや。合理的範囲において,適切な利潤を得て,ニーズに即した,安全をもたらすに十分な品質を備えた製品やサーヴィスを供給するっちうことは,自転車利用者にとって必要であるだけやのうて,その他の市民にとっても有益なんや。これに反して,グラッシェムの法則「悪貨が良貨を駆逐する」----経済理論としてはあくまで仮説やけど----がまかり通る情況を許したらあきまへん。

また,複数の官公庁が各々の立場から自転車に関わるんは当然やし,問題は,その役割分担や協力,check and balanceのあり方や。なんぼなんでも,これまで日本の行政わい・地方自治体が行ってきよった,世界に類例を見いひん異常な自転車“対策”----自転車および利用者にたいする敵対・対立感情を煽り,排除・対策の対象とし,これにこないなコストを心性面から押し上げ,あまっさえこれを独占するゆうように,飽くなき増大を策す利権とする----は,もはや許されへんもんやちうことを確認しておきまひょ。

あるべき「市民権」とは?

この本を通じて「市民権」(citizenship, civil rights)にたいする認識は欠如してんというてええ(せやなかったら意図的に没却したさかいやろうか)。せいぜいのトコ,実定法的に付与された権利−義務関係の中で保障されるもんちう程度のことをいったつもりどるくらいや。これでは主体的市民の一翼をなす自転車利用者の立場についての議論としては,ごっつうお粗末や。

自転車および利用者にとちうのん「市民権」が,こないなもんでは獲得でけへんことと,されたらあかんことははいうすまでもあらへん。市民にとちう,権利に伴って要求されるんは,それを行使するにあたちうのん責任やし,そのあり方は「不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(日本国憲法第12条)もんなんや。

もちろん付与された義務もあるけど,これが特定の権利と結合したり,代償となっとるわけやのうて,権利・責任と同様,公共の利益のための社会契約の一環やちうことを確認しておきまひょ。

さらに,付与された,あるいは明文化された具体的な義務とともに,ひとりひとりの市民が,その能力や富に応じて,市民社会の向上・発展に貢献するっちうことも,広範な意味で義務なんや。本論でこの本の謬を暴き弊を糾すのも,こないな市民的義務の実践なんや。

引き続き,ここであるべき「市民権」についての,わてたちの認識を確かいなもんにしておきまひょ。

「市民権」とは,通俗的には,単にその存在がようけの人に認知されとることをさす場合もあるけど,当然ここではそないな風なもんを意味してはおらん。一般的には「1)市民としての権利。人権・民権・公権とも同義に用いる。2)市民としての行動・思想・財産の自由が保障され、居住する地域・国家の政治に参加することのできる権利」(広辞苑)なんや。ここではまた,単なる個人としての個別具体的な権利に限定すなあかんでもへん。それをもつ市民が,主体的で多様性を内包した存在やちうことをふまえた上で,環境と共生(concrescence)する内実であることが前提や。

right・Recht・droite

また,何に由来し,何に依拠すべきかについて考えてみまひょ。

英語で「権利」を意味する「right」には「正しい,適当な」といった意味もあるんや。こないな一体性は,コモン=ロー的伝統に根ざしてて,経験的蓄積の中で,あるべき姿を追求してきた成果が,その内実ちうことや。ひとつの方法論として学んでおきまひょ。

ドイツ語で「権利」を意味する「Recht」は「法」の意味をもち,文脈上一体不可分の使われ方をするっちうことも多いちうわけや。しかもその場合の「法」は,歴史的には,中央集権体制を支える強力な権力を導き出す実定法的意味で理解されなあかんいえる。

これにたいして,フランス語の「droite」が示す権利概念は,自然法的であるとともに普遍性を重視するもんなんやし,ヨリ根元的なもんに根ざしてんのや。

こないな比較の中でいうんやったら,「droite」的なもんを,今日的に環境との共生を含めて理解したもんが,ここで「市民権」が依拠するもんとして望ましい権利概念ちうことができまひょ。

これで理解が得られるんか?

有名なイェーリングの『権利のための闘争』にあるんやうに,権利は闘い取られるべきもんとするんはもっともなことや。そやかて,無用の対立や相克の中からそれを行うことは,徒らな消耗をもたらすことが多いもんでもあるんや。こないな場合,真に勝ちとるためには,ただ闘い取るのやなく,対立や相克の根元をを明らかにし,その不当性・不条理性を指摘し,除去,場合によっては止揚せなならへん。この本では,現下の日本における自転車および利用者がおかれとる情況を,バッシングを煽るような一方的言辞をも交えつつ,さらに否定的なもんとして描き出してん。

道路交通法および実際の自転車走行環境から説き起こし,交通法規その他制度の枠内での自転車の位置づけが十分なされておらへんとするんやけど,こら,法令等での明文規定と実際の運用や認知度といった別次元の問題を,いささか混同させたまんまにしてんトコロがあることにもよるちうわけや。こないな混同こそが,自転車および利用者を貶める要因なんや。

この本の記述をなぞるまでもなく,道路交通法上,自転車は「軽車両」に分類され,他の軽車両と同様,明確な規定と遵守すべき交通規則があることやらも明らかにされとる。すなわち法的には,自転車の守なあかん義務は枠組みとして存在してん。運用面でこないな原則を没却したトコに,諸問題や矛盾がつくられとるというてええ。例あげたろか、たとえばやなあ,自転車を「悪者」扱いする口実となっとる,自転車の歩道走行もかくして生みだされたもんや。こないな経緯を,センセーショナルな記述で流してもうておる(p.11-14)。このことを認識した上で,検討を進めていきまひょ。

続いて自転車事故の事例がいくつか挙げられとる。いずれも,自転車が歩行者にたいして加害者になるケースばっかりで,「暴走自転車」なるレッテルを貼ちうのん,歩道を走る自転車にたいする一方的なバッシングも少なからず含まれとる。その一方で,自転車固有の問題である自転車同士の事故や自転車が被害者になるケースといった,自転車事故の大多数についての記述はまるっきし見られへん。明らかに偏った記述や。

自転車の走行空間を確保するっちうことについて説くんやったらば,自動車にたいしては被害者,歩行者にたいしては加害者になるゆう板挟み的情況にあることを正しくとらえ,原則的解決を探ることが必要とちゃうか。そのことを抜きにして,車道・歩道から自転車走行帯を見かけ上分離するやらしただけでは,問題解決にならへんことは明らかや。

どなたはんもがみんなもっとる「交通権」

自転車利用者の権利についちゅうやったら,自転車が移動・交通手段であることを,利用者はもとより,それ以外の市民に認識させることが前提や。言い換えれば,オノレの自由意志に基づいて移動する権利である「交通権」の一手段・形態であることを周知させることや。ずぅぇえんぶの市民が各人の「交通権」を天賦固有のもんとしたかてち,それらを各々のニーズにしたがって多様なもんとなる中で,相互に尊重されなあかんことも示されなあかん。

こないな観点からも,バッシングや対立煽りは有害無益でしかないちうわけや。わてらは,なんぼなんでもそれ以上の分別と見識をもって臨もやないか。

日本の事例が意味するもんは?

この本では,日本における自転車利用情況や関連する法制度やらを紹介してん。それらについて,その意味するトコや背景をも含めて検討していきまひょ。

錯誤と感情論に支えられよった利権の巣窟;“放置”自転車対策

日本の自転車政策について考えるとき,自転車の走行環境の整備については二の次となり,“放置”自転車対策に異常なまでに偏してんことが,最大の特徴となっとるんを看過でけへん。その他の面そやけど,自転車に関しては対策あって政策なしちう現状であることについても,この本で指摘はしてん。やけど,こないな情況を許し支えとる,背後にあるもん----とりわけその対策の担い手のホンネ----については殆ど語るトコはあらへん。本論ではそれをも明らかにしていきまひょ。

先に「暴走自転車」バッシングについて触れたが,自転車にたいする不当な扱いの最たるもんは「“放置”自転車」をおいて他にへんやろ。日本の行政わい−地方自治体による反「“放置”自転車」キャンペーンの喧伝に辟易してん市民は,自転車利用者に限らへんし,多いやろ。こないなもんが,世界で類例を見いひん異常なもんであることを,まずもって確認しておきまひょ。

「全国自転車問題自治体連絡協議会」がもたらした「失われた10年」

日本では自転車対策はあっても政策と呼べるもんが殆どなく,しかもその対策の矛先が集中して向けられとるんは“放置”自転車や。この本でもそないな偏向性自体は一応問題視し,その主たる原因をつくってきた元兇ともいうべき「全国自転車問題自治体連絡協議会」(自称「全自連」,以下「協議会」と略す)について紙幅を割いとる。

その政治性と背景

この「協議会」の成立経緯について,この本では以下のように述べとる。

「東京都練馬区の平野和範・交通対策課課長(当時)によると,平成3(1991)年11月の東京特別区自転車対策担当課長会議の席上,杉並区の金子正・交通対策課長(同)が「全国に同じ悩みを抱える自治体が数多くあるはず。いっそのこと全国的な組織の設立を図り,全国の自治体が一緒になって問題を解決するため,全国の自治体に声をかけてみてはどうか」と提案したという。その金子,平野の両課長は2ヶ月で全国組織を立ち上げようと,全国の自治体を回ることにした……そして,驚いたことに翌平成4(1992)年2月13日,172市区町で全国自転車問題自治体連絡協議会(全自連)が設立された」(p.84)

しかもその当初から,“放置”自転車の「撤去」処分の法的根拠明確化や「自転車駐車場」(自動車のそれと同様の名称を用おることで,,先進諸外国では無料が普通である公営駐輪場の有料化を当然視させるためにつくられよった用語や!)の設置とあわせて,鉄道事業者にたいする「協力義務」の明確化・法制化が公然と画策されとったこと(p.84-85)も述べとる。

まさにこのときが,日本の自転車行政にとちうのん悲劇的転回点といわねばならへんが,この本のいうように,何人かの地方自治体の中堅職員だけで,こないなもんを短期間につくりあげたゆうのも腑に落ちへん。“放置”自転車対策に関わる職員の資質が,その自治体内でほぼ最低クラスちうんは全国的な相場や。そら“放置”自転車対策には専門的知識や熟練,倫理規範やらが殆ど要求されへんか不必要とされることにもよりまひょ。かというて地方自治体における自転車行政が,“放置”自転車対策以外のことを考えつかいないような愚者ばっかりに担われとるとも言い切れへん。こないなタテマエとは別に,“放置”自転車対策に利用価値を見いやし,それを追求してんとぬかすことなんや。そないな追求対象でもっとも判りやすいのが利権としてのほんであり,やや高度な分析をもってしたら,政治的利用に行き当たるちうわけや。

「協議会」が設立されよったんは,バブル経済が崩壊し,それまでのように箱モノを建設して土木利権を次々に創出するっちうことが困難になりよった時期なんや。それに代わるもんとして“放置”自転車対策が利用されるようになりよったのや。しかも従来のハコモノと違い,継続的・反復的にできるもんで,しかもその量的規模を裁量により自由に調整可能であるちう特徴があるんや。また,自治体内で“放置”自転車対策の担当部署が土木部門であることがようけ,とりわけ“放置”自転車対策に猖獗を極めるトコにその傾向が顕著であることが,このことを示唆的に裏付けとる。

またここでいう“放置”自転車対策に関わる地方自治体が,東京都特別区や市町村であることにも用心したいちうわけや。一方,公道のうち主要・幹線道路は国や都道府県が建設・管理するもんで,市区町村が管轄するんはそれ以外なんやし,歩行者・自動車はもとより自転車に関したかて,その走行空間のうち自らの権限が及ぶトコは限られよることになるちうわけや。このこともまた地方自治体が“放置”自転車対策に集中・特化する一因であるとともに,そないな市区町村が“放置”自転車対策を担うこと自体の矛盾と不当性を端的に示すもんやともいえまひょ。

この平野和範・金子正こそが日本の自転車政策(対策)において「失われた10年」ともいうべき,いやそれ以上の後退をもたらした元兇であんねんが,首長レヴェルで“放置”自転車対策に狂奔する自治体となると,ややズレが生じるちうわけや。杉並区は,原水禁運動発祥の地であるやら,伝統的に市民運動の根強い基盤があり,区民の意識もそれだけ全般的に高いトコや。きょうびでこそ「レジ袋税」課税策動がなされるやら,政策も反動化し,自転車対策もエスカレートしてんけど,こら松下政経塾出身のネオコン・山田宏が区長になってから顕著になってきたもんや。

一方,練馬区は,設立以来「協議会」の事務局を区役所内に置き,実権を掌握してきたのみやったらへんし,区長・岩波三郎(当時)が,設立以来区長退任まで会長の座にあり続けるやら,「協議会」を牛耳りよって,日本の“放置”自転車対策の総本山となりやがった。「協議会」の方針やらも,全国各地の自治体が協議して決めるのやなく,練馬区が強硬路線に引きずる形で,エスカレートさせていった部分が大きいちうわけや。

“放置”自転車対策は,政治的キャンペーンやそのもとでの大衆動員の口実としたかて有効性をもつことから,行政わい−地方自治体や首長にとちう,失政や悪政から市民の眼をそらし,上からの組織化と大衆操作,さらには動員をはかる上で,利用価値の高いもんや。さらに首長にとっては,こうして組織化・動員したもんを,自らの政治基盤とし,選挙の際には集票マシンへと転化させることが可能になるのや。また,既存の政治・組織基盤の機能を維持するべく活動させるための大義名分としたかて利用されるちうわけや。“放置”自転車対策の猖獗で知られはる地方自治体の首長の選挙の際,“放置”自転車対策を下支えした特定の政治勢力が,その組織力を活かして首長支援をする例が,いくつも見られはる。

首長による利用は,東京都武蔵野市の土屋正忠や兵庫県明石市の岡田進裕(のぶひろ)やら,“放置”自転車対策の猖獗で知られよる他の地方自治体にも見られ,政治腐敗や不祥事やらが頻発してんトコロでもあることが多いちうわけや。余計なお世話やけど前者は,「協議会」発足以来役員を続けとるケツの人物なんやし,同市は全国で初めて“放置”自転車の返還費用を3000円にし,永くそのプライスリーダーとなってきたトコロであるんや。後者は2001年夏に起こった朝霧駅前歩道橋圧死事故のため,市内外からの非難の中引責辞職したちうわけや。“放置”自転車対策やらの自転車イジメぶりは,政治腐敗のメルクマールなんやし,その一環であるともおる。

豊島区「放置自転車対策推進税」策動にも暗躍

自治体が“放置”自転車対策のコストを,鉄道事業者に転嫁するっちうことは,「協議会」発足当初からの課題であることは先にも触れたちうわけや。東京都豊島区で導入強行が策されとる「放置自転車対策推進税」についても実は,公表後はもとより秘密裡に行われてきた準備段階から,「協議会」(とりわけそれを牛耳る練馬区)が深く関与してきたちうわけや。もっともこないな「協議会」による越権行為的暗躍を,この本が暴露するっちうことはあらへんが。さらには,的はずれ的に自転車利用者と鉄道利用者の対立を煽るようなこの本の言辞は,各々の固有の「交通権」を蹂躙するもんであるといわねばならへん。

この本のように,こないな行政わい−地方自治体と鉄道事業者のコスト転嫁をめぐるせめぎあいゆう枠組み(もちろんこれも重要な側面のひとつなんやし,そのデタラメ性とあほらしさを明らかにする必要があることを忘れてはやったらへんし,その点でもこの本は不十分であるんや)においてとらえようとする中では,この税および,それを強行したろおもておる豊島区の“放置”自転車対策の異常性と問題の本質を見落としてまう。

豊島区わいが,自転車利用者はもとよりそれ以外にたいしたかて,区民・住民の特定の部分に敵対し,これを排除・抹殺するような煽動政治を行っとる(これとあわせて強行制定された「狭小住戸集合住宅税(ワンルームマンション税)」により独居世帯・単身者にたいするもんも同様)ことや,個別のそれにとどまらへん法定外目的税自体の問題も看過でけへんけど,ここではそれを指摘するにとどめておきまひょ。

この本では「放置自転車対策[推進]税」が総務省の同意を得るに至る過程やらのうち,既に報道等で伝えられて,一般にも既知のもんとなっとるもんをなぞったような記述の域を出ておらへんが,こないなこと(もちろんこないなもんを同意した総務省・総務大臣に問題があることはいうまでもへんが)その前に大きな問題があり,ほんで読者の眼をそらす意図すら感じられますわ。

そもそも豊島区が行っとる“放置”自転車対策は,その財政逼迫にも関わらへんし,駐輪場の建設・維持,“放置”自転車の「撤去」やらにおいて,コスト削減の努力をせんばっかりか,あえてそれを嵩ませる形で行ってきたもんなんやし,こないなもんが常識的な意味でのコスト意識と乖離し相容れへんもんであることを,まず指摘せなならへん。

こないな問題は,単にコスト面からのみ問題やからなく,“放置”自転車対策の内実を,区わいが一方的に決めとることにもよるちうわけや。“放置”自転車対策の「根拠」となっとる「自転車法」に拠るとしたかて,鉄道事業者その他の集客施設運営者との協議を求められよるんで,彼らにしてみれば,区わいが一方的に決めたもんを押しつけられはる筋合いはあらへんのや。

さらにいうたら,豊島区わいにとどまらへんし,「協議会」に吹き溜まっとる自治体にとちう,改正後も含めた「自転車法」を妥協の産物として不満とするホンマの理由が,ここにあるちうべきや。すなわち,鉄道事業者にたいする「協力義務」の明確化・法制化が不十分なだけでなく,協議が求められはることで,行政わい−地方自治体の専横的立場が弱められ,それだけ“放置”自転車対策による利権追求が掣肘を受けるさかいや。

一方,鉄道事業者の立場からはどうか。「協議会」が活動してきたこの10年余の期間は,長期的な鉄道利用者の漸次的減少が始まっており,運賃収入もまた漸減を見込まざるを得へん情況にあるんや。その一方で,乗客の利便性・快適性はもとより,安全性の拡充,さらに大都市部では複々線化,高架化・地下化のためやら,ヨリ多大な投資が要求されとる。また,バブル期に投資した関連事業の損失補填や精算が必要なトコもあるやら,どエライ厳しい立場にあるんや。こないなトコに豊島区が億単位の支出を強要するっちうこと自体常軌を逸してんが,加えて他にも追従する自治体が現れれば,鉄道事業者の中には,安全な運行を維持でけへんばっかりか,経営破綻に追い込まれるトコも出かねへん。

鉄道事業者が顧客を確保するためには,鉄道沿線の交通の流れを,鉄道および駅を核としたもんに組織化した上で囲い込むことが必要で,そのもとでの独占的立場を構築することが期待されるちうわけや。沿線開発や関連事業の展開は,その対象を広げ増やす上で有効やけど,組織化と囲い込みがな,顧客確保には結びつかへんし,とりわけ競合する路線がある場合には,他への流出もあり得るちうわけや。

実際,ようけの鉄道事業者がバス事業者でもある中,バス路線は自社鉄道へのアクセス交通機関として独占的地位を確保すべきもんとされ,自転車はそれに競合するもんと認識されることになるちうわけや。そのため私鉄が自らの駅前駐輪場を設置すると,バス料金を勘案して公営駐輪場より高めの料金設定をするっちうことが多いちうわけや。こないな自転車に敵対した形やのうて,自転車をも取り込んや形での顧客確保は可能や。バスにラックをつけて自転車を積載可能にしたり,鉄道車内に自転車を持ち込みやすくするほか,鉄道・バス利用者の駐輪料金をタダもしくは安価にするやら,その方法は国内外に数々あるんや。自転車利用者に負担を与えへんし,公共交通機関である鉄道・バスの潜在的需要の発掘をも可能にするやろう。

もちろん,豊島区わいvs鉄道事業者とか,自転車利用者vs(自転車を利用せん)鉄道利用者やらといった偏狭な対立図式に収斂させて,この問題を見るもんであってはならへん。市区町村といった行政わい−地方自治体が専横的に“放置”自転車対策を行ってきたこと自体が惹起した問題の根元と出発点を踏まえた上で,根底的批判と弾劾を行うもんやないとあかん。

この本の観点とコンテクストから,こないな本質的問題を,多面的見地から読みとることはややこしい。


メトロポリタンプラザの駐輪場 (左,2002.9.25), 池袋西口地下駐輪場の上 (右,2001.2.20)

池袋駅を通る電車内から見える駐輪場がこれ。メトロポリタンプラザは,池袋駅西口の南寄りにあり,東武百貨店や専門店からなるショッピング街の上にオフィスフロアをあわせもつ。そのさらに南側のビックリガードに至る線路沿いの場所に駐輪場をもっとる。一時利用100円,月極1000円と,利用料金が公営駐輪場より安い上に,メトロポリタンプラザで1000円以上の買い物をしたら当日の利用はタダになるちうわけや。豊島区による「放置自転車等対策税」導入策動は,自転車利用者の立場をシカト・抹殺するだけやのうて,こないな商店・鉄道事業者の営業努力をも蹂躙するもんなんや。
豊島区でも一部の駐輪場で短時間の利用をタダにしてんけど,こっちは商店の売上げには寄与してへん。だけやのうてこれが,利用形態の異とる自転車利用者を分断するゆう,政治的意図によるもんやちうことを見逃してはならへん。
池袋駅西口から徒歩数分の,公園の地下を有料駐輪場としたちうわけや。駅前から離れてて利用が便利わるいで,利用者がちびっとやちうことをマスコミに取り上げれれたことがあるんや。やけど,その問題の本質は,区わいによる土木利権の追求,大衆収奪及び都市景観からの自転車の抹殺ちう,自転車敵視政策にあるんや。「豊島区が「放置自転車等対策税」導入しようとしよったん許さんで」・「豊島区がしやがること」参照。

「対策」抜きの「政策」は考えられへんか?

この本でも採り上げた具体的事例の問題点を指摘してんけど,それらが自転車利用政策よりまえに,はじめに“対策”ありきの姿勢から出発してんがやからの矛盾がもたらしたもんであることを看取するんは容易やろ。

「自転車等整理区画」;これではテキ屋まがいのカツ上げや(新宿区)

東京都新宿区が,道路上のスペースを駐輪場所とした「自転車等整理区画」(以下「整理区画」)について,この本では以下のように紹介してん。

「駐輪場を整備する土地が確保できないため,平成12(2000)年4月から緊急避難的暫定的措置として道路上を活用した「自転車等整理区画」という駐輪スペースを設けた……苦しまぎれとは言え,道路の空きスペース活用に途を拓くものと言えるのではないか」(p.59-60)

この中だけでも,新宿区わい(ひいては日本の他の行政わい−地方自治体に当てはまる部分も少なない)による,自転車対策がいかに歪んやもんであるかが窺えまひょ。

そもそも自転車が走行する道路から離れたトコに,都市景観から自転車を隠蔽・放逐すべく,わざわざコストを嵩ませて駐輪場を造り,利用者をはじめとする市民にそのツケを回して,自らの利権としてきたことが,これまでの自転車対策を続けてきたやからなんや。その点からしたら,道路上に駐輪スペースを造るゆう,まるっきしもって当然のことをするんに,これだけの時間がかかったことに,その異常性を見いだせるとともに,ごく一部ながら,やっとちびっと正気に近づいたというてもええやろか。

もっとも,新宿区わいによる自転車対策は猖獗を極めており,この「整理区画」は,その中でもマヌーバー的存在,もしくはガス抜きならぬガス抜きと位置づけられとるといわねばならへん。事実,新宿区わいは,区内の公共交通機関網が発達してん(移動・交通ニーズとは異なることに用心!)ことを口実に,自転車利用に敵対する政策を公然と採っており,こないな姿勢は近年急速にエスカレートしてん。

この本中の写真を見て「整理区画」と他の区営駐輪場の区別を理解するんはややこしいかも知れへん。こら例外的に駐輪場に近い形態のもんで,その他大多数は,歩道(一部は車道)の端に,線を引いて区画であることを示しただけのもんや。これが有料の“施設”であることに,大多数の読者は驚かされるんとちゃうやろか。しかもこら年間契約でしか利用受付されへんし,その周辺が「放置」禁止区域に指定されとることも相まちう,一時もしくは短期間の定期利用の場合は,従来通りの有料駐輪場(「自転車[等]駐車場」,1回100円〜)の利用を強要されるのや。これではもはやテキ屋以下のカツ上げでしかいないちうわけや。

これを評価するとするやろ,ほしたら,反“放置”自転車キャンペーンでよう使われるトコの,“放置”自転車が都市景観上目障りやとのたまう口実の一端を,自ら崩したトコにあんねやろか。

もっとも新宿区では「整理区画」以外にも,これと同様に,ペンキで区画を示したタダで利用できる「自転車置場」も存在するちうわけや。やけどこら,その指定場所からして,露天商やホームレスを放逐するために,自転車を利用したもんやちうことが解るちうわけや。こないなトコからも,ホームレス放逐と連関してん(これが新宿区わいによる自転車対策の特徴であるんや)ことの一端が窺えまひょ。


新宿区の「整理区画」 (左,2003.6.27),靖国通りの駐輪場(右,2005.4.16)

「整理区画」は路上を活用した駐輪スペース。高田馬場駅前東口の早稲田通りにて。
きょうび新宿区わいhはこないな「自転車置場」を設けとるが,ここには従来露天商がいたちうわけや。すなわち露天商の居場所を奪うために自転車を利用しただけのことや。

「乗っチャリパス」は「ボッチャリパス」!?(福岡市)

福岡市交通局が,市営地下鉄の定期乗車券とあわせて市営駐輪場の定期利用をすると合計額から割り引くゆう「乗っチャリパス」について,この本では以下のように紹介してん。

「平成13(2001)年12月から,自転車放置防止,駐輪場利用者の利便向上,さらに市営地下鉄の利用促進という欲張った目標を掲げて,地下鉄の定期券と駐輪場利用券を一体化した共通定期券の発行を開始した。この共通定期券は1ヶ月定期(地下鉄1区)だと,別々に購入するより通勤で900円,通学で600円割り引きされる」(p.101-102)

本題に入る前に,用語に関する問題に若干言及しょう。自転車のことを「チャリンコ」ちうんは,朝鮮語(韓国語)で自転車を意味する「チャヂョンゴ」に由来するちうわけや。古くさかい関西地方では使われとったが,今では全国的に広がっとるようや。さらに縮めて「チャリ」としたり,接頭語が伴う場合もあるが,その使われ方を見ると,「ママチャリ」やらのように一般的な,高級・特殊やない自転車をさす場合がようけ,自転車にたいする蔑称・卑下となることはあっても,尊称・美称として用いられはることは殆どへん。こないな語を公的機関が用おることの是非からして,問題にされねばならへん。

この「乗っチャリパス」は,自転車用と原付自転車(バイク)用とがあるが,いずれも割り引きされるんは地下鉄の運賃やのうて,市営駐輪場の利用料金や。駐輪料金は,本来原付が自転車の約1.5倍の設定やけど,同パスでの割引適用後は同額となるちうわけや。すなわち自転車がほぼ半額にやのにたいし,原付は約1/3になるのや。これでは相対的に原付優遇策であるんみやったらへんし,駐輪料金の根拠に疑問を抱かせるもんなんやし,何よりも,先進国では公営駐輪場はタダであるんが普通である中,公営駐輪場における有料化を既成事実化するもんで,自転車利用者にたいする大衆収奪強化であるといわねばならへん。

こないなキテレツな価格設定の背景には,福岡における公共交通機関の事情があるんや。福岡市営地下鉄は,JR九州および西日本鉄道(西鉄)と相互乗り入れを行っとる一方,全般的にこないな他の公共交通機関と競合する関係にあり,膨大な建設費をかけて,元もと利用ニーズが見込めんところでも構わへんし,見込めるトコについては,既存の鉄道路線に強引に割って入るような形で建設および路線延長されてきたちうわけや。

しかも西鉄は,九州最大の私鉄であるんみやったらへんし,九州最大のバス事業者でもあるんや。こないなバス路線は当然にも,バス単独での利用はもとより,西鉄・JRへの接続に有利になっとる。いわば,バス・鉄道間での顧客の囲い込みができあがっとるのや。

こないな中で,もともと採算面で厳しい情況にある市営地下鉄が,自転車・バイクで駅にアクセスする利用者を,顧客として囲い込むことが,このパスのねらいといまひょ。

蛇足ながらつけ加えるんやったらば,公共交通機関同士の乗り継ぎ割引制度としては,これに限らずまだ改良の余地は多いちうわけや。割引の大幅化とともに,ダイヤ・路線系統を乗り継ぎに便利ええように整備し,その上で,対象を広げつつも簡素で判りやすいもんにせな,利用者増を期待するっちうことはややこしいやろ。

自転車との関係でいうんやったら,タダ駐輪はもちろんのこと,車両への持ち込みもしくは積載(この本でも言及あり)をタダか安価で行うことが期待されるちうわけや。

ヤミ手当やおまへん,念のため(名古屋市)

この本では,名古屋市が行っとる,市職員にたいする自転車通勤奨励策を以下のように紹介してん。

「「環境都市」の実現をめざす名古屋市では職員の通勤手段をクルマから自転車に切り替えようと,平成13(2001)年3月から自転車通勤者の通勤手当(片道15km未満)を,原則従来の2倍とし,5km未満のクルマの通勤者の手当を半額にするという改革を実施した……経済的インセンティブの導入といっても,差し引きゼロだから歳出増につながらないところがミソだ」(p.108)

こないな政策を,昨今一部の自治体で明るみにされて問題になっとるヤミ給与や,一般には理解しがたい特殊勤務手当のたぐいと混同し,指弾する者もおるようやけど,そらとんでもへん間違いや。自転車も,購入時はもとより,安全かつ確実に利用し続けるためには,メンテナンスにも費用がかかる以上,それなりの手当は必要や。こないな施策は,自治体に限らへんし,民間企業でも導入可能やろう。もっとも,平常時はもちろん,非常・緊急時も含めた,本来の業務の中で自転車活用策を行いまへんと,自転車利用者やない市民に,広く理解されることはややこしい面もありまひょ。環境に優しい官公庁なり企業を自任するんやったら,ここまでやなあかんのやりまひょ。

そやかて,通勤手当による自転車優遇策やったら,それを行う事業者の従業員しか恩恵を受けへんことになるちうわけや。また,通勤手当等を支給されへん労働者も少なない。公平性の点では,オランダで行われとる自転車通勤者への所得税控除(p.113)のようなしくみが,望ましいと言えまひょ。

「自転車運転免許証」のファッショ性(荒川区)

今,「自転車運転免許証」なるもんがいくつかの特別区・市で,中には県レヴェルで広がりを見せとる。これを最初に導入したんは東京都荒川区や。この「自転車運転免許証」については,当時の荒川区の政治情況を抜きにして語ることはでけへん。

「荒川区は平成14(2002)年7月から,当時の区長の発案で自転車運転免許証の交付を開始した。その実施母体の荒川区運転免許制度推進協議会は,町会連合会,青少年対策地区委員会連絡協議会,PTA連合会,交通安全協会,小・中学校,区,区教育委員会で構成……免許証を所持していなくても自転車に乗れないことはないが,あくまで免許証取得のための講習会に参加してもらうことに主眼を置いている」(p.126-127)

この本では,ひとまずこないな風に紹介してんが,この部分をちびっと用心して読むだけでも「主眼」が「講習会に参加したかてらうわ」ことやのうて,区内のさまざまな,上から組織された団体やらの機能を発揮させ,あたかも戦時中の国家総動員体制を彷彿させる相互監視体制と情報収集体制の構築にあることが判るちうわけや。

もちろんこら自動車運転免許やらとちごて,運転にあたちうのん取得や携帯を法的に強制されるもんでも公的資格でもへん。そやかて,区内の公立中学校で,これが自転車通学(少子化による学校統廃合で,通学距離が長なる生徒が出てきたさかい,自転車通学を認めるようになりよった)の許可条件となっとるやら,実質的に強制力を持ち始めとる。これを導入した他の地方自治体でも同様の使われ方をしてんトコロが少なないようや。

当時の荒川区長・藤澤志光は,昨2004年夏,汚職事件のため,公選された特別区長として初めて現職のまんま逮捕されたことで,全国にその悪名を轟かせた人物やけど,そのもとでは,「つくる会」教科書の採択や,ジェンダーフリーを否定し男女共同参画に敵対する条例の制定が策されるやら,時代錯誤的・反動的・ファッショ的政策が陸続と追求されており,この「自転車運転免許証」もその一環にほかいならへんのや。

さらにはそれに先かて,その前の区長・藤枝和博が,2000年冬,区内で購入された自転車1台につき1000円を課税する「自転車税」の導入を区議会に諮ったトコ,囂々たる反対に遭い,議案撤回と区長辞職に追い込まれるゆう事件があったちうわけや。荒川区わい内では,これを教訓化し,区民への監視強化と上からの組織化を,「自転車税」シッパイのリベンジとして,策しとったのや。

ファッショ政策やから,「嘘も百回いうたらホンマになる」式のデマ・キャンペーンも,さかんに行われとる。その一例が,盲目的・無批判的にこの本で紹介されとる。

「同区の担当者によれば,この日(2004年1月とするが日付は記載なし:引用者註)を含めて約2500人の区民が講習を受けたが,「受講者は誰も自転車事故を起こしていない」と胸を張る」(p.127)

ちうのがそれや。開始から1年半しか経っておらへん時点やからとか,受講者がまだちびっとのからそないなこともあり得るゆうような解釈で済ませてはならへん。そもそも自動車やったら事故や職務質問の際に免許証をじぇったい確認されるが,自転車の場合は,取得・携帯が義務づけられとるもんやない以上,「自転車運転免許証」の有無が確認されることもなければ,こないな結果が警察や区わいにデータとしてあがってくることもあり得んというだけのことや。もはや子ども騙し以下の言辞ちうほかいないちうわけや。

直接のターゲットは子どもであっても,大人も射程範囲にあるんや。行政わい・権力者の意図に無批判的に盲従すべき存在としての意識を植え付け,(可能的)主権者・主体的市民たなあかん存在としての自覚・覚醒を阻むべく,まずは弱い立場にある子どもをターゲットにし,彼らを大人が既にもっとるトコの主権者・主体的市民としての意識を切り崩す尖兵として活用してゆこうとするもんやからや。

フリーサイクルが悪いんか?(市川市)


市川市のタダ共有リサイクル自転車「フレンドシップ号」(左,2003.9.6),荒川区の共有自転車(フリーサイクル) (右,2004.6.1)

営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線行徳駅前の駐輪場所にて。タダで利用できる点は評価できるが,乗る前に空気圧やブレーキを確認する利用者が多いことから察するに,この整備・管理情況には疑問が残るちうわけや。「TV番組「ごねきの底力」批判」参照。
荒川区わいは,返還さられへんかった「“放置”自転車」を,区内でどなたはんでもタダで利用できる共有自転車(フリーサイクル)とするっちうことを実験的に行ったちうわけや。こら「“放置”自転車」の“対策”を標榜しつつ,「“放置”自転車」が存在し続けることを前提にしてんちう点で,根本的に矛盾したもんや。南千住駅東口にて。「荒川区における実例」参照。

この本では,公営駐輪場の有料化やら,自転車利用者への負担・大衆収奪の増大を,必然視し正当化するような論調が目立つ一方,タダのもん=利用者に問題あり=シッパイ=悪といったようなバイアスがつよかかっとる。こないなバイアスが,日本で行われとるフリーサイクルの事例分析にも反映されており,本来の問題点を隠蔽し,利用者のモラルなるもんへとスリ替えられとる。

千葉県市川市で行われとる「フレンドシップ号」ちうフリーサイクル(共有自転車)について,この本では以下のように紹介してん。

「NPO法人の青少年地域ネット21が引き取り手のない放置自転車の再利用と自転車総量の抑制などを目的に実施している。市川市,警察,東京メトロなどと協力し,放置自転車を譲り受けて小学生に総合学習の時間にペンキで塗り直してもらっている……行方不明になる自転車もあり,郵便配達の際に見かけたら連絡してもらうよう,郵便局に頼んでいるという」(p.162)

そもそもこないな事業は,自転車利用推進のためやのうて,“放置”自転車対策の一環として始められはったもんで,利便性・安全性やらといった,利用者の立場についての視点が欠落してん。“放置”自転車の再利用である以上,“放置”自転車がな存在不可能になるゆう自己矛盾を,初めから抱えたもんや。こないな本質的矛盾は,東京都荒川区のそれにも共通してん。

実物を見ればすぐ判ることやが,子どもが施した彩色は,自転車の駆動・制動の上で,してはならへん部分にも及んどる。こら,自転車走行のしくみについての基本的認識が欠落したもんであるんみやったらへんし,利用者の立場をシカトし,その生命をもてあそんどるに等しおます。指導者(非行少年を更生させる保護司!)に然なあかん見識があれば,自転車に関する交通教育はもとより科学教育・道徳教育のええ機会になり得るかも知れへんが。

まずは事業者側の意識改革のうては,利用者への要求・期待自体がナンセンスとなるちうわけや。フリーサイクルに関するルールやモラルを形成するとするやろ、ほしたら,利用のあり方・実状にしたがちう,時間をかけ,ときには試行錯誤をしながら,漸次相互の合意形成を図っていく必要があるんや。

もちろん,先進国の事例に学ぶことも忘れてはならへん。例あげたろか、たとえばやなあ,ヨーロッパのある都市では,フリーサイクルをデポジット制にしてんトコロがあるんや。日本でも一部の大手スーパーが店内用買物カートに導入してんと同様に,利用時にコインを入れ,返却場所に戻すとそのコインが返ってくるもんや。同地では,市中に乗り捨てられよったフリーサイクルを返却場所にもっていき,コインをもらえることで,子どもん小遣い稼ぎの手段にもなっとる。偏狭な善悪観念に囚われてては出てけぇへん発想や。

外国の事例が意味するもんは?

この本では欧米での自転車利用および政府による自動車中心の交通から転換し自転車利用を推進させる政策について,いくつかの事例を紹介してん。これらについて検討を加えていきまひょ。

ここに挙げられとる諸事例は,欧米における自転車政策としては普通程度のもんで,特に先進的なもんやないことに用心したいちうわけや。人口1人あたり自転車1台と,自転車がもっとも普及しとり,先進的かつ積極的な自転車利用推進政策で知られはるオランダのそれについて,殆ど言及があらへんことからもその一端が伺えよう(ついでに言うたらデンマークも自転車普及では同率)。

もっとも自転車政策では後進国ちうほかいない現下の日本を考えれば,こないな優等生を模範とするより,自らよりやや優れとるぐらい思われる程度のレヴェルのもんを参考にした方が,手っ取りはよ何がしらの成果を期待できると考えてのことなんかも知れへん。著者たちの意図がそこにあったとして,それをひとつの方法といようが,こないな非優等生的事例であっても,日本の現状との落差に驚かされることも少なない。

イギリスの場合では,ロンドンの自転車専用標識や自転車利用地図やらが紹介(p.36-41)されとる。これらは自転車走行空間が確保されとることの証しであるとともに,自転車利用のために新たなもんを建設するんやのうて,既存のインフラを最大限活用する方法として意義をもつ。駐輪ポールやら(p.69-70)も,利便性はもちろん,費用対効果で優れとる。

フランスの場合では,パリでバスレーンを自転車に利用させる例が紹介されとる(p.42-45)。これも一見自転車にとって危険で,バス・自転車ともにお互い邪魔なように思われるが,路線バスと車道を走行する自転車の速度差が小さい,バスは乗降停車時には端に寄り,反対側が広く空くので自転車走行に支障があらへんやら,実際に即して具体的レヴェルで考えれば,共存可能性が高いことが解るちうわけや。

アメリカの場合では,ニューヨークやらの都市で自転車利用地図が用意されとる(p.37,41)ことのほか,市街地に急坂がようけ自転車利用には不向きとも思われるサンフランシスコにおいてさえも,自転車利用にさまざまな便宜がはかられとる(p.42)ことを紹介してん。

また,アメリカの例については,これらとは別の面から,ある意図のもとに紹介してんもんがあるんや。これについては次章に譲りまひょ。

これらをはじめとしてこの本では,都市空間や道路における自転車走行空間の確保,利用しやすく簡素につくられはった駐輪施設,自動車利用から自転車利用への転換を図るやらの自転車利用推進政策といった面からいくつかの例を紹介してん。こないな例が現実のもんとなる理由としては,自転車利用のために,あえて多額の費用をかけて新たなインフラを建設・整備するんやのうて,こないなもんは最小限にとどめ,既存のインフラやらを積極的・効果的に利用するため,経済や環境への負担が極めちびっとのことと,広範な市民の間で,都市空間における自転車の存在が受け容れられとる----それだけ「市民権」(通俗的意味においてであるが)を得とる----ことを示すもんや。

一方で見落とされとる(せやなかったら意識的に没却されとる)もんもあるんや。そのひとつは,バス・地下鉄・路面電車(ようけはLRT)やらの公共交通機関との併用についてや。地下鉄やらの鉄道車両に,折り畳んやり梱包したりするっちうことなく,そのまんまの状態で自転車を持ち込めたり,バスやらに自転車積載用のラックが附いとったりする例が,欧米では数ようけ見られはるのや。この本でも若干言及はあるが,交通手段間の併用・連携ちう観点はやっぱり不十分で,後述の意図との関連で述べられとるにすぎへん。

日本で自転車と公共交通機関との併用というたらpark and ride(これが駅前駐輪「対策」の口実になっとる)や輪行(車両内への自転車持込み。一部の折畳小径車を除き,折畳みもしくは分解の上梱包するっちうことが必須)ぐらいしか想起でけへんやろが,こうしたら自転車・公共交通機関双方の利用拡大,さらには利用者の行動範囲拡大と効率化をもたらすことができるし,「対策」の対象となる駅前駐輪も,それだけななることになるちうわけや。

日本でも鉄道車両への自転車持込が可能なトコロがあるんや。それらはいずれも利用者減少に悩む地方鉄道で,場合によっては存亡の危機からの脱出をかけて,その利用促進を目的としたもんや。

これもひとつの好例やけど,都市部でも現実化の可能性はあるんや。大都市・地方都市・農山漁村の如何を問わへんし,自らが住む地で,バスや鉄道・軌道に自転車を積んで,どないな生活・行動が可能・便利ようなるか,考えてみんのもええやろ。

やや本論からはずれたが,この本において,自転車の利用環境について,他の交通手段(徒歩を含む)との対立させる枠組みでとらえ,その中での自転車の位置づけを図ろうとする著者たちの発想からは,こないなもんについて理解し,説くことがでけへんのも無理からぬこっちゃ。ここでわてたちは,著者たちと陥穽を共有するもんであってはならへんし,ヨリ自由な自らの精神の主人であらねばならへん。

自転車をダシにして欲しがるもんは?

この本で採り上げとる諸異国の例の選択が,恣意的なもんであることを述べたが,その恣意性は,個別具体的なケース自体によるもん以外の理由にもよるちうわけや。それこそがこの本著者たちのホンネちうべきもんや。このことをハッキリと看破しょう。

「政策の総合化と一元化」と題された第七章において,

「わが国で自転車が市民権を得られない最大の理由は,自転車に関する法律,施策,担当部署などがバラバラで,最終的な責任の所在が明確でないことにある。走行空間,駐輪,安全,活用推進,ルール・マナー,各主体の責務などを網羅した政策の総合化と一元化こそ,今,自転車に求められている。世界第三位の保有台数に見合った「自転車社会」を視野に入れ,自転車総合政策を具体化させる時期が来た」(p.169)

てな認識んもと,「わが国における自転車の「現在」を確認」するちうて,

1)走行空間がない
2)機能が発揮されない
3)「放置」が減らない
4)自転車総合政策がない

の4点を挙げて,4点目で

「現在のわが国の自転車行政は,交通安全対策と放置自転車対策のみで,「活用推進」の視点が欠落した貧弱な行政である。自転車を優れた「交通手段」として位置づけ,生活環境全体を向上させる都市交通環境整備の「切り札」として活用する観点に立脚した総合政策を確立すべきである。道路管理者と交通管理者の一元化も欠かせない」(p.171)

としてん。確かに一見,現状確認としては間ちごておらへんし,妥当なもんに思われるが,自転車の安全な走行空間を確保するためとして「自転車歩行者統括官」なるもんを置き,そのもとに自転車政策を一元化するっちうことを,主張してん(p.170-171)ことの意味を見落としてはならへん。連邦法に規定があり,全米32州に専任のそれが配置されており,成果を上げとるとするが,そのことが,自転車利用に資する上で必要不可欠であることを何ら意味するもんとちゃうからや。

そもそもどこの国においても,自転車を管轄する官公庁は複数にわたっており,それらを一元的に統括する存在がんでも,自転車利用に資する政策を実現する上で,何ら問題はあらへん。自転車利用先進国・オランダをはじめとするヨーロッパでは,むしろこないなもんが存在せんのが圧倒的多数な上,ヨリ高水準の政策が現実のもんとなっとるのや。

このことについて,この本で詳述するっちうことは殆どへんが,こないな政策実現において問われるんは,各々の官公庁が,どないな風に分担・連携するかなんやし,さらに忘れてはならへんのが,それらの間で確実にcheck and balanceの関係を機能させることなんや。そないなもんのあり方が政策の質を決定するというてええ。したがって現在および将来の日本に「自転車歩行者統括官」のごときもんはいっさい必要へん。むしろ,権力集中による弊害,さらにはその権力の肥大化と,それが必然的にもたらすトコの利権増大化が強まる分,危険なんやし,ほんで何より,主体的市民の一翼たる自転車利用者の立場や声が,現在以上に反映されにくなるといわねばならへん。こないなことは,日本の現状を一瞥したらどなたはんにでも判ることや。

こないなもんを打ち出してくるトコに,この本著者たちのホンネを,読みとるもんやないとあかん。何故やったら,自転車を「利」・「権」(利益と権力)の対象・手段とするんやったらば,こないな広範な権力集中が,それをもたらす至善の途やからや。

「権」の面だけでなく,「利」の面から附け加えるんやったらば,こないな飽くなき追求が経済的にも弊害をもたらすもんであることを指摘できるちうわけや。持続可能な社会の実現と環境との共生をめざす立場からいうたら,従来の日本で行われてきた,土木利権の飽くなき追求のために次々と創出されてきた公共事業やらのあり方が,高度成長期やバブル経済期やったら,その矛盾を経済成長で吸収し得た部分もあったが,今日的にはそれを許す情況にないんなんやし,今日的課題である持続可能な社会の実現や環境の回復と改善とは,相容れへんもんなんや。

もちろん「自転車法」は代わられはるべし

この本では同法の成立過程を跡づけ,その性格を明らかにするとしてんが,結局のトコ,“放置”対策をを進める自治体−行政わいの観点からの議論の枠内にとどまっとる。こないなこの本の決定的制約にも関わらへんし,自転車法に代わる新法の制定を提起するっちうことの意味について考えてみたいちうわけや。

もちろん現行の「自転車法」は代わられなければならへん。このことはさまざまな立場からおるもんやけど,「妥協の産物」であるがやからにちう言辞から掘り下げて考えていけば,“対策”を担う地方自治体−行政わいにとちうのん不満が,利権拡大の桎梏を意味するっちうことはすぐに解るちうわけや。それに加えて中央省庁レヴェルでのさらなる自転車対策/政策を通じた利権の創出と,政策実現を媒介とした監視・規制の強化への道を開く突破口を,この本がまさに担わんとしてんといわねばならへん。

ともあれ,現状における問題の最大のもんのひとつが,自転車走行区間の確保に殆ど権限と力量があらへん地方自治体(市区町村)が“放置”自転車対策を独占的・専横的に行い,既得権益としてんことにあるんや。まずはこないな「対策」の「法的根拠」をなくし,こないなもんを禁止するっちうことが求められはる。

またあわせて,官公庁間の役割分担をようわかるようにした上で,相互の連携とcheck and balanceが万全に機能する体制を構築する必要があるんや。特定の部分への権限集中がもたらす弊害については,ここで繰り返すまでもへんやろ。

いうまでもなく,市民の一翼をなす自転車利用者の権利の保障がまず第一義に求められはるもんやないとあかん。また自転車利用における権利については,その利用方法・形態が,各々の利用者の目的はもとより,体力・経済的事情やらといった情況が多様なんやし,こないなもとでの多様なあり方を保障するっちうことが必要や。これが自転車利用における「交通権」のあり方の基本や。

また,移動にあたちう,自転車のみの利用の場合もあれば,他の交通機関・手段(徒歩を含む)との併用もあるわけで,他の交通手段・機関へのアクセスにおける便宜もまた,含めたもんであるべきや。こら単に他の移動・交通手段の利用者との摩擦や対立を生じさせへんためでなく,自転車利用の機会を拡大するとともに,広範な交通体系全般の発展に寄与する上で望ましおます。

“対策”を出発点とするもんから,利用者本位へのもんへと,コペルニクス的転回が求められはるんは,この本著者たちの認識はもちろんのこと,現下の日本の自転車利用をめぐる情況全般なんや。

 

ともあれこの本は,良うも悪うも,現在の日本における自転車利用をめぐる情況の一端を示すもんなんや。わてたち一人一人が,自転車利用者であるか否かに関わらへんし,主体的市民としての自覚をもって臨み,その言外や背後にあるもんを洞察するっちうことも含めて読みとることが求められまひょ。

(2005.7.14)

石田久雄・古倉宗治・小林成基 共著,自転車活用推進研究会 協力,リサイクル文化社 2005年2月

自転車活用推進研究会
自転車活用推進研究会(小杉隆委員長)は平成12(2000)年9月,「自転車を有効かつ安全な交通手段として機能させるには,関係省庁および自治体の横断的・総合的な政策の確立が必要」という認識のもとに,内外の自転車政策の現状を調査・研究するとともに,わが国における総合的自転車政策確立のための提言を取りまとめることを目的として設立された。主なメンバーは自転車政策研究者,マスコミ,NGO関係者,自転車通勤者などで,これに関係省庁,自治体担当者,業界関係者などがオブザーバーとして加わっている。
同研究会は平成11(1999)年に国会内に設立された,超党派の衆参国会議員で構成する自転車活用推進議員連盟(小杉隆会長)と連携して,法案の検討,現地視察などを行っている。(この本p.194)

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