書評『自転車市民権宣言』

ホンネは自転車「利」・「権」宣言!?

「都市交通の新たなステージへ」というサブタイトルが附された該書は,自転車を「都市交通の中に明確に位置づける」(p.3)ことを意図し,「「自転車には正当な権利と義務が付与されているのか」という疑論が起こること自体が,この交通手段の置かれた現状を端的に示しているのではないか」(p.3)との問題意識から発しているとのことだ。

問題提起や議論をかかるところから出発せざるを得ないことが,日本の自転車利用をめぐる情況が否定的であることを示すものにほかならず,これを一部分なりとも明らかにすることに,該書のレーゾン・デートルを見いだすべきであろう。しかしながら,自転車および利用者が「市民権」を得ることについては,十分な定見を示したとはいず,むしろその覚醒を予防的に抑止する側面があり,ヨリ強力な権限を付与された,上からの指導の対象にしようとする視点に貫かれたものであるといわねばならない。

京都議定書が発効し,温室効果ガス削減が求められる中,その「第一約束期間である2008〜2012年までが,我が国の自転車にとって,「都市交通」の舞台で脚光を浴びる最後のチャンスではなかろうか」(p.6)とし,空疎な危機感を煽り,冷静な議論の基盤づくりの機会を奪うような論調となっている。むしろそうであればこそ,個別具体的な議論の前に,市民権および環境問題についての深い認識を基盤にした議論が必要不可欠であるといわねばならない。

該書の視点・立場

本題に入る前にまだ確認しておくべきことがある。該書における「自転車関係者」認識と,視点・立場である。

「全国で何千万人という利用者が常時,自転車に乗っている。すべての人が環境や健康や経済のことを念頭において利用しているわけではない。そこには,多様な動機が複雑にからみ合っていることだろう。これに,国の関係省庁(国土交通省経済産業省環境省内閣府文部科学省総務省厚生労働省警察庁国家公安委員会など),市区町村,企業(自転車メーカー,専門店,スーパーなど量販店,駐輪場設計・建設・運営など),関連業界団体,NPO・NGO……。ものすごい数である」(p.5)

というように,自転車利用者----それ自体多数であるとともに多様な存在である----を意識・見識なきものと貶め,官公庁およびその他諸団体を含めた「関係者」の中へ解消しようとしている。ここから,主権者にして主体的存在たるべき市民の一翼をなす存在としての自転車利用者を導き出すことはできない。

このことは,該書における視点が,協力団体として名を連ね,著者たち自身も参画している自転車活用推進研究会の性格にも規定され,官僚的な,上から啓蒙するといったスタンスになっていることにもよる。かかる視点・立場からのものであることをふまえることで,該書著者たちのホンネを,文章と行間から読みとれよう。

もちろん,事業として自転車に関わり,経済的利益を追求することを否定するものではない。合理的範囲において,適切な利潤を得て,ニーズに即した,安全をもたらすに十分な品質を備えた製品やサーヴィスを供給することは,自転車利用者にとって必要であるのみならず,その他の市民にとっても有益である。これに反して,グラッシェムの法則「悪貨が良貨を駆逐する」----経済理論としてはあくまで仮説ではあるが----がまかり通る情況を許してはならない。

また,複数の官公庁が各々の立場から自転車に関わるのは当然であり,問題は,その役割分担や協力,check and balanceのあり方だ。少なくとも,これまで日本の行政当局・地方自治体が行ってきた,世界に類例を見ない異常な自転車“対策”----自転車および利用者にたいする敵対・対立感情を煽り,排除・対策の対象とし,これにかかるコストを心性面から押し上げ,あまっさえこれを独占するというように,飽くなき増大を策す利権とする----は,もはや許されないものであることを確認しておこう。

あるべき「市民権」とは?

該書を通じて「市民権」(citizenship, civil rights)にたいする認識は欠如しているといっていい(あるいは意図的に没却したのであろうか)。せいぜいのところ,実定法的に付与された権利−義務関係の中で保障されるものという程度のことをいったつもりでいるくらいだ。これでは主体的市民の一翼をなす自転車利用者の立場についての議論としては,あまりにもお粗末だ。

自転車および利用者にとっての「市民権」が,このようなものでは獲得できないことと,されるべきでないことはは言うまでもない。市民にとって,権利に伴って要求されるのは,それを行使するにあたっての責任であり,そのあり方は「不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(日本国憲法第12条)ものである。

もちろん付与された義務もあるが,これが特定の権利と結合したり,代償となっているわけではなく,権利・責任と同様,公共の利益のための社会契約の一環であることを確認しておこう。

さらに,付与された,あるいは明文化された具体的な義務とともに,ひとりひとりの市民が,その能力や富に応じて,市民社会の向上・発展に貢献することも,広範な意味で義務である。本論で該書の謬を暴き弊を糾すのも,かかる市民的義務の実践である。

引き続き,ここであるべき「市民権」についての,私たちの認識を確かなものにしておこう。

「市民権」とは,通俗的には,単にその存在が多くの人に認知されていることをさす場合もあるが,当然ここではそのようなものを意味してはいない。一般的には「1)市民としての権利。人権・民権・公権とも同義に用いる。2)市民としての行動・思想・財産の自由が保障され、居住する地域・国家の政治に参加することのできる権利」(広辞苑)である。ここではまた,単なる個人としての個別具体的な権利に限定するべきでもない。それをもつ市民が,主体的で多様性を内包した存在であることをふまえた上で,環境と共生(concrescence)する内実であることが前提だ。

right・Recht・droite

また,何に由来し,何に依拠すべきかについて考えてみよう。

英語で「権利」を意味する「right」には「正しい,適当な」といった意味もある。こうした一体性は,コモン=ロー的伝統に根ざしていて,経験的蓄積の中で,あるべき姿を追求してきた成果が,その内実と言うことだ。ひとつの方法論として学んでおこう。

ドイツ語で「権利」を意味する「Recht」は「法」の意味をもち,文脈上一体不可分の使われ方をすることも多い。しかもその場合の「法」は,歴史的には,中央集権体制を支える強力な権力を導き出す実定法的意味で理解されるべきものといえる。

これにたいして,フランス語の「droite」が示す権利概念は,自然法的であるとともに普遍性を重視するものであり,ヨリ根元的なものに根ざしている。

こうした比較の中でいうなら,「droite」的なものを,今日的に環境との共生を含めて理解したものが,ここで「市民権」が依拠するものとして望ましい権利概念と言うことができよう。

これで理解が得られるか?

有名なイェーリングの『権利のための闘争』にあるように,権利は闘い取られるべきものとするのはもっともなことだ。しかしながら,無用の対立や相克の中からそれを行うことは,徒らな消耗をもたらすことが多いものでもある。こうした場合,真に勝ちとるためには,ただ闘い取るのではなく,対立や相克の根元をを明らかにし,その不当性・不条理性を指摘し,除去,場合によっては止揚しなければならない。該書では,現下の日本における自転車および利用者がおかれている情況を,バッシングを煽るような一方的言辞をも交えつつ,さらに否定的なものとして描き出している。

道路交通法および実際の自転車走行環境から説き起こし,交通法規その他制度の枠内での自転車の位置づけが十分なされていないとするのだが,これは,法令等での明文規定と実際の運用や認知度といった別次元の問題を,いささか混同させたままにしているところがあることにもよる。かかる混同こそが,自転車および利用者を貶める要因なのだ。

該書の記述をなぞるまでもなく,道路交通法上,自転車は「軽車両」に分類され,他の軽車両と同様,明確な規定と遵守すべき交通規則があることなども明らかにされている。すなわち法的には,自転車の守るべき義務は枠組みとして存在している。運用面でこうした原則を没却したところに,諸問題や矛盾がつくられているといっていい。たとえば,自転車を「悪者」扱いする口実となっている,自転車の歩道走行もかくして生みだされたものだ。こうした経緯を,センセーショナルな記述で流してしまっている(p.11-14)。このことを認識した上で,検討を進めていこう。

続いて自転車事故の事例がいくつか挙げられている。いずれも,自転車が歩行者にたいして加害者になるケースばかりで,「暴走自転車」なるレッテルを貼っての,歩道を走る自転車にたいする一方的なバッシングも少なからず含まれている。その一方で,自転車固有の問題である自転車同士の事故や自転車が被害者になるケースといった,自転車事故の大多数についての記述は全く見られない。明らかに偏った記述だ。

自転車の走行空間を確保することについて説くならば,自動車にたいしては被害者,歩行者にたいしては加害者になるという板挟み的情況にあることを正しくとらえ,原則的解決を探ることが必要ではないか。そのことを抜きにして,車道・歩道から自転車走行帯を見かけ上分離するなどしただけでは,問題解決にならないことは明らかだ。

誰もがみんなもっている「交通権」

自転車利用者の権利についていうなら,自転車が移動・交通手段であることを,利用者はもとより,それ以外の市民に認識させることが前提だ。言い換えれば,自分の自由意志に基づいて移動する権利である「交通権」の一手段・形態であることを周知させることだ。すべての市民が各人の「交通権」を天賦固有のものとしてもち,それらを各々のニーズにしたがって多様なものとなる中で,相互に尊重されねばならないことも示されねばならない。

かかる観点からも,バッシングや対立煽りは有害無益でしかない。私たちは,少なくともそれ以上の分別と見識をもって臨もうではないか。

日本の事例が意味するものは?

該書では,日本における自転車利用情況や関連する法制度などを紹介している。それらについて,その意味するところや背景をも含めて検討していこう。

錯誤と感情論に支えられた利権の巣窟;“放置”自転車対策

日本の自転車政策について考えるとき,自転車の走行環境の整備については二の次となり,“放置”自転車対策に異常なまでに偏していることが,最大の特徴となっていることを看過できない。その他の面でも,自転車に関しては対策あって政策なしという現状であることについても,該書で指摘はしている。だが,かかる情況を許し支えている,背後にあるもの----とりわけその対策の担い手のホンネ----については殆ど語るところはない。本論ではそれをも明らかにしていこう。

先に「暴走自転車」バッシングについて触れたが,自転車にたいする不当な扱いの最たるものは「“放置”自転車」をおいて他にないだろう。日本の行政当局−地方自治体による反「“放置”自転車」キャンペーンの喧伝に辟易している市民は,自転車利用者に限らず,多いだろう。こうしたものが,世界で類例を見ない異常なものであることを,まずもって確認しておこう。

「全国自転車問題自治体連絡協議会」がもたらした「失われた10年」

日本では自転車対策はあっても政策と呼べるものが殆どなく,しかもその対策の矛先が集中して向けられているのは“放置”自転車だ。該書でもそうした偏向性自体は一応問題視し,その主たる原因をつくってきた元兇ともいうべき「全国自転車問題自治体連絡協議会」(自称「全自連」,以下「協議会」と略す)について紙幅を割いている。

その政治性と背景

この「協議会」の成立経緯について,該書では以下のように述べている。

「東京都練馬区の平野和範・交通対策課課長(当時)によると,平成3(1991)年11月の東京特別区自転車対策担当課長会議の席上,杉並区の金子正・交通対策課長(同)が「全国に同じ悩みを抱える自治体が数多くあるはず。いっそのこと全国的な組織の設立を図り,全国の自治体が一緒になって問題を解決するため,全国の自治体に声をかけてみてはどうか」と提案したという。その金子,平野の両課長は2ヶ月で全国組織を立ち上げようと,全国の自治体を回ることにした……そして驚いたことに翌平成4(1992)年2月13日,172市区町で全国自転車問題自治体連絡協議会(全自連)が設立された」(p.84)

しかもその当初から,“放置”自転車の「撤去」処分の法的根拠明確化や「自転車駐車場」(自動車のそれと同様の名称を用いることで,先進諸外国では無料が普通である公営駐輪場の有料化を当然視させるためにつくられた用語だ!)の設置とあわせて,鉄道事業者にたいする「協力義務」の明確化・法制化が公然と画策されていたこと(p.84-85)も述べている。

まさにこのときが,日本の自転車行政にとっての悲劇的転回点といわねばならないが,該書のいうように,何人かの地方自治体の中堅職員だけで,かかるものを短期間につくりあげたというのも腑に落ちない。“放置”自転車対策に関わる職員の資質が,その自治体内でほぼ最低クラスというのは全国的な相場だ。それは“放置”自転車対策には専門的知識や熟練,倫理規範などが殆ど要求されないか不必要とされることにもよろう。かといって地方自治体における自転車行政が,“放置”自転車対策以外のことを考えつかないような愚者ばかりに担われているとも言い切れない。かかるタテマエとは別に,“放置”自転車対策に利用価値を見いだし,それを追求していると言うことなのだ。そうした追求対象でもっとも判りやすいのが利権としてのそれであり,やや高度な分析をもってすれば,政治的利用に行き当たる。

「協議会」が設立されたのは,バブル経済が崩壊し,それまでのように箱モノを建設して土木利権を次々に創出することが困難になった時期である。それに代わるものとして“放置”自転車対策が利用されるようになったのだ。しかも従来のハコモノと違い,継続的・反復的にできるもので,しかもその量的規模を裁量により自由に調整可能であるという特徴がある。また,自治体内で“放置”自転車対策の担当部署が土木部門であることが多く,とりわけ“放置”自転車対策に猖獗を極めるところにその傾向が顕著であることが,このことを示唆的に裏付けている。

またここでいう“放置”自転車対策に関わる地方自治体が,東京都特別区や市町村であることにも注意したい。一方,公道のうち主要・幹線道路は国や都道府県が建設・管理するもので,市区町村が管轄するのはそれ以外であり,歩行者・自動車はもとより自転車に関しても,その走行空間のうち自らの権限が及ぶところは限られることになる。このこともまた地方自治体が“放置”自転車対策に集中・特化する一因であるとともに,そうした市区町村が“放置”自転車対策を担うこと自体の矛盾と不当性を端的に示すものだともいえる。

この平野和範・金子正こそが日本の自転車政策(対策)において「失われた10年」ともいうべき,いやそれ以上の後退をもたらした元兇であるのだが,首長レヴェルで“放置”自転車対策に狂奔する自治体となると,ややズレが生じる。杉並区は,原水禁運動発祥の地であるなど,伝統的に市民運動の根強い基盤があり,区民の意識もそれだけ全般的に高いところだ。最近でこそ「レジ袋税」課税策動がなされるなど,政策も反動化し,自転車対策もエスカレートしているが,これは松下政経塾出身のネオコン・山田宏が区長になってから顕著になってきたものだ。

一方,練馬区は,設立以来「協議会」の事務局を区役所内に置き,実権を掌握してきたのみならず,区長・岩波三郎(当時)が,設立以来区長退任まで会長の座にあり続けるなど,「協議会」を牛耳り,日本の“放置”自転車対策の総本山となった。「協議会」の方針なども,全国各地の自治体が協議して決めるのではなく,練馬区が強硬路線に引きずる形で,エスカレートさせていった部分が大きい。

“放置”自転車対策は,政治的キャンペーンやそのもとでの大衆動員の口実としても有効性をもつことから,行政当局−地方自治体や首長にとって,失政や悪政から市民の眼をそらし,上からの組織化と大衆操作,さらには動員をはかる上で,利用価値の高いものだ。さらに首長にとっては,こうして組織化・動員したものを,自らの政治基盤とし,選挙の際には集票マシンへと転化させることが可能になるのだ。また,既存の政治・組織基盤の機能を維持するべく活動させるための大義名分としても利用される。“放置”自転車対策の猖獗で知られる地方自治体の首長の選挙の際,“放置”自転車対策を下支えした特定の政治勢力が,その組織力を活かして首長支援をする例が,いくつも見られる。

首長による利用は,東京都武蔵野市の土屋正忠や兵庫県明石市の岡田進裕(のぶひろ)など,“放置”自転車対策の猖獗で知られる他の地方自治体にも見られ,政治腐敗や不祥事などが頻発しているところでもあることが多い。ちなみに前者は,「協議会」発足以来役員を続けている最後の人物であり,同市は全国で初めて“放置”自転車の返還費用を3000円にし,永くそのプライスリーダーとなってきたところである。後者は2001年夏に起こった朝霧駅前歩道橋圧死事故のため,市内外からの非難の中引責辞職した。“放置”自転車対策などの自転車イジメぶりは,政治腐敗のメルクマールであり,その一環であるともいる。

豊島区「放置自転車対策推進税」策動にも暗躍

自治体が“放置”自転車対策のコストを,鉄道事業者に転嫁することは「協議会」発足当初からの課題であることは先にも触れた。東京都豊島区で導入強行が策されている「放置自転車対策推進税」についても実は,公表後はもとより秘密裡に行われてきた準備段階から,「協議会」(とりわけそれを牛耳る練馬区)が深く関与してきた。もっともこうした「協議会」による越権行為的暗躍を,該書が暴露することはないが。さらには,的はずれ的に自転車利用者と鉄道利用者の対立を煽るような該書の言辞は,各々の固有の「交通権」を蹂躙するものであるといわねばならない。

該書のように,こうした行政当局−地方自治体と鉄道事業者のコスト転嫁をめぐるせめぎあいという枠組み(もちろんこれも重要な側面のひとつであり,そのデタラメ性とばかばかしさを明らかにする必要があることを忘れてはならず,その点でも該書は不十分である)においてとらえようとする中では,この税および,それを強行しようとしている豊島区の“放置”自転車対策の異常性と問題の本質を見落としてしまう。

豊島区当局が,自転車利用者はもとよりそれ以外にたいしても,区民・住民の特定の部分に敵対し,これを排除・抹殺するような煽動政治を行っている(これとあわせて強行制定された「狭小住戸集合住宅税(ワンルームマンション税)」により独居世帯・単身者にたいするものも同様)ことや,個別のそれにとどまらない法定外目的税自体の問題も看過できないが,ここではそれを指摘するにとどめておこう。

該書では「放置自転車対策[推進]税」が総務省の同意を得るに至る過程などのうち,既に報道等で伝えられて,一般にも既知のものとなっているがらをなぞったような記述の域を出ていないが,こうしたこと(もちろんかかるものを同意した総務省・総務大臣に問題があることはいうまでもないが)以前に大きな問題があり,それから読者の眼をそらす意図すら感じられる。

そもそも豊島区が行っている“放置”自転車対策は,その財政逼迫にも関わらず,駐輪場の建設・維持,“放置”自転車の「撤去」などにおいて,コスト削減の努力をしないばかりか,あえてそれを嵩ませる形で行ってきたものであり,こうしたものが常識的な意味でのコスト意識と乖離し相容れないものであることを,まず指摘しなければならない。

こうした問題は,単にコスト面からのみ問題なのでなく,“放置”自転車対策の内実を,区当局が一方的に決めていることにもよる。“放置”自転車対策の「根拠」となっている「自転車法」に拠るとしても,鉄道事業者その他の集客施設運営者との協議を求められるもので,彼らにしてみれば,区当局が一方的に決めたものを押しつけられる筋合いはないのだ。

さらにいえば,豊島区当局にとどまらず,「協議会」に吹き溜まっている自治体にとって,改正後も含めた「自転車法」を妥協の産物として不満とする本当の理由が,ここにあるというべきだ。すなわち,鉄道事業者にたいする「協力義務」の明確化・法制化が不十分なだけでなく,協議が求められることで,行政当局−地方自治体の専横的立場が弱められ,それだけ“放置”自転車対策による利権追求が掣肘を受けるからだ。

一方,鉄道事業者の立場からはどうか。「協議会」が活動してきたこの10年余の期間は,長期的な鉄道利用者の漸次的減少が始まっており,運賃収入もまた漸減を見込まざるを得ない情況にある。その一方で,乗客の利便性・快適性はもとより,安全性の拡充,さらに大都市部では複々線化,高架化・地下化のためなど,ヨリ多大な投資が要求されている。また,バブル期に投資した関連事業の損失補填や精算が必要なところもあるなど,非常に厳しい立場にある。こうしたところに豊島区が億単位の支出を強要すること自体常軌を逸しているが,加えて他にも追従する自治体が現れれば,鉄道事業者の中には,安全な運行を維持できないばかりか,経営破綻に追い込まれるところも出かねない。

鉄道事業者が顧客を確保するためには,鉄道沿線の交通の流れを,鉄道および駅を核としたものに組織化した上で囲い込むことが必要で,そのもとでの独占的立場を構築することが期待される。沿線開発や関連事業の展開は,その対象を広げ増やす上で有効だが,組織化と囲い込みがなければ,顧客確保には結びつかず,とりわけ競合する路線がある場合には,他への流出もあり得る。

実際,多くの鉄道事業者がバス事業者でもある中,バス路線は自社鉄道へのアクセス交通機関として独占的地位を確保すべきものとされ,自転車はそれに競合するものと認識されることになる。そのため私鉄が自らの駅前駐輪場を設置すると,バス料金を勘案して公営駐輪場より高めの料金設定をすることが多い。こうした自転車に敵対した形ではなく,自転車をも取り込んだ形での顧客確保は可能だ。バスにラックをつけて自転車を積載可能にしたり,鉄道車内に自転車を持ち込みやすくするほか,鉄道・バス利用者の駐輪料金を無料もしくは安価にするなど,その方法は国内外に数々ある。自転車利用者に負担を与えず,公共交通機関である鉄道・バスの潜在的需要の発掘をも可能にするであろう。

もちろん,豊島区当局vs鉄道事業者とか,自転車利用者vs(自転車を利用しない)鉄道利用者などといった偏狭な対立図式に収斂させて,この問題を見るものであってはならない。市区町村といった行政当局−地方自治体が専横的に“放置”自転車対策を行ってきたこと自体が惹起した問題の根元と出発点を踏まえた上で,根底的批判と弾劾を行うものでなければならない。

該書の観点とコンテクストから,こうした本質的問題を,多面的見地から読みとることは難しい。


メトロポリタンプラザの駐輪場 (左,2002.9.25), 池袋西口地下駐輪場の上 (右,2001.2.20)

池袋駅を通る電車内から見える駐輪場がこれ。メトロポリタンプラザは,池袋駅西口の南寄りにあり,東武百貨店や専門店からなるショッピング街の上にオフィスフロアをあわせもつ。そのさらに南側のびっくりガードに至る線路沿いの場所に駐輪場をもっている。一時利用100円,月極1000円と,利用料金が公営駐輪場より安い上に,メトロポリタンプラザで1000円以上の買い物をすれば当日の利用は無料になる。豊島区による「放置自転車等対策税」導入策動は,自転車利用者の立場を無視・抹殺するのみならず,こうした商店・鉄道事業者の営業努力をも蹂躙するものである。
豊島区でも一部の駐輪場で短時間の利用を無料にしているが,こちらは商店の売上げには寄与していない。のみならずこれが,利用形態の異なる自転車利用者を分断するという,政治的意図によるものであることを見逃してはならない。
池袋駅西口から徒歩数分の,公園の地下を有料駐輪場とした。駅前から離れていて利用が不便で,利用者が少ないことをマスコミに取り上げれれたことがある。だが,その問題の本質はそれではなく,区当局による土木利権の追求,大衆収奪及び都市景観からの自転車の抹殺という,自転車敵視政策にある。「豊島区による「放置自転車等対策税」導入策動を弾劾する」・「豊島区における実例」参照。

「対策」抜きの「政策」は考えられないのか?

該書でも採り上げた具体的事例の問題点を指摘しているが,それらが自転車利用政策以前に,はじめに“対策”ありきの姿勢から出発しているがゆえの矛盾がもたらしたものであることを看取するのは容易だろう。

「自転車等整理区画」;これではテキ屋まがいのカツ上げだ(新宿区)

東京都新宿区が,道路上のスペースを駐輪場所とした「自転車等整理区画」(以下「整理区画」)について,該書では以下のように紹介している。

「駐輪場を整備する土地が確保できないため,平成12(2000)年4月から緊急避難的暫定的措置として道路上を活用した「自転車等整理区画」という駐輪スペースを設けた……苦しまぎれとは言え,道路の空きスペース活用に途を拓くものと言えるのではないか」(p.59-60)

この中だけでも,新宿区当局(ひいては日本の他の行政当局−地方自治体に当てはまる部分も少なくない)による,自転車対策がいかに歪んだものであるかが窺えよう。

そもそも自転車が走行する道路から離れたところに,都市景観から自転車を隠蔽・放逐すべく,わざわざコストを嵩ませて駐輪場を造り,利用者をはじめとする市民にそのツケを回して,自らの利権としてきたことが,これまでの自転車対策を続けてきたゆえんなのだ。その点からすれば,道路上に駐輪スペースを造るという,全くもって当然のことをするのに,これだけの時間がかかったことに,その異常性を見いだせるとともに,ごく一部ながら,やっと少し正気に近づいたといってもいいだろうか。

もっとも,新宿区当局による自転車対策は猖獗を極めており,この「整理区画」は,その中でもマヌーバー的存在,もしくはガス抜きならぬガス抜きと位置づけられているといわねばならない。事実,新宿区当局は,区内の公共交通機関網が発達している(移動・交通ニーズとは異なることに注意!)ことを口実に,自転車利用に敵対する政策を公然と採っており,かかる姿勢は近年急速にエスカレートしている。

該書中の写真を見て「整理区画」と他の区営駐輪場の区別を理解するのは難しいかも知れない。これは例外的に駐輪場に近い形態のもので,その他大多数は,歩道(一部は車道)の端に,線を引いて区画であることを示しただけのものだ。これが有料の“施設”であることに,大多数の読者は驚かされるのではないだろうか。しかもこれは年間契約でしか利用受付されず,その周辺が「放置」禁止区域に指定されていることも相まって,一時もしくは短期間の定期利用の場合は,従来通りの有料駐輪場(「自転車[等]駐車場」,1回100円〜)の利用を強要されるのだ。これではもはやテキ屋以下のカツ上げでしかない。

これを評価するとすれば,反“放置”自転車キャンペーンでよく使われるところの,“放置”自転車が都市景観上目障りだとのたまう口実の一端を,自ら崩したところにあるのだろうか。

もっとも新宿区では「整理区画」以外にも,これと同様に,ペンキで区画を示した無料で利用できる「自転車置場」も存在する。だがこれは,その指定場所からして,露天商やホームレスを放逐するために,自転車を利用したものであることが解る。こうしたところからも,ホームレス放逐と連関している(これが新宿区当局による自転車対策の特徴である)ことの一端が窺えよう。


新宿区の「整理区画」 (左,2003.6.27),靖国通りの駐輪場(右,2005.4.16)

「整理区画」は路上を活用した駐輪スペース。高田馬場駅前東口の早稲田通りにて。
最近新宿区当局はこうした「自転車置場」を設けているが,ここには従来露天商がいた。すなわち露天商の居場所を奪うために自転車を利用しただけのことだ。

「乗っチャリパス」は「ボッチャリパス」!?(福岡市)

福岡市交通局が,市営地下鉄の定期乗車券とあわせて市営駐輪場の定期利用をすると合計額から割り引くという「乗っチャリパス」について,該書では以下のように紹介している。

「平成13(2001)年12月から,自転車放置防止,駐輪場利用者の利便向上,さらに市営地下鉄の利用促進という欲張った目標を掲げて,地下鉄の定期券と駐輪場利用券を一体化した共通定期券の発行を開始した。この共通定期券は1ヶ月定期(地下鉄1区)だと,別々に購入するより通勤で900円,通学で600円割り引きされる」(p.101-102)

本題に入る前に,用語に関する問題に若干言及しよう。自転車のことを「チャリンコ」というのは,朝鮮語(韓国語)で自転車を意味する「チャヂョンゴ」に由来する。古くから関西地方では使われていたが,今では全国的に広がっているようだ。さらに縮めて「チャリ」としたり,接頭語が伴う場合もあるが,その使われ方を見ると,「ママチャリ」などのように一般的な,高級・特殊でない自転車をさす場合が多く,自転車にたいする蔑称・卑下となることはあっても,尊称・美称として用いられることは殆どない。かかる語を公的機関が用いることの是非からして,問題にされねばならない。

この「乗っチャリパス」は,自転車用と原付自転車(バイク)用とがあるが,いずれも割り引きされるのは地下鉄の運賃ではなく,市営駐輪場の利用料金だ。駐輪料金は,本来原付が自転車の約1.5倍の設定だが,同パスでの割引適用後は同額となる。すなわち自転車がほぼ半額になのにたいし,原付は約1/3になるのだ。これでは相対的に原付優遇策であるのみならず,駐輪料金の根拠に疑問を抱かせるものであり,何よりも,先進国では公営駐輪場は無料であるのが普通である中,公営駐輪場における有料化を既成事実化するもので,自転車利用者にたいする大衆収奪強化であるといわねばならない。

こうした奇妙な価格設定の背景には,福岡における公共交通機関の事情がある。福岡市営地下鉄は,JR九州および西日本鉄道(西鉄)と相互乗り入れを行っている一方,全般的にこうした他の公共交通機関と競合する関係にあり,膨大な建設費をかけて,元もと利用ニーズが見込めないところでも構わず,見込めるところについては,既存の鉄道路線に強引に割って入るような形で建設および路線延長されてきた。

しかも西鉄は,九州最大の私鉄であるのみならず,九州最大のバス事業者でもある。こうしたバス路線は当然にも,バス単独での利用はもとより,西鉄・JRへの接続に有利になっている。いわば,バス・鉄道間での顧客の囲い込みができあがっているのだ。

こうした中で,もともと採算面で厳しい情況にある市営地下鉄が,自転車・バイクで駅にアクセスする利用者を,顧客として囲い込むことが,このパスのねらいといよう。

蛇足ながらつけ加えるならば,公共交通機関同士の乗り継ぎ割引制度としては,これに限らずまだ改良の余地は多い。割引の大幅化とともに,ダイヤ・路線系統を乗り継ぎに便利なように整備し,その上で,対象を広げつつも簡素で判りやすいものにしなければ,利用者増を期待することは難しいだろう。

自転車との関係でいうなら,無料駐輪はもちろんのこと,車両への持ち込みもしくは積載(該書でも言及あり)を無料か安価で行うことが期待される。

ヤミ手当ではありません,念のため(名古屋市)

該書では,名古屋市が行っている,市職員にたいする自転車通勤奨励策を以下のように紹介している。

「「環境都市」の実現をめざす名古屋市では職員の通勤手段をクルマから自転車に切り替えようと,平成13(2001)年3月から自転車通勤者の通勤手当(片道15km未満)を,原則従来の2倍とし,5km未満のクルマの通勤者の手当を半額にするという改革を実施した……経済的インセンティブの導入といっても,差し引きゼロだから歳出増につながらないところがミソだ」(p.108)

こうした政策を,昨今一部の自治体で明るみにされて問題になっているヤミ給与や,一般には理解しがたい特殊勤務手当のたぐいと混同し,指弾する者もいるようだが,それはとんでもない間違いだ。自転車も,購入時はもとより,安全かつ確実に利用し続けるためには,メンテナンスにも費用がかかる以上,それなりの手当は必要だ。こうした施策は,自治体に限らず,民間企業でも導入可能であろう。もっとも,平常時はもちろん,非常・緊急時も含めた,本来の業務の中で自転車活用策を行わないと,自転車利用者でない市民に,広く理解されることは難しい面もあろう。環境に優しい官公庁なり企業を自任するなら,ここまでやるべきだろう。

しかしながら,通勤手当による自転車優遇策であれば,それを行う事業者の従業員しか恩恵を受けないことになる。また,通勤手当等を支給されない労働者も少なくない。公平性の点では,オランダで行われている自転車通勤者への所得税控除(p.113)のようなしくみが,望ましいと言える。

「自転車運転免許証」のファッショ性(荒川区)

今,「自転車運転免許証」なるものがいくつかの特別区・市で,中には県レヴェルで広がりを見せている。これを最初に導入したのは東京都荒川区だ。この「自転車運転免許証」については,当時の荒川区の政治情況を抜きにして語ることはできない。

「荒川区は平成14(2002)年7月から,当時の区長の発案で自転車運転免許証の交付を開始した。その実施母体の荒川区運転免許制度推進協議会は,町会連合会,青少年対策地区委員会連絡協議会,PTA連合会,交通安全協会,小・中学校,区,区教育委員会で構成……免許証を所持していなくても自転車に乗れないことはないが,あくまで免許証取得のための講習会に参加してもらうことに主眼を置いている」(p.126-127)

該書では,ひとまずこのように紹介しているが,この部分を少し注意して読むだけでも「主眼」が「講習会に参加してもらう」ことではなく,区内のさまざまな,上から組織された団体などの機能を発揮させ,あたかも戦時中の国家総動員体制を彷彿させる相互監視体制と情報収集体制の構築にあることが判る。

もちろんこれは自動車運転免許などと違って,運転にあたっての取得や携帯を法的に強制されるものでも公的資格でもない。しかしながら,区内の公立中学校で,これが自転車通学(少子化による学校統廃合で,通学距離が長くなる生徒が出てきたため,自転車通学を認めるようになった)の許可条件となっているなど,実質的に強制力を持ち始めている。これを導入した他の地方自治体でも同様の使われ方をしているところが少なくないようだ。

当時の荒川区長・藤澤志光は,昨2004年夏,汚職事件のため,公選された特別区長として初めて現職のまま逮捕されたことで,全国にその悪名を轟かせた人物だが,そのもとでは,「つくる会」教科書の採択や,ジェンダーフリーを否定し男女共同参画に敵対する条例の制定が策されるなど,時代錯誤的・反動的・ファッショ的政策が陸続と追求されており,この「自転車運転免許証」もその一環にほかならないのだ。

さらにはそれに先だって,その前の区長・藤枝和博が,2000年冬,区内で購入された自転車1台につき1000円を課税する「自転車税」の導入を区議会に諮ったところ,囂々たる反対に遭い,議案撤回と区長辞職に追い込まれるという事件があった。荒川区当局内では,これを教訓化し,区民への監視強化と上からの組織化を,「自転車税」失敗のリベンジとして,策していたのだ。

ファッショ政策ゆえ,「嘘も百回いえば本当になる」式のデマ・キャンペーンも,さかんに行われている。その一例が,盲目的・無批判的に該書で紹介されている。

「同区の担当者によれば,この日(2004年1月とするが日付は記載なし:引用者註)を含めて約2500人の区民が講習を受けたが,「受講者は誰も自転車事故を起こしていない」と胸を張る」(p.127)

というのがそれだ。開始から1年半しか経っていない時点だからとか,受講者がまだ少ないからそういうこともあり得るというような解釈で済ませてはならない。そもそも自動車であれば事故や職務質問の際に免許証を必ず確認されるが,自転車の場合は,取得・携帯が義務づけられているものでない以上,「自転車運転免許証」の有無が確認されることもなければ,かかる結果が警察や区当局にデータとしてあがってくることもあり得ないというだけのことだ。もはや子ども騙し以下の言辞というほかない。

直接のターゲットは子どもであっても,大人も射程範囲にある。行政当局・権力者の意図に無批判的に盲従すべき存在としての意識を植え付け,(可能的)主権者・主体的市民たるべき存在としての自覚・覚醒を阻むべく,まずは弱い立場にある子どもをターゲットにし,彼らを大人が既にもっているところの主権者・主体的市民としての意識を切り崩す尖兵として活用してゆこうとするものだからだ。

フリーサイクルが悪いのか?(市川市)


市川市の無料共有リサイクル自転車「フレンドシップ号」(左,2003.9.6),荒川区の共有自転車(フリーサイクル) (右,2004.6.1)

営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線行徳駅前の駐輪場所にて。無料利用できる点は評価できるが,乗る前に空気圧やブレーキを確認する利用者が多いことから察するに,この整備・管理情況には疑問が残る。「TV番組「ご近所の底力」批判」参照。
荒川区当局は,返還されなかった「“放置”自転車」を,区内で誰でも無料で利用できる共有自転車(フリーサイクル)とすることを実験的に行った。これは「“放置”自転車」の“対策”を標榜しつつ,「“放置”自転車」が存在し続けることを前提にしているという点で,根本的に矛盾したものだ。南千住駅東口にて。「荒川区における実例」参照。

該書では,公営駐輪場の有料化など,自転車利用者への負担・大衆収奪の増大を,必然視し正当化するような論調が目立つ一方,無料のもの=利用者に問題あり=失敗=悪といったようなバイアスが強くかかっている。こうしたバイアスが,日本で行われているフリーサイクルの事例分析にも反映されており,本来の問題点を隠蔽し,利用者のモラルなるものへとスリ替えられている。

千葉県市川市で行われている「フレンドシップ号」というフリーサイクル(共有自転車)について,該書では以下のように紹介している。

「NPO法人の青少年地域ネット21が引き取り手のない放置自転車の再利用と自転車総量の抑制などを目的に実施している。市川市,警察,東京メトロなどと協力し,放置自転車を譲り受けて小学生に総合学習の時間にペンキで塗り直してもらっている……行方不明になる自転車もあり,郵便配達の際に見かけたら連絡してもらうよう,郵便局に頼んでいるという」(p.162)

そもそもこうした事業は,自転車利用推進のためではなく,“放置”自転車対策の一環として始められたもので,利便性・安全性などといった,利用者の立場についての視点が欠落している。“放置”自転車の再利用である以上,“放置”自転車がなければ存在不可能になるという自己矛盾を,初めから抱えたものだ。こうした本質的矛盾は,東京都荒川区のそれにも共通している。

実物を見ればすぐ判ることだが,子どもが施した彩色は,自転車の駆動・制動の上で,してはならない部分にも及んでいる。これは,自転車走行のしくみについての基本的認識が欠落したものであるのみならず,利用者の立場を無視し,その生命をもてあそんでいるに等しい。指導者(非行少年を更生させる保護司!)に然るべき見識があれば,自転車に関する交通教育はもとより科学教育・道徳教育のよい機会になり得るかも知れないが。

まずは事業者側の意識改革なくしては,利用者への要求・期待自体がナンセンスとなる。フリーサイクルに関するルールやモラルを形成するとすれば,利用のあり方・実状にしたがって,時間をかけ,ときには試行錯誤をしながら,漸次相互の合意形成を図っていく必要がある。

もちろん,先進国の事例に学ぶことも忘れてはならない。たとえば,ヨーロッパのある都市では,フリーサイクルをデポジット制にしているところがある。日本でも一部の大手スーパーが店内用買物カートに導入しているのと同様に,利用時にコインを入れ,返却場所に戻すとそのコインが返ってくるものだ。同地では,市中に乗り捨てられたフリーサイクルを返却場所にもっていき,コインをもらえることで,子どもの小遣い稼ぎの手段にもなっている。偏狭な善悪観念に囚われていては出てこない発想だ。

海外の事例が意味するものは?

該書では欧米での自転車利用および政府による自動車中心の交通から転換し自転車利用を推進させる政策について,いくつかの事例を紹介している。これらについて検討を加えていこう。

ここに挙げられている諸事例は,欧米における自転車政策としては普通程度のもので,特に先進的なものでないことに注意したい。人口1人あたり自転車1台と,自転車がもっとも普及しており,先進的かつ積極的な自転車利用推進政策で知られるオランダのそれについて,殆ど言及がないことからもその一端が伺えよう(ちなみにデンマークも自転車普及では同率)。

もっとも自転車政策では後進国と言うほかない現下の日本を考えれば,かかる優等生を模範とするより,自らよりやや優れているぐらいと思われる程度のレヴェルのものを参考にした方が,手っ取り早く何がしらの成果を期待できると考えてのことなのかも知れない。著者たちの意図がそこにあったとして,それをひとつの方法といようが,かかる非優等生的事例であっても,日本の現状との落差に驚かされることも少なくない。

イギリスの場合では,ロンドンの自転車専用標識や自転車利用地図などが紹介(p.36-41)されている。これらは自転車走行空間が確保されていることの証しであるとともに,自転車利用のために新たなものを建設するのではなく,既存のインフラを最大限活用する方法として意義をもつ。駐輪ポールなど(p.69-70)も,利便性はもちろん,費用対効果で優れている。

フランスの場合では,パリでバスレーンを自転車に利用させる例が紹介されている(p.42-45)。これも一見自転車にとって危険で,バス・自転車ともにお互い邪魔なように思われるが,路線バスと車道を走行する自転車の速度差が小さい,バスは乗降停車時には端に寄り,反対側が広く空くので自転車走行に支障がないなど,実際に即して具体的レヴェルで考えれば,共存可能性が高いことが解る。

アメリカの場合では,ニューヨークなどの都市で自転車利用地図が用意されている(p.37,41)ことのほか,市街地に急坂が多く自転車利用には不向きとも思われるサンフランシスコにおいてさえも,自転車利用にさまざまな便宜がはかられている(p.42)ことを紹介している。

また,アメリカの例については,これらとは別の面から,ある意図のもとに紹介しているものがある。これについては次章に譲ろう。

これらをはじめとして該書では,都市空間や道路における自転車走行空間の確保,利用しやすく簡素につくられた駐輪施設,自動車利用から自転車利用への転換を図るなどの自転車利用推進政策といった面からいくつかの例を紹介している。こうした例が現実のものとなる理由としては,自転車利用のために,あえて多額の費用をかけて新たなインフラを建設・整備するのではなく,かかるものは最小限にとどめ,既存のインフラなどを積極的・効果的に利用するため,経済や環境への負担が極め少ないことと,広範な市民の間で,都市空間における自転車の存在が受け容れられている----それだけ「市民権」(通俗的意味においてであるが)を得ている----ことを示すものだ。

一方で見落とされている(あるいは意識的に没却されている)ものもある。そのひとつは,バス・地下鉄・路面電車(多くはLRT)などの公共交通機関との併用についてだ。地下鉄などの鉄道車両に,折り畳んだり梱包したりすることなく,そのままの状態で自転車を持ち込めたり,バスなどに自転車積載用のラックが附いていたりする例が,欧米では数多く見られるのだ。該書でも若干言及はあるが,交通手段間の併用・連携という観点はやはり不十分で,後述の意図との関連で述べられているにすぎない。

日本で自転車と公共交通機関との併用といえばpark and ride(これが駅前駐輪「対策」の口実になっている)や輪行(車両内への自転車持込み。一部の折畳小径車を除き,折畳みもしくは分解の上梱包することが必須)ぐらいしか想起できないだろうが,こうすれば自転車・公共交通機関双方の利用拡大,さらには利用者の行動範囲拡大と効率化をもたらすことができるし,「対策」の対象となる駅前駐輪も,それだけなくなることになる。

日本でも鉄道車両への自転車持込が可能なところがある。それらはいずれも利用者減少に悩む地方鉄道で,場合によっては存亡の危機からの脱出をかけて,その利用促進を目的としたものだ。

これもひとつの好例だが,都市部でも現実化の可能性はある。大都市・地方都市・農山漁村の如何を問わず,自らが住む地で,バスや鉄道・軌道に自転車を積んで,どのような生活・行動が可能・便利になるか,考えてみるのもいいだろう。

やや本論からはずれたが,該書において,自転車の利用環境について,他の交通手段(徒歩を含む)との対立させる枠組みでとらえ,その中での自転車の位置づけを図ろうとする著者たちの発想からは,かかるものについて理解し,説くことができないのも無理からぬことだろう。ここで私たちは,著者たちと陥穽を共有するものであってはならないし,ヨリ自由な自らの精神の主人であらねばならない。

自転車をダシにして欲しがるものは?

該書で採り上げている諸外国の例の選択が,恣意的なものであることを述べたが,その恣意性は,個別具体的なケース自体によるもの以外の理由にもよる。それこそが該書著者たちのホンネというべきものだ。このことをハッキリと看破しよう。

「政策の総合化と一元化」と題された第七章において,

「わが国で自転車が市民権を得られない最大の理由は,自転車に関する法律,施策,担当部署などがバラバラで,最終的な責任の所在が明確でないことにある。走行空間,駐輪,安全,活用推進,ルール・マナー,各主体の責務などを網羅した政策の総合化と一元化こそ,今,自転車に求められている。世界第三位の保有台数に見合った「自転車社会」を視野に入れ,自転車総合政策を具体化させる時期が来た」(p.169)

との認識のもと,「わが国における自転車の「現在」を確認」するとして,

1)走行空間がない
2)機能が発揮されない
3)「放置」が減らない
4)自転車総合政策がない

の4点を挙げ,4点目で

「現在のわが国の自転車行政は,交通安全対策と放置自転車対策のみで,「活用推進」の視点が欠落した貧弱な行政である。自転車を優れた「交通手段」として位置づけ,生活環境全体を向上させる都市交通環境整備の「切り札」として活用する観点に立脚した総合政策を確立すべきである。道路管理者と交通管理者の一元化も欠かせない」(p.171)

としている。確かに一見,現状確認としては間違っておらず,妥当なものに思われるが,自転車の安全な走行空間を確保するためとして「自転車歩行者統括官」なるものを置き,そのもとに自転車政策を一元化することを,主張している(p.170-171)ことの意味を見落としてはならない。連邦法に規定があり,全米32州に専任のそれが配置されており,成果を上げているとするが,そのことが,自転車利用に資する上で必要不可欠であることを何ら意味するものではないからだ。

そもそもどこの国においても,自転車を管轄する官公庁は複数にわたっており,それらを一元的に統括する存在がなくても,自転車利用に資する政策を実現する上で,何ら問題はない。自転車利用先進国・オランダをはじめとするヨーロッパでは,むしろかかるものが存在しないのが圧倒的多数な上,ヨリ高水準の政策が現実のものとなっているのだ。

このことについて,該書で詳述することは殆どないが,かかる政策実現において問われるのは,各々の官公庁が,どのように分担・連携するかであり,さらに忘れてはならないのが,それらの間で確実にcheck and balanceの関係を機能させることである。そうしたもののあり方が政策の質を決定するといっていい。したがって現在および将来の日本に「自転車歩行者統括官」のごときものはいっさい必要ない。むしろ,権力集中による弊害,さらにはその権力の肥大化と,それが必然的にもたらすところの利権増大化が強まる分,危険であり,そして何より,主体的市民の一翼たる自転車利用者の立場や声が,現在以上に反映されにくくなるといわねばならない。こうしたことは,日本の現状を一瞥すれば誰にでも判ることだ。

こうしたものを打ち出してくるところに,該書著者たちのホンネを,読みとるものでなければならない。何故なら,自転車を「利」・「権」(利益と権力)の対象・手段とするならば,かかる広範な権力集中が,それをもたらす至善の途だからだ。

「権」の面だけでなく,「利」の面から附け加えるならば,かかる飽くなき追求が経済的にも弊害をもたらすものであることを指摘できる。持続可能な社会の実現と環境との共生をめざす立場からいえば,従来の日本で行われてきた,土木利権の飽くなき追求のために次々と創出されてきた公共事業などのあり方が,高度成長期やバブル経済期なら,その矛盾を経済成長で吸収し得た部分もあったが,今日的にはそれを許す情況にないのであり,今日的課題である持続可能な社会の実現や環境の回復と改善とは,相容れないものである。

もちろん「自転車法」は代わられるべし

該書では同法の成立過程を跡づけ,その性格を明らかにするとしているが,結局のところ,“放置”対策をを進める自治体−行政当局の観点からの議論の枠内にとどまっている。かかる該書の決定的制約にも関わらず,自転車法に代わる新法の制定を提起することの意味について考えてみたい。

もちろん現行の「自転車法」は代わられなければならない。このことはさまざまな立場からいるものだが,「妥協の産物」であるがゆえにという言辞から掘り下げて考えていけば,“対策”を担う地方自治体−行政当局にとっての不満が,利権拡大の桎梏を意味することはすぐに解る。それに加えて中央省庁レヴェルでのさらなる自転車対策/政策を通じた利権の創出と,政策実現を媒介とした監視・規制の強化への道を開く突破口を,該書がまさに担わんとしているといわねばならない。

ともあれ,現状における問題の最大のもののひとつが,自転車走行区間の確保に殆ど権限と力量がない地方自治体(市区町村)が“放置”自転車対策を独占的・専横的に行い,既得権益としていることにある。まずはかかる「対策」の「法的根拠」をなくし,こうしたものを禁止することが求められる。

またあわせて,官公庁間の役割分担を明確にした上で,相互の連携とcheck and balanceが万全に機能する体制を構築する必要がある。特定の部分への権限集中がもたらす弊害については,ここで繰り返すまでもないだろう。

いうまでもなく,市民の一翼をなす自転車利用者の権利の保障がまず第一義に求められるものでなければならない。また自転車利用における権利については,その利用方法・形態が,各々の利用者の目的はもとより,体力・経済的事情などといった情況が多様であり,かかるもとでの多様なあり方を保障することが必要だ。これが自転車利用における「交通権」のあり方の基本だ。

また,移動にあたって,自転車のみの利用の場合もあれば,他の交通機関・手段(徒歩を含む)との併用もあるわけで,他の交通手段・機関へのアクセスにおける便宜もまた,含めたものであるべきだ。これは単に他の移動・交通手段の利用者との摩擦や対立を生じさせないためでなく,自転車利用の機会を拡大するとともに,広範な交通体系全般の発展に寄与する上で望ましい。

“対策”を出発点とするものから,利用者本位へのものへと,コペルニクス的転回が求められるのは,該書著者たちの認識はもちろんのこと,現下の日本の自転車利用をめぐる情況全般である。

 

ともあれ該書は,良くも悪くも,現在の日本における自転車利用をめぐる情況の一端を示すものである。私たち一人一人が,自転車利用者であるか否かに関わらず,主体的市民としての自覚をもって臨み,その言外や背後にあるものを洞察することも含めて読みとることが求められよう。

(2005.7.14)

石田久雄・古倉宗治・小林成基 共著,自転車活用推進研究会 協力,リサイクル文化社 2005年2月

自転車活用推進研究会
自転車活用推進研究会(小杉隆委員長)は平成12(2000)年9月,「自転車を有効かつ安全な交通手段として機能させるには,関係省庁および自治体の横断的・総合的な政策の確立が必要」という認識のもとに,内外の自転車政策の現状を調査・研究するとともに,わが国における総合的自転車政策確立のための提言を取りまとめることを目的として設立された。主なメンバーは自転車政策研究者,マスコミ,NGO関係者,自転車通勤者などで,これに関係省庁,自治体担当者,業界関係者などがオブザーバーとして加わっている。
同研究会は平成11(1999)年に国会内に設立された,超党派の衆参国会議員で構成する自転車活用推進議員連盟(小杉隆会長)と連携して,法案の検討,現地視察などを行っている。(該書p.194)

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