練馬区による報道弾圧を弾劾する

自転車“対策”への批判的報道にたいする言いがかり的弾圧を許すな
猖獗極める異常な反動的自転車“対策”を直ちに中止・撤回せよ
「全国自転車問題自治体連絡協議会」を即時解散せよ

日本の都市における自転車利用の現状が悪化の一途をたどっていることについては,たびたび述べてきたが,その元兇とも言うべき存在である練馬区が,報道弾圧という暴挙に出た。しかもその内実たるや,言いがかりとしか言いようのない愚劣なものであるが,その問題性と暴虐ぶりを自ら明らかにしている。

報道の概略と問題


「東京新聞」記事「自転車取り返し『窃盗』 撤去後 手数料不払いで」 (2009.10.6)

練馬区当局が言いがかりをつけた記事。練馬区当局による“放置”自転車“対策”を,市民の立場から扱った 点で画期的なものだ。“対策”それ自体を否定・批判しているわけではなく,その行き過ぎを問題視したに過ぎないものだが,この記事を契機に「議論を呼びそう」な情勢に発展することを阻止すべく,予防弾圧を謀ったと言わねばならない。

2009年10月6日付「東京新聞」24面・25面 の「こちら特報部」に「自転車取り返し『窃盗』 撤去後 手数料不払いで」という記事が掲載された。見開き2面にわたっているが,写真・図表をあわせて紙面1面の4割ほどに相当する面積だ。記事の見出しはこうだ。

 自転車を盗まれたと思ったら、放置自転車として撤去されていた。その自転車を集積所から持ち出すと、警察に連れていかれて窃盗容疑者に−。何ともトホホな騒動に東京都練馬区の女性(41)が見舞われた。女性にも非はあるが、調べてみると誰もが陥る可能性のあることが分かった。放置自転車問題は自治体にとって深刻だが、処罰のやり方や程度が議論を呼びそうだ。

この記事にたいして,同8日,練馬区当局が「訂正の申し入れ」なる言いがかりをつけたのであった。

盗難−撤去の経緯

女性が自転車を止めたとされるレストラン,ジョナサン下赤塚店 (2010.1.5)

川越街道沿いにあり,地下鉄の駅入口にも近い。一応練馬区所在だが,板橋区境が近くに迫っている。店側が女性の自転車を路上に放棄した可能性もあるが,駐輪場の利用情況からして,他の来店者が放り出した可能性も高い。

記事によれば,2009年4月8日,練馬区の女性(41)が,「地下鉄の駅」に向かうべく「近くのレストランの駐輪場」に駐輪,翌9日に「とめた場所から消えていた」ので,「盗まれたと思い,交番へ被害届を出そうと数度行ったが不在で,提出できたのは5日後だった。入れ違いに,練馬区が業務委託している同区都市整備公社から「放置自転車として撤去・保管している」と告げるはがきが届いた」というものだ。

駐輪した場所から消えた経緯についての説明はない。「レストランの駐輪場」は私有地であり,“放置”自転車として「撤去」することはできず,もしそのようなことをすれば,不法侵入なり窃盗と言うことになる。練馬区側は「訂正の申し入れ」のなかで,記事中の「駐輪場」の文言を「駐車場」とすり替えたうえで,「川越街道の歩道上」で「撤去」したとしている。文言のすり替えによって利用者側の問題や落ち度をでっち上げて描き出しただけで,これでは区側の不法行為が行われた可能性を否定したことにはならない。一般にこういった場合,悪意の第3者によって移動させられたというのが,もっとも可能性が高いところだが,その場合,乗り捨てたとしても,窃盗なり占有離脱物横領の罪を免れるわけでも,未遂に終わったとみなすこともできない。もしレストラン側によって「放置」されたとしても,やはり不法行為であり,この場合,まず遺失物として届け出たうえで処置することが求められる。現場の情況からして,他の利用者が押しのけて放出した可能性が高い。

この場合に限らないが,私有地や駐輪場にあった自転車が,他者によって“放置”禁止とされた場所に放出されたことから「撤去」されるといったことが,しばしば問題として採り上げられており,とりわけ“放置”自転車対策に猖獗を極める自治体において顕著だ。対策を進める地方自治体−行政当局側の一方的・独善的判断による暴走の所産である。

記事にするのであれば,かかる点の確認をすべきであった。その過程で取材を拒否したり,虚偽の回答を寄せたりする当事者がいれば,その旨を明らかにしてもよかったのではないか。それだけでも「犯罪者」がつくられる構図とその不当性の一端を明らかにすることができる。

地下鉄赤塚駅附近の駐輪場。練馬区営(左),板橋区内民営(右)(2010.1.5)

練馬区側にある唯一の駐輪場は,川越街道から南側入った路地に面しているうえ,入口は街道に背を向けているため,非常に解りにくい。定期利用者優先の運営のため,一時利用はその可否すら解りにくいうえ,屋上をそれに充てているため,短時間・短期の利用は出し入れにも不便。利用もかなり少ない模様。“放置”自転車対策をかりに肯定するにしても,一時利用の料金を無料もしくは安価にするなり,出入りに便利な階下を利用できるようにするべきだろう。
おなじ街道上の板橋区側にある駐輪場。5時間まで50円で利用できるが,PASMO・SUICA利用では40円になる。長時間の利用ではかえって割高になる上,通勤・通学者が要する駐輪時間を考えれば,この時間設定は良心的というにはほど遠い。地下鉄関係企業が運営しているためであろうか,実質的には交通機関利用者にたいする割引となっているともいえる。東武東上線下赤塚駅周辺も含め,板橋区側には数カ所に駐輪場があり,設置主体や形態も異なり,料金体系もさまざまだ。これらの中から,利用目的にあわせて利用する駐輪場を選択することは可能だが,いずれも有料。

練馬区内を走っている地下鉄といえば,後発ながら区内での走行距離ではまず都営大江戸線で,東京メトロ有楽町線と地下線である西武有楽町線も練馬区内を走っている地下鉄だが,大江戸線同様,これらの線のほとんどは,区内では大きな道路と並行していない。例外的なのが地下鉄赤塚駅附近の川越街道だ。だがこの附近の川越街道は板橋区との区境であり,道路も半分は板橋区に属し,同線と並行している東武東上線ともあいまって,交通のメインは板橋区側にある。地下鉄赤塚駅附近一帯および川越街道のうち,練馬区に属するのはごく一部だ。

問題のレストランも一応は練馬区だが板橋区境のすぐそばであり,「撤去」したと称する場所が練馬区側かどうかも疑問が残るものであり,検証すべきところだが,それ以上に注意しなければならないのが,練馬区当局が,以前から,自治体の境界附近や複数の自治体にまたがっていたりする場所での“放置”自転車「対策」を,その強権化のみならず,利権拡大の手段として利用すべく,画策してきたことだ。それについては10年以上前から練馬区当局の文書にも見られるが,この言いがかりの中にも,その意図が見てとれよう。

この附近一帯のうち一部しかない練馬区で起こった事件であれば,それ自体がすでに悲劇だ。またその真偽如何に関わらず,練馬区が介入してきたところが悲劇であった。

「集積」と返還における問題

利用者がなにがしらの目的のために駐輪している自転車を一方的に“放置”自転車とみなすことはもとより,それを「撤去」(これは本来固定物にたいする用語だ)して「移送」(これは犯罪容疑者の身柄を移す場合の用語だ)したうえで「集積」(これではゴミ同然の用語だ)することと,かかる用語をもってすることそれ自体が不当であると言ってしまえばそれまでだが,その「集積」における問題についてみていこう。


平和台自転車「集積」所 (2010.1.5)

地下鉄有楽町線が走っている道路から入った,ゴルフ練習場の向かいにある。作は,隣接する駐輪場より高めで有刺鉄線がある程度の違いだ。強制収容所や危険物保管場所のごとき物々しさとまではいえないという点では「オープンな」ものだろう。「集積」された自転車は,「撤去」場所と月日を記した札があるので,それを手がかりに自転車を見つけることになる。

保管場所を練馬区では「集積」と称しているが,同じ呼称を用いる他の自治体同様,自転車および利用者にたいする蔑視姿勢は顕著だが,必ずしもゴミ同然の粗略な扱いをしているとは限らない。その保管と返還に努めるべきことが,“放置”自転車の「撤去」を正当化する根拠とされる法令においてすら要求されているからだ。中には,わざと利用者に要求する返還費用を高める口実のために,あるいは返還されなかった自転車を処分する際の価格を高めるべく,コストをかけた「集積」所も存在するが。実際,こうした保管場所に使われることが多いのは,廃校などの遊休施設や,過剰につくられたり料金が高額であったりして利用されない駐輪場などであって,“放置”自転車の保管場所に使うために新たに用地を取得したりして確保するすることはそれほど多くない。ともあれこうした「集積」所は,必要以上にコストを嵩ませることは多くなく,練馬区においても,その点は然りだ。

その一方で,利用者に強要する返還費用は高額化している。そのため,返還費用が払えなかったり,自転車の購入価格や時価からして費用を出して返還を求めることが見合わなくなったりすることが増えており,かかる点からも問題だ。自治体側が費用回収に加え懲罰効果を期待してのものだが,法令では要した費用に基づいて返還費用を要求することは認めていても(自治体側が,根拠なく恣意的に,自転車対策に要した費用なるものを,キャンペーン的に喧伝するのはそのためでもある),それを超える費用の徴収は認めていない。まして懲罰的な高額の費用の要求や,刑罰を科すことも認めていない。

いわゆる自転車法は,こうした自転車対策を正当化する根拠(この強権化策動において練馬区の果たした犯罪的役割は大きい)とされる一方,これに一定の枠をはめ歯止めとする面もある。この事件のようなものは,自治体−行政当局が,その歯止めを突破し,暴走しようとするものでもあるのだ。

ところが,この報道では,他の自治体との比較までして,「集積」所における「持ち出し」防止策という観点から,問題にしてしまっている。かかる観点が,この事件はもとより,“放置”自転車対策一般からして,「持ち去り防ぐ工夫も必要」などとすることが,問題の本質からそれたものであることを,確認しなければならない。事件の舞台となった「集積」所を「とてもオープンな造りだ」と評することで,いかなる問題提起をするつもりであったのだろうか。それへ練馬区側の反論もそれ以上に低劣なものではあるが。盗人は臓物を丁重に保管し,持ち主に取り返されたり,他の盗人に盗られたりせぬように,“放置”自転車対策から生じる利権をしっかり確保せよと,言っているに等しい。

その点では,女性が相談している弁護士の認識も怪しい。自転車所有者にして利用者であるこの女性の「所有権」が,不動・絶対のものであることは当然だが,一方その「占有権」はどうなのだろうか。この弁護士の認識では「「占有権は駐輪した段階ではレストランに,撤去後には区公社に移っている。争点は,女性が区公社に「無断で」自転車を持ち出した,といえるかどうかだ」とのことだが,駐輪された段階でレストラン側に占有権が発生するというのであれば,その占有権か適切に行使されたかが問題にされなければならない。またその占有権が,直接的かつ適切に,区公社(“放置”自転車の「撤去」を請け負う区の外郭団体で,このほか区営駐輪場の管理も独占的に請け負い,練馬区当局による自転車対策全般にわたる利権を,区当局の別働隊として独占する)に移ったといえるのかについても,同じく問題にされなければならない。この点は,法解釈以前に,事実関係の確認がなされていないのであるから,それ抜きで結果論だけを問題にすることはナンセンスだ。

だが,所有権の絶対という大原則からしても,それだけではこの女性の行為が正当化されるわけではない。権利を侵害された者が,司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすことを自力救済(じりょくきゅうさい)というが,現代の民事法では例外を除きこれが禁止されているからだ。逆に言えば,自力救済が認められないからと言って,この場合の占有に正当性があることには,まったくならないことも,確認しておかねばならない。

問題は,持ち出したのが「無断で」あるか否かではなく,占有者が断らねばならない相手なのかどうかなのだ。

地方自治体−行政当局による“放置”自転車対策において,それ自体としてペナルティーを課すことは認められていない。そうであるが故に,あらゆる機会・手段を利用して,しゃにむに犯罪者に仕立てることで,その強権化を謀っているのが,暴戻なる練馬区当局なのだ。

「犯罪者」を生みだしたのは?

地方自治体−行政当局が行う“放置”自転車対策の正当性はもとより,この件に関しては,各当事者による事実確認に瑕疵があり,出発点的には,それによってこの女性が「犯罪者」にされようとしているといえる。だがそれだけで「犯罪者」が生みだされるものでもない。この事態は,練馬区当局による強権的自転車対策と警察権力の暴走がもたらしたものだ。

警察権力の暴走と報復

ここではまず,女性を「犯罪者」扱いした直接の主体である警察権力についてみていこう。そもそも,“放置”自転車対策は,刑事罰の対象でないうえに,交通政策や法規とも別のところでなされているものだ。よって警察の仕事でもなければ,介入の余地も本来ないものだ。ここで警察が介在すること自体がおかしいと言ってしまえばそれまでだが,これも別の見方をすれば,自治体−行政当局の暴走の一因ともいえるのだが,ここでは,警察側が,無自覚的にそれに引きずられたところから,問題が複雑化したと言ってもいい。

練馬区には東部だけでも練馬署と光が丘署と2つも本署がある一方,その中間の地域では,交番も限られ,それも不在がちだ。本署・交番および警察官の配置に偏りがあるといえる。この件で女性の被害届の提出−受理が遅れたのは,彼女に落ち度があったのではなく,こういった一般的事情の反映だ。またこの件では,被害現場が区境近くであるとから,どこの警察署の管轄なのかも問題となる余地もある。ともあれこれが警察が女性を「犯罪者」に仕立て上げる前提となった。被害届を遅らせた一方,女性の個人情報はしっかり受け取ったのだ。

ただここで注意しなければならないのは,警察側がはじめから女性を犯罪者に陥れようとしたわけではないことである。遅らせたとはいえ被害届を受理した以上,この女性を被害者として扱うべきことは当然だが,この女性が自力救済を図ったことによって,その前提が崩されたのである。被害届をうけて捜査した上で,「集積」所から彼女の自転車を押収し返還するのが,こうした場合の,警察がとるべきもっともあるべき対処法だ。こういった対応を警察に期待することは,現実には難しいため,自力救済を図るか,区にたいして異議申し立てをするなり,司法的手段を別途もしくは並行してとることが,現実的選択肢となってしまう。

もっともこの件では,女性が行った自力救済の内実が,場当たり的で中途半端なものであったことから,その立場や正当性にたいする説得力を弱め,結果として警察権力につけいる隙を与えたと言わねばならない。

警察が被害者である市民の期待や信頼にこたえられないことによって,「犯罪者」をつくり出してしまうという構図が見えてくる。

これについては,警察が当初自力救済を図った女性を「微罪処分」にしようとしたことに関しても同様だ。もっとも「微罪処分」と言っても罪に問われ刑罰を科されるわけではなく,「犯罪」とすべき事案が存在するものの刑罰を科す必要がないと,警察段階で判断するものだ。罪に問われない,刑罰を科されないと言っても,裁判を経て無罪判決を得る,検察官が起訴しない(不起訴・起訴猶予)といったものがあるが,「微罪処分」は,それらの前提としての送検も行わず,警察段階ですませるというもので,前2者より軽い,簡便な方法だ。

通常,かかる程度のものであれば任意聴取ですませるものだ。身許や所在が解っていて,逃亡や証拠湮滅の恐れもない以上,身柄を拘束したりしないのは当然だが,「午前2時」という,通常の社会通念からして適切とは言い難い時間帯に自宅に警察官が行くというのは,通常のこの程度の犯罪容疑者として扱うにしても明らかに行き過ぎたものだ。指紋採取や写真撮影にまで及んだにいたっては,警察が「微罪処分」とする程度の扱いを前提としていたかも疑問が残る。

こうして「理不尽さへの怒りがこみ上げてきた女性は,所長あてに抗議文を提出した」ところ,警察側はさらなる「理不尽さ」をもってこたえた。この間の一連の事態への居直りと自己正当化を図る一方で,練馬区側(形式上は直接の担い手である公社)に被害届を出させ,「窃盗」事件として扱う口実を得て,女性をして「犯罪者」たらしめる体制を再構築した。

被害届を出させたところで,これまでの女性にたいする扱いが行き過ぎであったことにはかわりはなく,その後呼び出し状をもってしたことで,事実上その行き過ぎを認めたと言っていいだろう。また,事情聴取の行われ方,とりわけ女性の聴取内容の任意性が確保されているかについても,十分な注意と検証が必要だ。警察でデタラメな捜査が行われても,検察や裁判の段階で明らかにされ,結果事なきを得ることもあるが,警察内部で完結させる「微罪処分」の場合,外部による再検証の機会がなく,身に覚えがないものや,罪に該当しないことにたいしても,刑事罰を科さないとの甘言に籠絡され,「微罪」に陥れられてしまう危険が高い。

以上のように,この件で女性を「犯罪者」に仕立て上げようとした直接の担い手は警察権力=警視庁光が丘警察署である。しかもそれを,市民の期待と信頼を裏切り,自らのメンツを保持するためだけに行ったのだ。第1には自力救済を図ったことへの報復として,第2には抗議文を提出したことへの報復として,市民に権力の刃を向けたのだ。

国家権力と対峙する政治犯のごときであれば,用いうる限りのいっさいの権力と暴力装置をもってすることがむしろ普通であるが,この一件はそのような次元の問題ではないにもかかわらずである。もっとも権力行使の根拠の正当性がなかったり脆弱であったりする場合,足許をすくわれないよう,暴戻な権力行使にうって出ることもある。この一件の警察の動きもそういったところから出てきていると言っていい。

以上のように,この事件において,主婦を「犯罪者」に仕立て上げた直接の担い手は警察権力であったが,それは自らのメンツという,問題の本質とは別のところから行ったものだ。そうであるが故に,広範に起こりうる警察権力の暴走による人権侵害にたいして,市民として厳しい監視と弾劾の姿勢を堅持しなければならない。

練馬区当局による強権的自転車対策

しかしながら問題の発端も根源も,練馬区当局による強権的自転車“対策”にあることを忘れてはならない。これなくして警察権力の暴戻なる盲動もあり得ない。

問題の本質と根源としての自転車“対策”

先に述べた,練馬区当局による“放置”自転車の「集積」方法が問題の本質ではない。費用を徴収して返還すること,その費用が高額に上っていることのほうがヨリ大きな問題だ。だがその前に,一方的に「“放置”自転車」なるレッテル貼りをして,“対策”の対象とし,その存在を非合法化してきたところの“放置”自転車“対策”そのものが問題であり,これこそが問題の根源であり本質であることを,ハッキリと確認しておかなければならない。

自転車“対策”の全般を通じて,有料化と高額化を行うことは,ひとえに大衆収奪であるばかりか,“対策”の対象としての自転車の利用に掣肘を加える意図でなされているものであり,かかる手法が,問題の拡大再生産をもたらしているのである。従来無料であった公営駐輪場を有料化したため,問題としての,また“対策”の対象としての“放置”自転車が生みだされたところからも,それは端的に示されている。

自転車“対策”は無能と錯誤がもたらした悲劇

世界に類例を見ない異常な,日本の地方自治体−行政当局による自転車“対策”は,主権者−市民が自由意志に基づいて移動する当然の権利を没却するという,自転車および利用者をまったくないがしろにしたものであり,それへの排他的・敵対的感情を煽り立てることで,利権の増大化を謀ってきたものであった。

そもそも日本の都市における“放置”自転車“対策”は,他では見られない異常なものである。その異常性は,利用者の合目的的行動の所産として認識するところから出発しない,錯誤に満ちた認識から“対策”がなされるという本質的問題とともに,その個別具体的方法というやり方的次元における問題のそれぞれの次元において,批判・弾劾されなければならないものだ。

主権者の基本的人権をないがしろにするのみならず,交通政策(policy;「対策(countermeajure)」とは別だ!)全般とも対立し,その健全な発展を阻害し,環境問題への対応とも相容れないものとなっている。

こうした“対策”は,政策立案力の致命的欠如ともあいまって,利権増大化追求へと趨ったことから,自転車および利用者にたいして経済的負担・犠牲を強要するものとなり,その口実として,福祉切り捨てにたいして用いられたところの「受益者負担」なる詭弁を弄したのであった。偏狭な即自的感覚を利用した煽情的言辞を,大本営発表よろしく流布し,戦中の国家総動員体制を彷彿させるがごとき大衆動員をももってして,強権的・一方的に,“対策”の対象と位置づけ,排他的・敵対的姿勢で臨み,あまっさえこれを利権化するなど,猖獗を極めてきた。

こうした自転車対策それ自体が,練馬区をはじめとする,日本の地方自治体−行政当局の無能と錯誤がもたらした悲劇なのだ。自転車利用者にとどまらないすべての市民の力で弾劾し,今まさに終止符を打たせるものでなければならない。

全国自転車問題自治体連絡協議会を解体せよ

練馬区当局による強権的自転車“対策”が,この事件の根底にあるのはもちろんのことだが,その猖獗ぶりがもたらす害悪は,練馬区にとどまらず,他の自治体にも及んでいる。

しかもその強権化を進める中で,他の東京都特別区をはじめとする全国各地の地方自治体を糾合し,さらなる利権の増大化のため利用しているのが全国自転車問題自治体連絡協議会なるものだ。その準備段階から事務局を独占し,これを牛耳り,その先頭になったのが練馬区なのだ。練馬区当局による件の言いがかりの中でも全国自転車問題自治体連絡協議会の名前が持ち出されていることからも,その一端をうかがい知ることができる。

冗長な名称とあわせて「全自連」なる略称を僭称するこの団体の独善性・犯罪性および胡散臭さについては,別稿を参照していただきたい。

そして何より,練馬区当局による自転車“対策”が,根源的に誤った,犯罪性と錯誤に満ちたものであるとともに,それを押し隠すべく強権化に突き進み,その結果,市民をして「犯罪者」たらしめたものに他ならない。

あわせて,こうした強権的自転車“対策”を全国的に拡大せしめた犯罪的組織・全国自転車問題自治体連絡協議会を解散させ,自転車“対策”から離れ,主権者の自由意志に基づく移動ニーズから出発し,地域事情に即した交通政策の一環として,自転車政策を構築し実現させるものでなければならない。

報道のあるべき立場と姿勢は?

これまで,新聞のみならずテレビ等のマスメディアにおいては,地方自治体−行政当局の反“放置”自転車キャンペーンの大本営発表的な言辞を垂れ流す伝声管の役割に甘んじたりするなどして,自転車“対策”に盲目的に加担したり,自転車および利用者にたいする敵対感情を一方的に煽り立てるような記事や番組を制作したりするものが多く,わが都市生活改善ボランティアでもたびたび批判・弾劾してきた。最近では悪質なものは少なくなったとはいえ,根絶にはいたっていない。残念ながら,これが日本の報道界の一般的水準であるといわねばならない。

「東京新聞」記事の画期的意義と限界

件の「東京新聞」記事「自転車取り返し『窃盗』 撤去後 手数料不払いで」についていうならば,かかる現状からして,現下行われているところの“放置”自転車“対策”にたいして,曲がりなりにも問題意識を持って採り上げて記事にしたことの意義は大きい。さらには,日本の地方自治体−行政当局のなかで,自転車“対策”を強権化させ,自転車イジメの総本山である練馬区を採り上げたことの意義もこれまた大きい。

こうした画期的意義にたいして,自らの立脚点を強固にすることが不十分であったことに,その限界をみてとらねばならない。

問題の根源と本質に迫れ!

そもそもこの記事は,練馬区と警察権力によって,不当にも犯罪者に仕立て上げられようとしていた女性のおかれていた情況から出発したため,地方自治体−行政当局が行う“放置”自転車“対策”のやり方の次元において論うことや,警察権力の介入を追うことが中心となり,いきなり本質論に向かうことは難しいものの,その視点や切り口によっては,“放置”自転車“対策”そのものがもつ問題と矛盾という本質を突くことは可能であった。また,自転車“対策”から離れて,警察権力の暴走やそれに伴う人権侵害について,市民の立場から告発し警戒させるものとして,掘り下げることによって,意義のある記事となることも可能であったろう。

瑣末な事実関係の確認不足はともかく,問題意識とともに,それを現実化させるためには,権力との対峙が必要であることを,ジャーナリストとして充分に自覚しなかったために,根源と本質を前にして及び腰になってしまったのだ。

この場合むしろ,この記事に権力者然とした練馬区当局の言いがかりの愚劣さによって,むしろ問題の本質を自己暴露したといっていいだろう。

なぜ正論が通らないのか?

この記事においてさらに惜しむべきは,もっとも問題の本質に近い内容が,この女性をめぐる経緯をたどる中から導き出されてきたものではなく,写真や図表も含めかなりの紙面を使いながらも,その末尾に附された「デスクメモ」という短文において示されているに過ぎないことだ。記事本文は当然にも取材に当たった記者2名の手になるものだろうが,「デスクメモ」は,実際の取材に当たっていないと思われる「デスク」の手によって書かれたものだ。

その内容が記事の質を一定程度高めていることは間違いないが,同時にこうした構成が説得力の限界を導いているともいえる。この部分を改めて確認してみよう。

放置自転車は本当にに迷惑だが、駅前の駐輪場が満杯で途方に暮れることがある。自治体は街頭指導員を雇って自転車を排除するより、住民の数だけ駐輪場を増やしたらどうか。駐輪料金の徴収も時代に逆行している。脱ガソリンの自転車乗りはエコ推進者だから、住民税を還付すべきだ。

この部分のはじめの一文だけは問題だ。そもそも「放置自転車」というものの定義が曖昧で,実際地方自治体−行政当局によって“対策”の対象とされるか否かが市民的利害を左右するわけだが,これもまた行政当局側の一方的な裁量によって決められてしまうものだ。そのことが問題なのだ。また「迷惑」という感覚が,いかに作られるのかについての分析も省察もない。これまた,利権の増大化のために,“対策”の対象の飽くなき拡大を謀るためのプロパガンダの所産だ。曖昧な定義を無批判的にもってし,即自的感覚の次元から出発したものでしかない。だがその出発点と拠って立つところの省察を行うことで,問題の本質にたどり着くものだ。

だがそのあとについては,交通政策はもとより環境政策としても自転車および利用者といった範疇にとどまらず,いっさいの市民にとっても,いずれももっともなことだ。正論といってもいいだろう。同時に,いやそれ以前に,当然にも現実化しているべき,かかるものが現実化することなく,そうした声も無視されてきたことについて,その原因を掘り下げた分析が必要だ。

自転車利用のニーズについては,“放置”自転車の返還費用や公営駐輪場の有料化・高額化によって,利用を抑制したところをもって,行政当局側は言うのである。従って市民の本来の自転車利用のニーズを大幅に下回らせたものなのだ。これが「区の見解と異なる」なる妄言の本質だ。

こうした正論に反する愚策を強権化してきたところに,練馬区当局による自転車“対策”の犯罪的本質があるのだ。

“対策”には仮借なき弾劾を,政策は市民の立場から

今回の事件をもたらした根本的原因が,練馬区当局による強権的自転車“対策”にあり,自転車利用のニーズを,主権者である市民の合目的的行動の所産とみなすところから出発するのではなく,もっぱら“対策”の対象と位置づけ,排除することを,飽くなき利権の追求において強権化させ,これが自転車および利用者の利害と敵対する,当局側の倒錯と愚策の所産であることは明らかだ。

こうしたものが総体として“対策(countermeajure)”にあることを,その反人民的本質を暴き出し,仮借なく弾劾し,その阻止・廃止を勝ちとってゆくものでなければならない。あわせて確認しなければならないのは,こうした対策(countermeajure)”が「政策(policy)」とは峻別されねばならない,まったく異質で背馳するものであることだ。したがって,その内実如何を問わず,およそなにがしらの「政策」を提起するのであれば,“対策”という立場・観点から離れたところから,なされるものでなければならない。

このことを報道の中からつかみ取り明らかにすべきであった。それがまさに市民の立場からの政策を提起する出発点なのだ。

(2010.3.7)

参考

練馬区における実例「全国自転車問題自治体連絡協議会」を解体せよ
日本地方自治体の自転車“対策”と「全国自転車問題自治体連絡協議会」
TV番組「ジカダンパン」批判TV番組「妙案コロシアム」批判

うさんくさいなぁ「全自連」・3 HARA Hideki's Blog

自転車取り返し『窃盗』 撤去後 手数料不払いで 24面25面 2009/10/06 東京新聞
放置自転車の返還にかかわる10月6日付け東京新聞朝刊記事の訂正の申し入れについて 2009/10/08 練馬区